『誰も知らない志村けん』 ~志村最後の新境地「志村どうぶつ園」創世秘話・志村の「素」と「家族」に迫った佳作ドラマ
落語家・立川志らく論 ~人物・騒動・発言・弱点・文春砲・修羅場の人!
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追悼、志村けん論 ~志村けん&ドリフは70年代には万人に愛されてなどいない! PTAワースト常連だった!!
(文・田中雪麻呂)
(2020年4月16日脱稿)
NHKが生放送を中断し、ニュースセンターからその訃報を伝えた。
タレント、マツコ・デラックスが、恩人と慕うその人の急逝を聞き、珍しく仕事を休んだ。
「コロナ、うしろ、うしろ!」とふざけていたネット民が「ステキな笑いをありがとう」と豹変した。
杉良太郎が彼の実兄の元に直接赴き、故人への弔辞を述べた。
週刊誌『AERA(アエラ)(´20、4/13号)』朝日新聞出版刊(ASIN:B086C5JK76・ASIN:B0861WMPZ9)が「志村、なぜ逝(ゆ)くの。」のキャッチで追悼特集を組んだ。
前記の出来事はその混乱の中で起こった一部である。彼の後輩のお笑いタレントたちは、ほぼ気の利いたコメントはできなかった。
爆笑問題の太田光が「みんな(志村さんの)遺族みたいなものだから。」と、さすが的確に状況をくみ取っていた。
志村は、3/16(月)の昼前から倦怠感を覚え、番組収録を中止。そのまま自宅で休養していたが、同月20日(金・祝)に、東京済生会中央病院に入院する。病状は悪化の一途を辿り、23日(月)夜に国立国際医療研究センターに転院、この段階でコロナウィルス陽性が判明し、既に人工呼吸器を使える状態でなく、エクモ(ECMO=体外式膜型人工肺)なる、人工心肺装置を使用開始。しかし治療の甲斐無く、29日(日)の夜に亡くなる。
感染症で亡くなったため、その火葬も病院指定のところで行われ、遺族も骨上(こつあ)げにすら立ち会えなかったという。
志村けんとザ・ドリフターズは1970年代には万人に愛されてなどいない! PTAワースト常連だった!!
志村けんは、1974(昭和49)年に当時でも国民的スター「ザ・ドリフターズ」の正式メンバーとなり、以来最晩年までお笑いスターとして大活躍、芸能界に君臨してきた。
筆者のドリフ・デビューは独特だ。
彼らのコントではなく、小学校低学年時分に、ある歌唱のトリコになった。
その作品は「ドリフのバイのバイのバイ(´76)」。
ザ・ドリフターズの10枚目のシングル・レコードであり、志村けん加入後、初めてリリースされた曲である。オリコン最高位は90位。
大正時代に流行した「東京節(とうきょうぶし)」のメロディに乗せて、ハイテンポで大人の日々のちょっとした悲恋を歌い上げるという代物。メイン・ボーカルは加藤茶。
何が良かったって、内容とか何とかよりもそのギミック(仕掛け)が最高だった。
加藤茶の甘い歌声をジャマするかのように、志村やドリフで長くリーダーを務めたいかりや長介らが、
「ドウ ザ ハッスル!」
「ウワーオ!」
「ゲロッパ!」
「ダイナマイツ!」
と、ソウルフルな合いの手をノリノリで入れてくる(イントロの僅かな間にも、5つも入っていて圧倒される)。
志村加入以前にはなかった趣向(しゅこう)だから、やはり志村けんのアイディアなのだと思う。
筆者は、ジェームス・ブラウンもR&B(リズム&ブルース。1940年代のアメリカで黒人を中心に勃興した音楽ジャンル)も当時知らなかったが、
「あ、これはカッコいい!」
と雷にうたれたように体が震えた。
成人したあとにまた聴く機会があったが、別な意味で体が震えた。これは方程式がそのまま過ぎだし、カブれ過ぎだろう(笑)。
以来、志村けんはこれを覚えてしまい、オチに困ると語尾をソウルフルに高音でシャウトするクセがついたと思われ(笑)、彼の揺るぎないアイデンティティーになるのと同時に彼のコンプレックスになる(実は地声が低いのでトークの時に陰鬱に聞こえる)というアンビバレンツな状況を呈する(笑)。
