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映画 聲の形 ~希死念慮・感動ポルノ・レイプファンタジー寸前!? 大意欲作だが不満もあり

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 2019年8月23日(金)から新宿ピカデリーほかで、京都アニメーション製作のアニメ映画が特集上映記念!
 恐れ多くもそれに便乗させていただき、京アニ製作のアニメ映画『映画 聲(こえ)の形』(16年)評をアップ!
 (先の事件で犠牲になられた方々のご冥福と、心身に重症を負われた方々のご回復を祈念いたしております)


『映画 聲の形』 ~希死念慮・感動ポルノ・レイプファンタジー寸前!? 大意欲作だが不満もあり


(文・T.SATO)
(16年10月15日脱稿)


 腹に響く大音響とともに炸裂しつづける夜空の花火。マンションの一室の中から、浴衣姿の女子高生メインヒロインがベランダのヘリに立ち上がる姿が見える。風に大きくなびいていたカーテンが降りるや、ヒロインの姿が消えている!
 ……ベタといえばベタだが、衝撃的といえば衝撃的だし、人ひとりが死を選ぼうとするシーンに対する批評としては非常に不謹慎ではあるけれど、美しくて緊迫感もあるセンスのよいシークエンスに仕上がっていたとは思う。


 淡くてキレイな「中間色」を本映画の作品ビジュアルの基調としつつも、それが「シアン」や「マゼンタ」にも近い色彩でもあることから、ドコかで小さな「不穏」さも醸すような背景美術にくるまれているような感もある、この『映画 聲の形』という作品。
 その色彩がこの作品に独特の「夢遊病者感」を与えている。時折りインサートされる鯉が遊泳する小河川やその水中の描写ともあいまって、夢の中やあるいは水中に没した際の手足の自由がままならないような「不全感」、薄皮一枚を隔ててから外界と接しているような男子高校生主人公の「離人症」のような主観、彼の視界に映じているのであろうソフトフォーカスな光景。
 さらには、他人と情の通ったコミュニケーションを交わそうとしても、ことごとく無視されてしまうので孤立してしまう「疎外感」。ひいてはコミュニケーション相手の反応や働きかけから逆照射されることで確認できる自分の輪郭や足許すら定まらず、「生」の充実とはあまりに程遠い、どころか自身がたしかに「生きている」という実感すらもが欠落していき、自己の存在意義への懐疑や、はたまた稔りや喜びも少ないと予見されてきてしまう自身のコレからもつづくであろうミジメな将来。そこから必然的に導き出される淡い「希死念慮」(死にたいという気持ち)とも、本作の色彩設計は通じあっていく。
――あまり思い出したくナイけど、筆者も彼のような心象風景の10代を過ごしていたことを思い出す(汗)――


 しかし、そんなフワフワとした内面での逡巡と同時に、この作品世界の中で描かれているのは、「聴覚障害者」や「イジメ」に「教室内での孤立や蔑みの視線」や「人間関係の齟齬」といった、「夢遊病者」的な「中間色」の映像とは対極的ともいえる、あまりにも物理的・肉体的な「重苦しさ」や目が覚めるような「痛覚」といった「生々しさ」に満ち満ちた事象の数々でもある。


 筆者個人もこの作品世界とその空気や人間模様に大いに没入した。そして、相応に心を打たれたのも事実である。志も非常に高くて、かつ多面的で深い人間観察眼もある優れた見識の所在も感じさせる良作であり、野心作でもあったと思う。心に刺さってくるところも多々あったし感動もした。泣かせられもした。
 しかし、本作を手放しで賞賛する方々には不快に思われるやもしれないけど、何かがいくつか足りてはおらず、本来ならば作品内で十全に語られるべき事項が結局は語り尽くされていないような腰の据わりの悪さ、釈然としない奥歯に物が挟まったようなモヤモヤ感も残った。
 それは大きな瑕疵(かし)ではナイ。例えるなら100個あるパズルのピースが95個まではピタリとハマったものの、残りの5個ほどは欠落したままのような感覚だ。
 そのモヤモヤ感・不足感の正体を明らかにしたくて、ついでに本作をダシにして自身の「イジメ」観や「障害者」観なども語ってみたく、コレから本作のさまざまな要素について散文的に言及してみたい。


*「性格強者」、元「イジメ加害者」としての主人公少年・石田将也


 まずは、本作の主人公である男子高校生・石田将也(いしだ・しょうや)について語ろう。
 彼自身は筆者も含むある種の性格類型が愛好するような、オタク向けジャンル作品の主人公の大勢を占めるような、生来からの弱さや繊細さを感じさせるタイプではナイ。
 美少年もしくは「普通」や「平均」、もっと云うならやや「内向的」な性格を意味する少年の記号として、前髪を垂らしてオデコや眉毛を隠すことで、他人に対する弱めのバリアを張ってから、そのスダレ越しに外界をうかがっているようなナイーブな性格をドコかで感じさせるタイプであるキャラクターのような「髪型」を彼はしていない。
 オデコをまるまると出して短髪の黒髪をさらに上方に軽く逆立てた、生来の性格はきっと他人に対して物怖じするようなタイプではなかったのであろうとも想起させる、多少のワイルドさを感じさせる風貌を彼は持っている。
 それは彼が本来的には特に気張らなくても平常運転の状態では、他人に対して気後れすることなくコミュニケーションに踏み出していける、エネルギッシュで不敵な印象もドコかで醸さないではない。


 本作の冒頭では、この主人公少年・将也が小学6年生であった時分の姿が印象的に描かれる。郊外の小さな橋の上から友人たちと小河川に飛び込むワンパク坊主な姿。学校の授業にはあまり関心がなく、ということは恐らくは知的・お文化的なものにも関心がナイ。落着きもなくてガマンも足りなくて、授業中の退屈をまぎらわせるためか、シャープペンのおしりを神経質にカチカチと押して、延々とその針を伸ばしつづけている姿。
 本作のメインヒロインともなる小学6年生時代の聴覚障害の少女がクラスに転入してくるや、無遠慮にも甲高い驚きの声をあげ、珍奇な異物か玩具か昆虫を発見したかのように彼女を弄び、真後ろの席からどの程度の聴覚障害であるかを確かめんと授業中でも彼女の後頭部へ向けて大声で叫び散らす!


 他人への共感能力や肉体的・性格的な弱者へのいたわりには乏しい、こういう乱暴な男子小学生ってたしかにいたよなぁ……。腕力や胆力に生命力といったモノには決定的に欠けていて、この主人公少年とは真逆の性格であった筆者なぞは、このような精気に満ちたタイプの子のことを非常に苦手に思っていたこともニガ味&苦笑とともに思い出す。


 そして、この小学6年生時代の主人公少年は、聴覚障害者特有の健常者とは異なる独特の抑揚のしゃべり方をチャカして口マネし、黒板に大量に彼女の悪口を書きつづり、校庭で砂を投げつけ、彼女の意思疎通用のノートを池に捨て、イタズラで奪った補聴器を窓の外へと放り投げる!
 特に恐らく何度目かの補聴器をムリやりに奪ったシーンでは、彼女の耳が傷ついて流血!


 正直、かなりインパクトがある「イジメ」シーンの連発である。残酷である。気の毒である。気分が悪くなる。ハッキリ云って不愉快で憤りすら覚えるのだが、ついつい引き込まれて見入ってしまう、ツカミが非常に強い本作の導入部でもある。
 しかし、元気な小学生男子の残酷さとは、エスカレートすればこうなるモノであろうし、コレとイコールではないにせよ、コレに類するような「イジメ」の光景はたしかに筆者も子供時分に見てはきた。よって、さもありなんのリアルな描写だとは思う。


 凡百の教育評論家やそれに影響を受けた作家であれば、両親なり周囲の大人が主人公少年を邪険にして育てたからこそ、その不満を補うために彼は「イジメ加害」行動を起こしたのだ……と描きそうなものである。しかし、この作品はそのような陳腐・凡庸な見解は取らない。
 彼の父親の姿はまったく描かれず、髪の毛を脱色していることで往時は多少ヤンキーが入っていたのであろうと推測させる、理容院を営むシングルマザーの母親によって、主人公少年・将也が育てられたことが示唆される。
 しかし、自身の生活の基盤や感情の安定の土台たりうる家族構成や家庭の財政事情などに、主人公少年が不満や劣等感を持っているようにはまったく見えない。よって、主人公少年の「イジメ加害」行動は、家庭の事情や母親の教育やシツケの不備などではさらさらなく、云わば「性格強者」「肉体強者」としての彼自身のもって生まれた「自己抑制」や「内省」とは正反対の「能動性」「ADHD(注意欠陥・多動性障害)」な気質・性向の延長として現われたモノのように筆者には思える。


 けれど、だからといって、それは主人公少年の行動の免罪符にはならない。聴覚障害者であるヒロインへの言動は、ココまで来るとシャレや単なるイタズラでは済ませられないレベルである。嗜虐心ゆえの悪意ある「イジメ」であろうが、悪意すらない無邪気ゆえの「イジメ」であろうが、小学生がやることとはいえ、コレはもう器物損壊などの「犯罪」の域にさえ達している。


 もちろん本作を鑑賞した方々はご存じの通り、この主人公少年・将也はその後、劇中で一方的な悪役として描かれていったわけではナイ。校長先生も臨席する学級裁判で、警察沙汰にもなりかねないと指摘されたその蛮行がバレるや、主犯の彼のみに教師や同級生たちは罪を押し付け、立場が急転直下してしまう!
 その直前までにメインヒロインが受けていた仕打ちと同様に池に突き落とされ、下駄箱の上履きを盗まれて、ボールをぶっつけられ、ノートや教科書はビリビリに破かれて、今度は「イジメ被害者」に転落してしまうのだ!