志村けんが人気絶頂のまま逝去したために、
「孤高のコント師」
「いぶし銀のお笑い職人」
と高次に纏(まと)めることでマスコミ的には終結した。
志村もそう言われるのにやぶさかでなく、自身でもそのように晩年は振る舞っていたから、それで良いのだとは思うが、老若男女隔てない普遍的な笑いが、彼の持ち味かと問われるといささか微妙だ。
筆者は昭和40年代生まれだから、ザ・ドリフターズの番組が大人気だった一方、ある層に如何(いか)に嫌悪され、悪し様(ざま)に言われていたか、強く刷り込まれている。
志村けんの演じるコントの住人は、オカマ(ゲイ)にせよ、怪老人にせよ、アクが強い。
志村が加入する前と後では、ザ・ドリフターズのコントがまるで変わってしまっている。
志村は設定の面白さに加え、笑いのポイントをひと乗せふた乗せして来る。
オカマ役で言うなら、杉良太郎のポスターが必ず貼ってあったり、劇中のショー・タイムが作り込んであったり、
「冗談よ。オカマは冗談が好きなのさ。」
といった台詞がリアルだったりと、引き出しが多い。
いきおい、相手役を務めるいかりやのリアクションが冴えて来る。
志村は放送作家には出せない独特の弾け方をする。その代わり、不発の場合は無残この上ない。
だから同世代で
「ドリフの番組をいつも家族みんなで楽しく見ていた。」
などと軽々(けいけい)に言う人を筆者はあまり信用しない(笑)。
CMや映画のキャッチ・フレーズのパロディ、シモネタ、内輪ウケ、顔オチ(変顔)などの悪ふざけの笑い、そして猟奇趣味、残酷描写なども含めてザ・ドリフターズはやってきたし、そのすべてが彼らを代表する表現手法だと著者は僭越ながら思う。
それは、志村けんの師匠であり、ザ・ドリフターズのリーダー(3代目)でもある、いかりや長介(1931~2004)の哲学とも深く関わっている。
そのあたり、ザ・ドリフターズの看板TV番組だったTBSで毎週土曜日夜8時から1時間枠で放映されていた『8時だョ! 全員集合(1969~85)』のメイン・プロデューサー、居作昌果(いづくり よしみ)の著した『8時だョ! 全員集合伝説(´99)』(双葉社刊・ISBN:4575290165、´01に二葉文庫化・ISBN:4575711950)と、そのアンサー本ともいうべき、いかりや著の『だめだこりゃ―いかりや長介自伝(´01)』(新潮社刊・ISBN:4104430013、´03に新潮文庫化・ISBN:4101092214・ASIN:B0099FKXEA)に詳しい。
居作はこの著書で、大スターのドリフターズに一切忖度(そんたく)することなく、プロデューサーとしての彼らとの日々を赤裸々に書き綴っている。ちなみに、その書の発表時もザ・ドリフターズは現役の大スターだから、居作はサムライだ。
後年、いかりやと志村の仲が険悪になる時期が生じるが、これを居作はお笑い芸人の「ボケとツッコミ」の生理だと説き、ふたりともツッコミ体質だから角(つの)突き合わせるのも当然、と断じている。慧眼(けいがん)と言うほかない。
いきおい、グループを大切に考えるあまりに、内外のスタッフを物の数として扱わぬように「見える」リーダーのいかりやを糾弾するカタチになる。
いかりやはいかりやで、自分の当時の思いを自著で、居作の著書に比べ極めて冷静に申し述べている。
いかりやはこの書を「遺(のこ)す」つもりで書いているとおぼしい。メンバーが、エピソードトークとして媒体で発したコメントすら、敢えて野暮を承知で、優しい口調で「訂正」してゆく。
居作が糾弾したカタチになった相手が、ほぼいかりや個人に集中した点を鑑(かんが)みても、(その当時の)ザ・ドリフターズの権勢はいかりやそのものであり、求めているチャートは、彼自身しか理解の及ばないものであった。
相反することだが、いかりやは語りたがりでもあった。