 あまりにもヒドすぎる行為のゆえに、許されざる「イジメ加害者」でありながら、と同時に「イジメ被害者」ともなってしまった主人公少年。それが尾を引き、彼にとっての悪夢の時期であった小学6年生後半の幕引き・リセットをも期待したであろう中学校の入学式なのに、早々に旧友たちに悪評をバラまかれてしまう。
 小学生時代と同様、黒板用のチョークで悪口が大量に書かれまくった自身の机の前で、今後の運命を半ば悟ったかのように視線を宙に泳がせている中学生になった主人公少年の姿の点描がインサートされることで、高校3年生に進学したばかりの現在に至るまでのまるまる5年間を、いわゆる「(ひとり)ボッチ」として過ごしてきたことが示唆されるのだ……。


――ことココに至って、コミュニケーション弱者でもある我々オタク人種が抱えている課題とも通底! 本作におけるもうひとりの「ボッチ」キャラにして唯一のオタク系キャラ、高校3年生時代の同級生にしてデブで小柄で天然パーマな髪質のコミックリリーフ・永束(ながつか)クンとの接点の余地も誕生! 正直、主人公少年がココまで転落しなければ、スクールカースト最底辺にいるオタク少年を対等な友だちとして認定することはなかったとも思う。クラスで真後ろの席に座っていた彼のことをそもそも認識していなかったくらいだから、永束クンの方から話しかけてこなければ、オスとしては弱そうな彼みたいなタイプは主人公少年のおメガネや好みには合わなくて、対等たる友人としての資格はナイものとして無意識に判定されてしまい、今でもアウト・オブ・眼中だったのではなかろうか?(爆)――。


 個人的には、良くも悪くも彼がもっとガタイもよくて乱暴で、もう少しだけ腕力や声の大きさなどから来る、教室や仲間集団という「場」に対しての支配力にも秀でていれば、「イジメ被害者」へと転落することもなく、その暴君としての「小権力」を、自身に対する反逆者には暴力も厭わないという威嚇で散らつかせることで維持できて、ひいては自身の悪行を心の底から反省することも一生なかったようにも思う。
 ただし、そちらの方向に物語が展開すると最悪のバッドエンドではあるし、このアリエなさそうだけどギリギリでアリエそうでもある恋情も混じった「イジメ加害者」と「イジメ被害者」との和解という細い道で、際どいツナ渡りをしていく本作の物語は成立しえなくなるし、本論の主題からも脱線していくので、そのような思考実験はココではさておく。


 なお、ふだんは冴えなくても怒るべきときには怒れる、小6時代の担任男性教師のクラス統治失敗・監督不行届・主人公少年のみへの責任追求が、本作を鑑賞した人々の多数に糾弾されている。しかし、筆者個人はこの担任教師が特に無能であったり責任転嫁に長けていたとは思わない。「イジメ」をするガキどもも実は悪事だと充分わかっているケースが多いので、教師やオトナの眼にはふれない死角に隠れてやるモノだし、仮に「イジメ」を見掛けて加害者側を強硬に叱りつけても、あとでそれへの反発が被害者側に転嫁される可能性まで考慮すると、叱り方の加減や都度都度の濃淡の付け方にも悩むところではあろだろう。
 そもそも今どきの教師の過半は、良くも悪くも胆力&気迫をもって生徒を強く叱ることができずに、悪い意味での非力な善人、悪い意味での善良な紳士淑女で、悩みながらもズルズルと「子供は本来、性善だ」との言説で自己正当化をしながら「イジメ」という悪行を現状放置している不作為が大勢であろうと思えば、状況をストップさせて主犯も確定させ事態を逆転させられただけでもまだマシだったと私見する。


*「イジメ加害者」の転落描写が重すぎてリアリティ・ラインが上がってしまい、奇跡的な病状回復&交感描写が少々浮いて見えてしまう


 集団の中での「孤立感」。自身が周囲の人間に対して何らかの干渉を行っても変化やリアクションをもたらすことができないという、もしくは拒絶や無視をされてしまうことから来る「隔絶感」。ひいては生きていることそれ自体、自身の「生命」や「生活」に対する「手応え」や「充実感」を味わえないことから来る「不全感」。
 このような境遇&心情に筆者などは、「外面」と「内面」との分裂、「内面」の誕生、ひいては社会に対する政策提言もできる近代的な自立した強い個人としての意味ではなく、イジイジ・ウジウジした文学青年的な弱い個人としての意味での「近代的自我」の誕生の劣化コピー版なども見てしまうのだが、まぁそれは余談である。
 現在は高校3年生になった主人公少年・将也が、人生をアキラめたかのような半ば呆けて心ココにあらずといった表情で、通学のために無心で自転車をこいでいるロング(引き)の映像が、彼の心象風景をも象徴していてあまりにも印象的だ。


 「イジメ被害」や「孤立」。これらの顛末は彼の少年時代のあまりに甚大な「イジメ加害」の「罪」にふさわしい「罰」ではあるのだろう。しかし、それにしては彼の思春期・青年期をもすべて台無しにしてしまうくらいの、あまりに大きすぎて釣り合わない代償であるようにも思えてきて、気の毒になって同情もしてしまう。
 しかして、彼の「イジメ加害」の「罪」の重大さに思いを馳せれば、現状の不遇をもってしても「御破産で願いましては」とチャラにできるものではないのでは? とも思い直す。
 加えて、主人公少年が「イジメ被害者」に転落することなくして、彼がこのような「自己抑制的」で「内省的」な「内面」を獲得することはあったのであろうか? 「内省」や「抑制」などといった殊勝さなどカケラもないタチの悪い粗暴なヤンキー不良街道まっしぐらの人生を歩んだのではなかろうか? などとも考えてしまうのだ。
 それらの複雑な感慨を観客に一挙に想起させるのが、コレら一連の描写の目的でもあるのだろうし、それがこの作品に一筋縄ではいかない深みと多面性を与えているのも事実だ。
――ただし、余談になるけど、むかしとは異なり近年の「イジメ」は「イジメっ子」と「イジメられっ子」との関係が流動的で時には反転することもあるとする説を筆者はあまり信じない。小さな「からかい」の類いならばともかく、筆者の乏しい見聞範囲でも「幼稚園」~「高校」まで「イジメっ子」は常に「イジメっ子」であり、「イジメられっ子」も常に「イジメられっ子」の役回りを固定的に務めつづけることがほとんどだったと思えるからだ――


 「聴覚障害者」に対するあまりにもリアルで壮絶な「イジメ加害」描写、そしてその反転としての「イジメ被害」描写、ひいては中高6年間のクラスでの「孤立」に伴なう「内面」描写。この二転三転した3連発の描写が、この作品を秀逸たらしめるところでもある。
 と同時に、コレらの描写のあまりにもな重苦しさが、作品自体の船体をその自重で沈めてしまうことで、必然的にその作品のリアリティの吃水線・基準線を、通常の作品よりも上げてしまうことにもなる。


 通常の作品であれば、あるいは最初からSFやオカルト的な仕掛けがある作品であれば、「夢の知らせ」や「愛」だの「希望」だのといった「精神主義」的なファクターが勝利して、「男女の危機」や「家族の危機」に「世界の危機」すら救うご都合主義的な展開に変貌していったとしても、一応の了承ができてしまう。
 加えて、その作品が「愛」や「希望」に「絆」だのといった一応の道徳的なファクターの尊重を高らかに即物的な表現でシンボリックに描いた「説話」的なフィクション作品であったのであろうということも、同時にナットクできてしまう。


 この作品でも、ヒロインを助ける代わりに自身が階下の小河川へと落下してしまって昏睡状態に陥っていた主人公少年の意識と、深夜の睡眠中に主人公少年についての夢を見ていたヒロインの意識が通じ合い、見ようによっては奇跡が起きて主人公少年が眼を覚ましたかのような描写が存在する。その直後、毎週火曜日に落ち合っていた小橋梁に両者が夜陰の中を駆けつけて、涙の再会を果たすシーンもあった。
 この一連のシーンに過剰なケチをつける気は筆者も毛頭ナイ。ギリギリOKのシーンであるとも思う。しかして、このシーンだけはその他のシーンとは異なり、リアリティの階梯が微妙に異なっているようにも感じてしまう。他のジャンル系作品であればOKであったであろうとも思えるシンボリックなこのシーンが、この作品ではソコだけいかにも作りモノめいていて、浮いている感がなきにしもあらずだとも思えるのだ。


聴覚障害者でもあるヒロインの「聖女性」は、「感動ポルノ」「レイプ・ファンタジー」か?


 本作における、聴覚障害者でもある女子高生メインヒロイン・西宮硝子(にしみや・しょうこ)。彼女はピンクと栗色と紫が混じったような色彩のボリュームもある長髪で、終始ニコニコとして笑顔を絶やさないようにも見え、人生途上で他人に対して悪意や害意を積極的には抱いたことが一度もナイかのような「全身、女の子!」といったルックスを与えられている。
 彼女のコレら一連のキャラ造形を、「感動ポルノ」「レイプ・ファンタジー」という文脈から問題視する見解も世には散見される。


 この問題についての私見を述べる前に、話をいったん脱線させたい。深夜の美少女アニメも鑑賞する重度のオタクである筆者が、このテの発言をするのは自己矛盾も甚だしいのだが、


美少女アニメに登場する『美少女キャラクター』とは、男子(特に我々「弱者男子」)にとっての『都合がいい女子像』にすぎない」


という、ネット上でのオタク論壇でスレた論者たちにより散々に語られて、自分(オタク)自身をも俎上に乗せて切ってみせるような自己分析的な指摘がここ10数年、界隈では繰り広げられてきたが、オタキング岡田斗司夫的な「オタクこそがセンス・エリート」だとするオタク・エリート論者たちからはウラギリ者・獅子身中の虫のように反発されつつも、この分析自体はとても秀逸なモノだし、間違ってはいないと筆者個人も考えている。
 特に「弱者女子」や「病弱女子」を主題とする作品群に肩入れするオタク男子のメンタリティーに、一見それは女性尊重のようでありながらも、実はやはり隠微なかたちで男性が女性を保護して優越感に浸ろうとするヘタレ・マッチョ(イズム)がハラまれており、対等な男女関係ではアリエナイとする指摘に至っては……。いささかイジワルで偽悪的にすぎるとは思うモノの、一方ではその批評的なキレ味に個人的には感服もしてきた。


 このような観点に隣接するモノとして、障害者を等身大の清濁を併せ持ったナマ身の人間ではなく、過剰に健気な聖なる者として偏向して描いてしまう作品群のことを「感動ポルノ」、レイプ被害者がご都合主義にもレイプ加害者のことを弾劾せずに許すどころか恋情さえ抱いてしまう作品群のことを「レイプ・ファンタジー」と名付けて、否定的にカテゴライズする向きもある。
 筆者個人は「フィクションとは現実の理念型・戯画化・誇張・単純化・理想化」であるとも思うので、ドーしても「感動ポルノ」性や「レイプ・ファンタジー」性が微量にはハラまれてしまうモノという認識なので、そのようなシニカルな概念に全面的には賛同もしないけど、一理はあると認める立場ではある。
 よって、サブ視点・メタ視点としては、本作をそのようなモノサシでも鑑賞してしまったクチだ。だから、本作ヒロインの「ルックス」や「性格」を含む人物造形に対して、本作もまた「美少女」や「障害者」をダシに使った「感動ポルノ」や「レイプ・ファンタジー」である! なぞと糾弾する論調にも、完全同意はしないけど半分だか1/3くらいは正しいとも考えている。