現役時代は激務の中、小さなビジネス雑誌のインタビューにも応じている。
彼が必ず口にするのは、自身も含めてのグループの、芸能人としての能力の低さであった。
「演技みたいなものは無理で、我々に出来るのは体戯(たいぎ)くらい」
が口癖だった。
「ドリフは子供向けの笑いと言われるが、我々は何もお子様向けだけに作っているつもりはないんです。」というのも良く言っていた。
しかし、これは上手い言い回しで、ザ・ドリフターズが子供たちの熱気を上手く味方につけていたことは、世代人として見ていて明らかだった。
だから子供の歓心を買うためには、採算度外視で何でもやっていた。
パトカーを舞台に突っ込ませ、歌舞伎よろしく水をふんだんに使い、映画スターをコントに起用した。
巨大な着ぐるみを登場させ、幽霊屋敷からお化けが出現し、森や豪邸のセットがメロディーを奏で、全裸の男児らが走り回った。
もうひとつの超人気番組『ドリフ大爆笑』 ~共演の伊東四朗・小松政夫がドリフに与えた影響!
ザ・ドリフターズのもうひとつの代名詞ともなった、フジテレビ「火曜ワイドスペシャル」枠で月1の90分尺で放映されていたスタジオ収録形式のコント番組『ドリフ大爆笑(´77~98)』でも、笑いのためなら手段を選ばなかった。
一回目の一本目のコントで最初に登場するのは、ドリフのメンバーではない。何と軽演劇の伊東四朗(いとう しろう)だ。
伊東は、一時期『8時だョ!~』のセミ・レギュラーだったが、所属事務所も違うし、言わばライバル的な存在だ。
だが彼は「お笑いが役者をやる」ハシリであり、TV時代劇ではお馴染み上杉謙信vs武田信玄を描いたNHK大河ドラマ『天と地と(´69)』、平賀源内を主役に据えたNHK名作時代劇『天下御免(´71)』、杉良太郎主演『一心太助(´71)』、現代劇でも名作刑事ドラマ『太陽にほえろ!(´72)』、藤岡弘主演の刑事ドラマ『白い牙(´74)』、作詞家・阿久悠原作で実話3億円事件を材とした沢田研二主演『悪魔のようなあいつ(´75)』と話題作に次々と出演していた。
役者として「一日の長」がある伊東四朗を、自分たちの生きたテキストとして召還したいかりやの先見性は高い。
ちなみに、いかりやが『太陽にほえろ!』を娯楽として楽しんでいたことは、久米宏(くめ ひろし=フリーアナウンサー)の対話集(『最後の晩餐(´99)』集英社刊・ISBN:4087743861)に記録が残っている。
また、ついでに付け加えるなら、伊東が当時所属していた「てんぷくトリオ」が、単体での芸能活動に寛容だったことも作用していただろう。
続いてやはり軽演劇出身の小松政夫(こまつ まさお)がレギュラーに加わり、番組の質は一層高まり、定番のドリフのスタジオコントの雛型(ひながた)が固まってくる。
キャラに軽みがあり、芸達者で人格者の小松は、即戦力であり潤滑油であり、とにかくドリフを引き立てた。
加藤茶とのカップリングは格別で、「客と太鼓持ち」とか「サラリーマンとポン引き」など、後年志村けんとの名コンビぶりを彷彿とさせる原形が既にある。
あまり言われていないことだが、「もしもシリーズ」の大定番である「もしも威勢のいいお風呂屋さんがあったら」の最初期のものは小松政夫がメインで演じられている。
特筆すべきものは、小松が通夜荒(つやあ)らし、いかりやが故人の妻君、故人を仲本工事(なかもと こうじ)が演じたコントだ。通夜荒らしとは、故人と無関係であるのに、酒や食事目当てで押し掛ける、詐欺まがいの人間のことである。
小松が妻君に問い詰められ、
「じゃあ故人に直接聞いて下さいよ!」
と開き直る。
妻君の声掛けで、何故か故人が棺桶から起き上がり、
「儂(わし)はそんなヒト知らんぞ!」
と言い放ってオチになるのだが、仲本が現場で本当に寝入ってしまい、真面目な小松は切っ掛けを失い立ちつくす(笑)。
外様(とざま)の小松の前で顔色なく
「寝てんじゃねえ!」
と怒ってみせるいかりや、
「ホントに寝てたの?」
と当惑を隠さぬ小松、