 「イジメ被害者」であるヒロインが、もう5年の歳月を経ていたとはいえ「イジメ加害者」である主人公少年を、彼女がその「聖女性」で許したかのようにも見えてしまう描写。少なくとも5年後の現時点では、過去の罪業をさほどに問題視はしていないようにも見える描写。コレらの描写に対しては、一部で特に批判の声も大きいようだ。
 たしかに理性的に、加えて心情的に考えてみれば、程度にもよるけれど、教師らが仲介となって「イジメ被害者」と「イジメ加害者」とを両手を携えさせて「話せばわかる」の理性的な近代的市民同士として和解をさせるなどといった行為は、人間は残念ながら良くも悪くも「理性や合理のみにて生きるにあらず」なのも厳然たる事実なのであるからして、「被害者」側の感情面どころか生理的な嫌悪の域にまで達していて折にふれてフラッシュバックで過去のトラウマをエグられているであろうメンタルを無視した無神経なモノである。あるいは、オモテ向きは改心したフリをして自身の悪事を衆目にさらされたことに内心で逆ギレし、隠れて次なる加虐行為で復讐せんとメラメラと嗜虐心を燃やしがちな品性下劣な「加害者」のメンタルをも無視した、たとえ善意から来るモノではあっても実に浅薄な人間観に基づいた愚劣な行為でもある。
 もちろん中長期的には「加害者」と「被害者」との和解が、必須ではなくとも理想のひとつとして遠方に措定されてもイイのだが、短期的・緊急避難的には「加害者」と「被害者」を対面させないように引き離してみせることで後者に安心を与えて、生活圏を共にしない「棲み分け的な共生」とするか、それを具体化するならば「加害者」側に転居や転校といったペナルティー・負荷を与えることが、真の意味でのフェアな裁定だと思える。
 理性や知性に乏しくて、「我が身をツネってヒトの痛みを知れ」的な物理的・境遇的な負荷――ここではすでに出来上がっている他の学校のクラスの人間関係の中に新参者の転入生として加入させる処置など――を与えられなければ、「被害者」の痛みや弱者としての立場や寄る辺なさに「実感」として気付くこともできない御仁であれば、罰もまた単なる前近代的な「応報刑」として否定されるべきモノではなく近代的な「教育刑」としての意味合いも生じてくる。
――もちろん本人の生まれつきの品性や心掛け次第ではあるので、罰を与えることでも悟らない御仁も一定数はいるであろう(汗)――


 とはいえ、白状すると実は筆者も、本作における「イジメ被害者」と「イジメ加害者」との久方ぶりの交流再開描写については、特に大きく問題視・疑問視をしてはいなかった。元「イジメ被害者」たちの深く傷ついたデリケートなメンタルに対しては恥じ入るべき失礼であり、無神経な態度であったのかもしれない。


 しかし、小さな釈明もさせてもらいたい。
 本作における、この元「イジメ被害者」と元「イジメ加害者」の再会後の関係性は、たしかに世間一般の「イジメ」問題における「平均」や「典型」例としてのそれではなかったとも思う。
 ただし、あくまでも、この作品でのイマ・ココにおいて再会した、個別具体の元「イジメ被害者」と元「イジメ加害者」との「特異にすぎる去就」や「独特のパーソナリティ」に「相性」といったモノがもたらしたひとつのケースと捉えることは可能だとは思うのだ。
 つまり、主人公少年・将也とヒロイン・硝子の個別具体の境遇&人格がまるごとクロスして交流が進展していった果てのひとつの事例として捉えれば、さほどにムリは感じられなかったし、ごくナチュラルに了承させられるモノではあったと思えたのだ。


 しかしながら、元「イジメ被害者」たちの全員とはいわずとも無視できない数の人々が、彼らと同類であるハズの本作のヒロインが「イジメ加害者」の「罪」を許し、あるいはさほどに問題視もしていない(?)ようにも見受けられて、そのうちに恋情の方が勝ってしまう描写の数々に、リアリティを感じていない、もしくは反発さえ覚えるといった見解を散見するに至っては……。その見解に完全に屈服するワケにもいかないし、彼らの意見にも相応の偏りがあろうとは思うモノの、それなりの尊重は必要であるようにも考えてしまう。
 少なくともこの作品には、そんな彼らを有無も云わさずナットクさせてしまうだけのパワーは存在しておらず、疑問を持たせてしまうような隙はあったのだとも結論付けざるをえない。


 この作品は「イジメ」や「障害者」をテーマにしてはおらず、「コミュニケーション」をテーマとしている。だから、「イジメ」や「障害者」の問題に過剰にこだわってしまう鑑賞の仕方では、作品の本質からハズれていってしまうのダなどといった意見も散見する。加えて、原作マンガ家自身もネット上でそのように発言しているインタビューが存在する。
 しかし、作品というモノは、受け手が「作り手の意図」とは異なる読み方や解釈をしても構わない性質のモノでもあるだろう。よって、作品の外側で発言した「作り手の意図」という答案との「答え合わせ」をして、それに屈服してみせる必要もナイ。逆もまた真なりで、「作り手の意図」は異論を封じるための水戸黄門の印籠のごとき用いられ方をされるべきモノでもない。


 たしかに本作は「イジメ」や「障害者」をメインテーマとはしていない。「コミュニケーション」の方こそが主題となっている。
 しかし、ここまでリアルで切実で重たい「イジメ」や「障害者」の描写を入れておいて、それがストーリー展開や登場人物のトラウマにもなるほどに深く入り組んでいるのであれば、それは作者の意図すら超えて、メインではなくともサブテーマとしての比重は持ってしまう。
 そうなると、「イジメ」や「障害者」問題に対する普遍・恒久的な対策ではなくとも、この作品独自の、あるいはこの作品における個別具体の登場人物たち特有の「決着」や「ケジメ」なり、「解答」までは行かなくとも滋味ある「見識」や「妥協」なり「諦観」の提示を、受け手の側が意識的にしろ無意識にしろ「係り結び」として求めてしまうことも極めて自然な心理だとはいえるように思うし、この作品はその部分では少々弱みがあったようにも思う。


 その伝で、本作を「感動ポルノ」「レイプ・ファンタジー」として糾弾する論法にも相応の理は認めたいのだ。


*ヒロインの「聖女性」の相対化と、「感動ポルノ」批判に対するエクスキューズ


 とはいえ、この作品が「イジメ加害者」にとても甘くて、メインヒロインが万人を許してみせるような「聖女性」を無条件で賛美するような、ベタな「感動ポルノ」であったとも思えない。


 本作の前半では、小柄でボーイッシュな黒髪の少年、もとい実はメインヒロインの妹(!)が登場して、この妹が元「イジメ加害者」とヒロインとのコンタクトを妨げようとして延々と立ちはだかりつづける一連が描かれていた。
 元「イジメ加害者」が「イジメ被害者」に謝罪をして許されようとする行為自体も、


「それは『イジメ加害者』にとっての『自己満足』に過ぎない! 偽善者! 気持ちが悪い!」(大意)


 ……などなど、作品自体の根幹・前提をも覆すような、我々のようなイジワルな評論オタクの考えることなどはとっくにお見通しだ! と云わんばかりに、想定されうる批判を先回りするようなかたちで、劇中でもヒロインの妹に散々に痛烈なツッコミを、当の「イジメ加害者」であった主人公少年に浴びせつづけてもいる。


 ヒロイン自身もベタな「聖女」であったり「弱者女子」であったり、ましてや「病弱女子」であったわけでもなかった。
 まず、彼女自身が地元の福祉会館での老若男女たちが集う手話サークルの会合の場所に突如現われた元「イジメ加害者」でもある主人公少年に呼び止められた際には、しばしの愛想笑いと困惑の末に彼の前から足早に逃走してみせている!


 そして、彼女のいわゆる「聖女性」。恐らくは半ばは生まれつきのモノで、気持ちがあまりにもやさしすぎたり、共感性羞恥の気もあってか、他人が少しでも不快や負担や負荷に思ってしまうであろう言動がとっさに取れないので「NO」と拒絶の意志を示すことができずに、「イジメ加害者」に対してさえも形式的にではあっても情をかけてしまうような「気が弱い性格」それ自体も、劇中内での絶対正義として正当化・美化されているという気配がなく――積極的に否定されていたとも云わないけど――、むしろドコかで作劇的には突き放されており、そのような性格傾向が彼女の「弱点」にもなっている……という、長所はウラを返せば短所にもなる二重性をやんわりと指摘しているような空気を個人的には感じさせなくもないのだ。


 これは映画本編の情報ではナイけれど、劇場入場者に配布された原作マンガ家自身による20ページ弱ほどの描き下ろし番外編漫画では、ヒロインの母親に「硝子はドンくさい(!)子供だった……」と冷徹に述懐させてもいる。
 映画鑑賞後に後学のために手に取ってみた原作マンガに至っては、同じくヒロインの母親に、硝子の髪型がいかにもフェミニンでセミロングなものだからこそ、小学校の同級生のクソ餓鬼男子どもがその(肉食)動物的な直感で、オトナしそうで弱そうで反撃してこなさそうな女の子として見てナメてかかってくることで、それにより突け入れられてイジメられる一因にもなっている! といった趣旨の発言をさせており――巷間云われる痴漢にあいやすいタイプと同じですネ(汗)――、ヒロインに対して衝動的に男の子並みのベリー・ショートな髪型に散髪しようとするシーンまでもが(未遂に終わるけど)描かれていた。
――この母親の透徹した「イジメ」観を、筆者は「価値判断」の次元では肯定しないけど「事実認識」の次元では肯定する――


 つまりは作り手たちは、ヒロインの「ルックス」や「性格」をも含む「聖女性」の問題については、ドコまで明瞭に意識化・言語化・理論化していたかはともかくとしても、ある程度までは自覚的であり、それらをさりげなく相対化する視点については、とっくに織り込み済ではあったのだと私見する。