「暖かいから寝ちゃうんだよねぇ。」
と何ら悪びれぬ仲本と、正に三者三様のリアクションにお笑い好きはハートを撃ち抜かれる(笑)。
小松はやむなく、もう一度段取り芝居を繰り返すのだが、一流の喜劇役者が「気を取り直す」さまが手に取るように判る(笑)。
のちの仲本の言によると、いかりやはこのハプニングが大層お気に入りで、NG版と取り直したものと両方使ったそうだ。
水戸黄門のパロディコントも何回かやっているが、いかりやが悪代官、小松がその家来、ドリフの他のメンバーが黄門一行(いっこう)をやったものが秀逸であった。
印籠(いんろう)を出す水戸光圀(みと みつくに)(演、志村けん)だが、小松は慌てず騒がす、
「こちらはザ・ドリフターズのリーダー、いかりや長介さまなるぞ!」
と逆に胸を反らせると、いかりやはメンバー全員の(お札が半分出ている)給料袋を持って登場する(笑)。
逆にメンバーがひれ伏し、いかりやは志村の分を一枚抜いて小松に小遣いとして渡す(笑)。
小松のポジショニングが生きた極上のコントだった。
ドリフのボーヤ(下働き)出身で、「ドリフ第7の男(第6は、すわ親治(しんじ))」と呼ばれた山本明生も芝居が上手かったためか、『ドリフ大爆笑』一回目から台詞も多い大きな役で出演している。
ちなみに、´77頃の『8時だョ!~』の台本には、山本はすわを飛び越えて、ドリフの弟子の筆頭に名を連ねている。
山本はTBS土曜お昼13時から1時間枠で放映されていたバラエティ番組『笑って! 笑って!! 60分(´75~81)』の「マラソン・インタビュー」コーナーの初代インタビュアーが一部に知られる。
デビューしたばかりのアイドルが、スポーティーな装いでインタビューに走りながら答えるという変則的なお色気コーナーだった。
山本で一番有名なのは、TBS火曜夜7時から30分枠で放映されていたザ・ドリフターズが声を演じた大人気人形劇、ヤンマーファミリーアワー『飛べ! 孫悟空(´77~79)』の敵役(かたきやく)、銀角(ぎんかく)だろうか。
これは番組開始のごく初期に出演したことで 、ドリフメンバー、せんだみつお、キャロライン洋子らとともに玩具(がんぐ)化されていて、儲け役だった。
その他、八名信夫(やな のぶお)や丹古母鬼馬二(たんこぼ きばじ)といった一般作品の悪役を得意とした俳優、中村京子や大川忍といったピンク女優まで、多彩なタレントが客演し、コントの質を高めていた。
この、大衆にウケるためなら、悪趣味を含めて何をやっても良い、の精神はカタチを変えつつも志村けんに受け継がれた。
余談だが、落語スターだった立川談志(たてかわ だんし)は、長年いかりやと友人関係だった。いかりやを「長兵衛(ちょうべい)」と愛称で呼ぶくらいに近しい存在だった。
長兵衛とは、幡随院長兵衛(ばんずいいん ちょうべい=江戸時代前期の実在人物で、歌舞伎・講談・時代劇の材となった元祖侠客ヒーロー)のもじりである。
いかりやは談志と知り合った当初、借金が多かったため、「バンス 院長兵衛」との異名があった。「バンス」とはバンドマン仲間の符丁(ふちょう)で、「前借り」を意味する。
自分が認めた相手としか関わりを持たなかったうるさ型の談志と、柔らかい笑いで人気を博したいかりやとは、一見水と油のように思える。
しかし、談志はいかりやの、メンバーを色分けし、役割人物像化して、大衆の内懐に飛び込む手法や、観客をどんな手を使っても必ず笑わそうとする精神を大いに認めていた。
後年、談志はお笑いタレントの後輩に語るかたちで
「客を笑わせているのと、(芸の拙(つたな)さなどで)笑われているのとの違いはほとんどない。笑わせた時点でそれは誇っていい。」
みたいなことをコメントしている。
いかりやの笑いへの哲学と通底しているようで興味深い話ではある。
いかりや長介のことを少し語っただけで、昭和の芸能史を大きくなぞっているようだ。
志村けん急成長の70年代後半 ~「東村山音頭」大人気!