*エクスキューズの極めつけ、ヒロインのアンチとしての美少女キャラ・植野直花


 メインヒロインと主人公少年とのぎこちない5年ぶりの交流が始まり、その過程でヒロインが小学6年生時代の同級生女子・佐原さんの去就を気にしたことで、「あるある」の「リアリティ」路線から現実世界ではおおよそ実現しそうにはナイけれど、劇的な「ドラマチック」路線へとストーリーはシフトチェンジして、進学先もバラバラな小学校時代の旧友たちとの再会が、街角での偶然の邂逅(かいこう)も交えて描かれていく。
 そのひとりであるサラサラした黒髪ロングのスレンダーでスタイルもよい美少女キャラ・植野直花(うえの・なおか)の存在と、彼女の強気で気まぐれでワガママな言動が、本作を凡百の作品に堕さしめない強烈なポイントともなっている。
 ヒロイン・西宮硝子の「聖女性」とは真逆の、好悪が激しくて「鬼子母神」的な激情をも時に露わにする植野さん。


 ヒロインと主人公少年との街角での待ち合わせ場所の近くに偶然(?)居合わせた植野さんが、ヒロインを見かけるや失礼千万にも「いまだに“ボッチ”なの?」呼ばわりして彼女のことを小バカにし、喜びの再会のように駆けつけるや、小学生時代の再現だとばかりにヒロインの補聴器をその耳から取り上げる!――さすがに投げ捨てたりはしないけど――
 その後、ヒロインと主人公少年を中心に集った新旧の友人たちと出掛けた遊園地では、植野さんはヒロインを強引に誘ってふたりだけで観覧車に乗り込んで、閉鎖空間の中で、


「アナタがキライ!」
「いつもヘラヘラして!」
「(往時は)大人たちにチクって!」


とその心情をブチまけて、


「キライな者同士で握手!」
「要はアナタはアタシと話す気がナイのよ!」


とまでのたまってみせている!
 あげくの果てに、主人公少年が昏睡状態で入院する病院の駐車場のフェンスに見舞いに来たヒロインを叩きつけ、へたりこんだ彼女の長髪をつかみあげてパンチやビンタを浴びせつづけて、


「悲劇のヒロインぶるな!!」
「(自殺で贖罪しようとする行為自体が)思い上がりだ!!」


などと乱闘騒ぎ!


 終幕間際での主人公少年が友人連中と和解するシーンでも、「あー、寒寒(サムサム)。友情ごっこかよ」と冷や水を浴びせかけている。


 キョ、キョーレツ……。正直、「暴論」の域にも達している「極論」でもあると思う。しかし、彼女の言動にも大いに理があって、植野さんこそがヒロインを障害者として「腫れモノ」扱いすることなく対等な「一個人」として扱っているというロジックもたしかに成り立ちはするとも思う。
 個人的には、自身を偽悪的に封建主義者と称して「差別もある明るい社会」を標榜してきた漫画評論家呉智英先生の言ではないけれど、あからさまな支配・被支配関係の「差別」は許されるべきではないにせよ、全人類を一律に「障害者」にでもしないかぎりは、「健常者」と「障害者」との間にある何らかのハンディを完全なゼロにできるとも思えない。よって、「障害者」や弱者に対する何らかの優遇処置ナシに、両者を「絶対平等」「完全対等」なモノとして扱うこともまた、「公平」であるとはとても思えないので、植野さんの極端な言動に完全に賛同するモノでもないのだが。
 しかし、コレらの一連により、ヒロインの「聖女性」はいよいよ剥奪・相対化されて、作品をいわゆるベタな「感動ポルノ」に陥りかねないところを救い上げており、ドラマ面でも大きなアクセントにはなっている。


 ただし……。この作品におけるヒロインと植野さんとの個別具体の関係性はこうなっているのだ! というかたちでのナットクはできはするものの、これはこれで「聖女性」とは逆方向でのファンタジーな人間関係になっているとも思えなくもない。
 やはり、人間は誰とでもドコの国のヒトとでも仲良くなろうとすべきだとの博愛的な正論は認めるにしても、実際には性格や趣味嗜好や美意識の相違から来る「気が合う/合わない」という「相性」の問題もあるハズで、世間一般的にはヒロインのようなおっとりした性格の女子と、快活ではあるモノの短気で好悪が激しい女子とでは、気が合うことはまずはナイと思うし、筆者の狭い見聞からも、むしろ前者の女子は後者の女子を苦手にすら思っている。
 まぁ本作のメインヒロインである西宮硝子自身には、意外に強いところ、キモが据わったブレないところ、翻って云うなら鈍感なところもあるからこそ、植野さんと向き合えたというようにも解釈できるので、この作品内における特有のパーソナリティ同士の人物描写と人間関係としては特に大きな不満もナイのだが。


 その伝で云うならば、小学生時代に手話を勉強してメインヒロイン・硝子とコンタクトを取ろうとした気弱そうなノッポの短髪同級生少女・佐原さんの描写の方が注目に値する。小学生時代の植野さんが、


「ポイント稼ぎ、乙(おつ=お疲れさま)」


と揶揄して、


「その服装、ダサくね?」


とまで罵倒して、佐原さんの方ではそれにショックを受けてしまい、不登校に追い込まれる一連の描写の方がとてつもなくリアルでもある――佐原さんも弱すぎるとは思うけど、もちろん植野さんの方が断然悪い!(怒)――。
 一応の「聖女性」を仮託されたメインヒロイン・硝子の方が抱えていても不思議ではない「性格の弱さ」は、佐原さんの方が作劇的に大きく肩代わりさせられている。