志村けんは、欠員のために新メンバーとしてそんなザ・ドリフターズに加入することになった。
いかりやの年齢は、志村の19歳上だ。
自分の父親のような世代で、かつスーパー・スターであるドリフの面々。しかも何年も彼らに仕えてきたボーヤ上がりの青年が、舞台の上とはいえ、彼らと渡り合えというのだ。加えて、志村は自分なりのお笑いのオリジナルのネタを考え出さなくてはいけない。
当時は現在と違って、漫才師のネタは放送作家が記名で書いていた時代である。喜劇の台本も然(しか)りだ。
だが、ザ・ドリフターズのいかりや長介は、そういう明解な分業化を拒んでいた。笑いを実際に演るのは自分たちだ、という自負があった。放送作家やテレビマンらにとって、しょせん番組の成否など他人事(ひとごと)だろうという彼独特の怖気(おぞけ)を持っていた。
作家のものはあくまで「叩き台」扱いで、いかりやを含む、演者総員でギャグのアイディアを毎週考えていた。
そこで志村けんが絞り出したのが、´76の「東村山音頭(ひがしむらやまおんど)」である。
これはそもそも彼の地元の農協が´61(昭和36年)に製作した、ミッチーこと大人気演歌歌手、三橋美智也らが吹き込んだレコードであり、志村の馴染み深い歌曲だった。
それを『8時だョ!~』の8時30分以降に流れる、ゲスト出演している歌手たちも含めて白衣に白ベレーの少年聖歌隊の格好で歌唱する定番コーナー「少年少女合唱隊」のコントで、「各地の民謡、音頭」のひとつとして紹介した。
ただ紹介したのではない。ドリフ流(りゅう)にアレンジ、リメイクをしてみせた。
「東村山音頭」正調(せいちょう)から歌詞を幾分か間引き、歌のラストに
「♪東村山四丁目~」
と一節(ひとふし)付け加えたのだ。
「四丁目」があるなら、「三丁目」もあるだろう、という発想で、やはり正調から
「チョイト チョックラチョイト チョイト来テネ~」
という印象的な歌詞を借りて、小品(しょうひん)な歌をもう一曲作った。「東村山三丁目」である(作詞、作曲は何といかりや長介が手掛けていた!)。
そしてクライマックスである「東村山音頭一丁目」へ一気呵成に雪崩れ込む。バレリーナのコスプレに早変わりする志村の股間から、ピョコン! と白鳥の長い頭が顔を出す。
シモネタだっ!(笑)
構わず志村は、
「イッチョメ(一丁目)、イッチョメ、ワーオ!」
とソウルフルに、カタコトでシャウトする。
場内、爆笑に次ぐ爆笑で、笑いが渦を巻く。
「やめなさい!」と、いかりやが止めに入ってオチになる。
併せて言うなら、「東村山音頭」はただのコミック・ソングではなかった。すぐにレコードが出版されたが、その音源だけでは、この作品の面白さは半分も伝わらないだろう。
志村が「四丁目」を歌うときは聖歌隊の隊服、「三丁目」を歌うときにはそれを脱いで、法被(はっぴ)姿となり、「一丁目」ではバレリーナやSM風の衣装に早変わりする。
その様変わりする度(たび)に、客席からどよめきが起こる。
志村の低音の美声が冴え、世界観の導入部となっていた「四丁目」、クライマックスまでの良いジャンクションとなっていた「三丁目」と、プログラムとしても考え抜かれている。
そして「一丁目」の奇抜な衣装のときには、女性の悲鳴や子供たちの大歓声がそれに被さる。
志村もだんだん心得て来て、
「さあ、一丁目だ!」
と客を煽る。
衣装を脱ぎ着することが、それ自体既(すで)にギャグになっている。
歌舞伎を思わせる様式美、止めるいかりやとの押し引きの絶妙な間合い、そして背徳(はいとく)感などがない交ぜになった、ライブ感のある笑いは凄まじかった。
「東村山音頭」の後期は、いかりやの仕切りを待たず、志村自ら「今日はこれまで!」とコーナーを閉めていたこともあった。当時の志村の急成長ぶりがうかがえる。
この間、2年あまり。
僅か2年で旬のタレントになった志村もスゴいが、じっくり彼の成長を待った番組サイドもスゴい。今のサイクルであれば全く考えられない期間だ。
その後の志村けんの快進撃は言うまでもないだろう。
メンバー内で最年少だったことも幸いして、若いアイドルたちと恋人役、夫婦役でコントをする機会も多かった。桜田淳子、小柳ルミ子、研ナオコなど、コメディエンヌで花開いた人も多い。ジュースをグラスに注ぐシーンなどでも「おシッコみたいね。」などと必ずセクハラを足し、お笑いに順応性があるかどうか見定めた(笑)。
志村けん新たな持ちネタを披露する80年代初頭 ~「カラスの勝手でしょ」「バカ殿様」誕生秘話!
秀逸なギャグのひとつに、「カラスの勝手でしょ」がある。これは、80年代初期に『8時だョ!~』で大流行した。
童謡「七つの子」の歌い出しを
「♪カラスの勝手でしょ」
ともじって歌ったものだが、公開収録場の子供たちは大いに盛り上がり、志村に続いて合唱した。
「宗教(のよう)でしたね。」と、ジャニーズ事務所出身のタレント、´72生まれで「カラスの勝手でしょ」の直撃世代である中居正広は´20、4/3の志村の追悼番組で、子供たちの狂騒ぶりをこう、真顔で述懐していた。
このギャグの成り立ちを、筆者は小学生ながらにブラウン管を通して見ていた。
当時『8時だョ!~』の裏番組であるバラエティ『欽ちゃんのドンとやってみよう!(´75~80)』の視聴者応募による替え歌コーナーでの一幕。
「♪月曜日にお風呂に入り、火曜日にお風呂に入り、……日曜日にノボせて死んだァ~。」
みたいなのをタモリが歌わされている(笑)。
続いて歌われたのは、件(くだん)のカラスの替え歌である。
「まぁ勝手だよね。」とタモリはニヤニヤ笑っていた。
その数週間後に今度は『8時だョ!~』を見ていたら(以下略)。
まあ、お笑いの業態は互助的なものであり、リスペクトによるインスパイアは恒常的なものだ。
志村けんの「バカ殿様」はまさにそれであり、ああいう形態のキャラクターは、落語の世界の昔からある。志村に近いお笑い芸人ならば、かつて東八郞(あずま はちろう)や戸塚睦夫(とづか むつお)がバカ殿役をやっている。
志村は、頑なにバカ殿に「様」をつける。先達の喜劇役者に、敬意を持ってあの役を演じていたのかもしれない。
志村けん再ブレイクの90年前後 ~『志村けんのだいじょうぶだぁ』人気!
舞台公開番組『8時だョ! 全員集合』は´80前後に勃興した大MANZAIブームの影響で登場したフジテレビの裏番組『オレたちひょうきん族(´81~89)』の大人気の煽りを受ける。当時の中高生や若者たちから古臭い番組として見られるようになり、´84に視聴率で抜かれて翌´85末には幕を閉じることになった。
後番組としてスタジオ収録の『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ(´86~92)』がスタートする。しかし、なんと´88にはこの番組で視聴率の首位奪還を果たすのだ!
志村がザ・ドリフターズのメンバーから、初めて単体で座長を務めたフジテレビ月曜夜8時から1時間枠で放映された『志村けんのだいじょうぶだぁ(´87~93)』での、お笑いの先輩へのリスペクトも凄かった。
主に事務所の先輩格である、植木等(うえき ひとし)や谷啓(たに けい)らのギャグやコミック・ソングを多用した。
ハナ肇とクレージーキャッツのコミックソング「ウンジャラゲ(´69)」という流行歌を、´88には演者総出で歌い踊ってみせ、リバイバルとしてヒットさせた(オリコン最高位20位。20万枚の売上!)。
その時、志村けんの相手役を務めたのが、音楽バンド「シャネルズ」出身の田代まさし、桑野信義といった、笑いもできるミュージシャンと、松本典子、いしのようこ、渡辺美奈代らアイドルである(3人とも、当時はトップアイドルだったことを付記したい)。
田代を志村が相手役として選んだのは、音楽の好みも合ったのだろうが、笑いに対する彼の貪欲(どんよく)さが認められたのではなかったか。
田代は´80に音楽バンド「シャネルズ」(´83に「ラッツ&スター」に改名)のボーカルの一員としてデビューした歴(れき)とした歌手だが、歌番組でもダジャレやモノマネなどで笑わせていた。彼単体でのお笑いコーナーのような時間を作る番組すらあった。
笑わせるためには、自分の顔にメイクをしたり、人形など小物を作ったりとの努力も辞さなかった。
田代を、お笑い芸人の岡村隆史(おかむら たかし)は、「とにかくよく、バッターボックスに立つヒトだった。」と評している。遠回しに、ギャグを数打つ人だと揶揄(やゆ)しているのだが。
岡村隆史は志村の芸風に傾倒していて、「バカ殿様」などの志村のキャラを、ゆくゆくは譲って欲しいと番組で迫っては、シャイな志村にすかされ、そういう話はいつも立ち消えになっていた。
「他人(ひと)のキャラを欲しがるんじゃないよ。努力して自分で作るものだよ!」
と、志村は冗談めかしてよく彼を叱っていた。
志村自身、ザ・ドリフターズのボーヤ時代に、お笑いコンビを作ったりと、地道な努力の人だった。
いかりやが志村を選抜したように、志村は80年代半ばに田代を見出だした。
志村が田代でなく、岡村隆史を弟子のひとりにしていたら、「志村の芸」は継承されただろうか?
よくスターは、「後継者を残さなかった」と咎(とが)を受ける。
しかし、その人のスポークスマンのようなタレントはよく見掛ける。立川談志の太田光、ビートたけしの水道橋博士、明石家さんまの今田耕司など、各人の功績を伝える人材がそれにあたる。
志村けんには、残念ながらそういう人物すらいないようだ。
『AERA(´20.4/13号)』では、ゆかりの人物としてマキタスポーツが志村の追悼文を書いていた。
ゆかりでも何でもない。彼はビートたけしの弟子筋の人間である。
しかも志村のことをラーメンに喩(たと)えて
「何気ない街中華(まちちゅうか)の醤油ラーメン。」
だって。マジか。
志村はパンクだ。いつも傾(かぶ)いていた。
『志村けんのだいじょうぶだぁ』でも新たな挑戦をしている。志村はこの番組で、それ以前とは明らかに異なるコントの舞台を模索している。
かつてのドリフの庶民的なものはやや控えられて、コントの舞台は豪華なプールバー、クラブ、シティホテルなどのお洒落スポットが出てきた。出てくるキャラも女性はワンレン、ボディコン。男は小粋なスーツの人物が現れた。
時はバブル景気の只中。田代やいしのがハイソな雰囲気で出てくると、志村が冴えないサラリーマンや、労務者、ホームレスで出てくる。それだけで可笑しい。
人気TV時代劇の『必殺』シリーズのパロディもあった(梅宮辰夫も渡辺徹もゲスト出演している!)。キチンとオリジナルの音源を使っていたので臨場感があった。志村の真骨頂である。
異色なコーナーもあった。「シリアス無言劇」という名前がついていた。
これは、オカリナ奏者、宗次郎(そうじろう)の演奏する「悲しみの果て」に乗せて、志村をはじめ番組メンバーが、サイレントで、笑い一切なしのドラマを演じるものである。
「愛妻に先立たれた亭主が、幼子と心中しようとする話」とか「理不尽な自分に死ぬまで尽くしてくれた老妻を抱えて入水する翁」とか、悲惨な話が続出した。
筆者が強烈に覚えているものは、いしの扮する女性が事故で両目の視力を失い、彼女に岡惚れしていた男(志村)が、両目の角膜を彼女に提供。手術は成功する。
カットが変わると結婚式のシーン。しかし、女の隣の新郎は別人(田代)であり、当の志村は黒眼鏡をかけ、盲人の杖を握って、式場の一番後ろの席に座っている。
黒眼鏡をしている志村は真顔で、何を思っているのかわからない。画面はそのまま暗転、終了する。全身が総毛立った。
あとから考えれば、ああ谷崎潤一郎の小説『春琴抄(1933・昭和8年)』のパロディなのかな? とか、赤の他人の角膜を、しかも両目も移植するわけないじゃん、とか色々思うが、とにかく、当時はこれを見てトラウマを受けた。これ以降、筆者はテレビからこれ程のショックを受けたことはない。
台詞のギャグも耳に残る。それは、キャッチ・フレーズというよりも、(共演者同士の)軽口やアドリブに近いものだ。
座長である志村が、芸能活動をしながら、お笑いの素養のある若い女性タレントを見いだしてきた賜物(たまもの)だ。かつて、『8時だョ!~』で培(つちか)った方程式は令和の現在でもバリバリに通用している。
独立した、キャリアも年代も異なるタレント同士から、ふざけ合える関係性となり、コントが出来るようになるまで、どれ程の時間と手間がかかるものか。
´20、4/5のフジテレビ日曜午前の情報番組『ワイドナショー(´13~)』でMCの松本人志(まつもと ひとし)は、志村けんについて触れ、渡辺美奈代が志村と楽屋で戯れていて、かつての自分たち(ダウンタウン)に挨拶がなかったと、笑い話にしていたが、それ程に砕けた雰囲気だったのだろう。
志村けんがいなくなった半月後、激変したニッポン……
志村けんが逝去して、まだ半月ほどだが、世の中は目まぐるしく変わった。
新型コロナウィルスの蔓延(まんえん)で、安倍晋三首相は、´20、4/7(火)に東京など7都府県に「緊急事態宣言」を発令した。
イベントが次々に休止した。
オリンピックのことなど、誰も口にしなくなった。
テーマパークが、水族館が、各地の名所名刹が休業した。
テレビのスポットCMが減り、震災時のように政府広報ばかり流れてきた。
11日(土)には繁華街への「外出自粛要請」が発せられた。
厚労相は、対策がなければ国民の85万人が重篤になり40万人が死亡するとの概算を出した。
食堂や酒場には客が寄り付かなくなり、商店街には閑古鳥(かんこどり)がずっと鳴いている。
医療崩壊が日常となり、命の選別が始まろうとしている。
志村けんは病院に搬送される前、
「迷惑かけちゃった。」
とずっと周囲のことを気に掛けていたという。
まだ光は見えない。
マスクもまだ店頭には並んでいない。
志村けんと一緒に、ニッポンの笑いも、誇りも、希望も、あちらの世界に行ってしまったかのようだ。
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