 高校生の今では、ふつうに当の植野とツルんでいる佐原さん……というおおよそアリエそうもない友情関係に、若干の不整合やご都合主義を筆者個人は感じ取った。


 しかし、劇中でも主人公少年が当の佐原さんに


「佐原、植野と大丈夫だっけ?」


という気遣いのツッコミを入れさせて、ジェットコースターにカコつけて佐原さんが


「今でも怖(こわ)い」


と返したり、小学6年生時分に植野さんのみならず、メガネをかけた学級委員でチャッカリした自己保身的な(可愛い子)ブリっコ優等生女児・川井さんのことをも「怖かった」と明かすあたりも含めて、筆者のようなイジワルな観客からのツッコミに対する回答が劇中でも早々に用意されているのは、クレバーな作劇かつキャラクターシフトでもある。


 そんなキツめな性格の植野さんだからこそ、メインヒロインに対しては猛烈な嫌悪を隠さないけど、主人公少年のその後の「孤立」に過ぎる去就については、後ろめたく思っていたことも明かされる。そこに微量の恋情も込められていたこともほのめかされている。
 正直、快活な植野さんのような性格類型の少女であれば、オスとしての魅力に欠けるボサッとした弱者男子には眼もくれないであろうから、ワンパク坊主で口も達者でしかも頼もしかったとおぼしき小学生時代の主人公少年に好意を持ったのは、さもありなんでリアルだとは思う。
 しかし同時に、いわゆるファッション&スイーツの私的快楽至上主義者で、天下国家や公共のことにはまったく関心がナイようにも見える(偏見です)、植野さんのような虚栄心も強いタイプの子は、小学生時分に好意を持っていた相手を一途に思い詰めつづける……などといったことはさらさらなく、当の相手がダサく見えてくれば、もっとイイ男に次々と目移りしていくんじゃネ? とも思うけど(汗)。
 でも、それをいくらフィクション作品とはいえ、リアルに描写してしまったならばビッチに過ぎて、植野さんが観客に好感を持たれることもなかったであろうから、この作品における植野さんの「キツさ」と「一途さ」の描写の塩梅は実に絶妙だったとは思うのだ。


 ……実は当初は筆者も、植野さんを擁護しようと考えていたのだけれども、ググってみると植野擁護論はけっこうあるようなので、ヘソを曲げて穿った批判をしてみました(笑)。しかし、植野さんがその役回りはそのままに、その顔面が美少女ではなかったならば、評論オタク界隈でもどのように受け止められていたであろうか? その評価の在り方にもまた、ネジくれたかたちでの「感動ポルノ」問題がハラまれているのやも!? といった観点から、どなたか思考実験を繰り広げてくれませんか?


*ヒロインが「自死」を選ぼうとする理由がわかるけれども弱いかも……


 本作における「起承転結」の「転」にあたる箇所は、本論冒頭でもふれた、花火大会を河川敷で鑑賞するヒロイン家族と主人公少年との団欒の最中に、ひとりだけ中座して帰宅し、自宅マンションのベランダから飛び降りようとするヒロインの衝撃的な行為によってもたらされる。


 先に植野さんが「贖罪としての自殺など思い上がりだ!(大意)」などと強硬に批判したことにふれた。
 仮にその通りであるのなら、何がどう「思い上がり」であったのか? 何を「贖罪」しようとしたのか? その「罪」とは何であったのか? 「自死」を選択するに至る背中を押した触媒としての「引きガネ」とは何であり、「引きガネ」で点火されて暴発した弾倉の「火薬」の種類とは何であったのか?
 コレらのいくつかのファクターに踏み込んでいき、それらを腑分けして点描してもらいたかった気が個人的にはしている。それすなわち、本論の冒頭でパスルのピースが100個あるうちの5個ほどが抜けているのでは? と述べたゆえんでもある。


 本作の冒頭では、肩代わりさせてしまった5年前の補聴器の弁償金額分の大金をバイトで稼いで、起床前の母の枕元に置き、主人公少年が国道とおぼしき大河川の大橋から飛び降りて自死しようとするシーンもあった。
 時折りインサートされる小動物の死体や、メインヒロインの妹が撮影したという動物の死体写真もあった。ヒロイン姉妹に対して理解のある祖母の死も描写されてきた。
 他人を責めるよりも先に、自分のことを責めてしまうような内罰的な良い子ちゃんにすぎるヒロインの性格的な偏りも描かれてきてはいた。


 よく見れば、ヒロイン個人に限定しないならば、遠回しなかたちでの伏線、もしくは事後における説明、あるいは劇中において突発的な「死」が発生してもそれほどまでには不自然ではない状況を、この作品はすでに構築していたのやもしれない。
 しかし、コレをもってして、本作のヒロインの「自死」せんとする行為の突発性を、擁護するのはムリがあるようにも思える。いわんや観客の側で好意的に頭脳を働かせて深読みをしろ! というような意見は、ある種の評論オタクにありがちな、それこそ「思い上がり」の態度であるようにも筆者には思える。


 「自死」を決断することもさりながら、その前段としての「希死念慮」へと至る心理的な道程も、とてつもなく重たいモノであり生半可なモノではないハズだ。もちろんそれを真っ正面から延々と陰鬱に描く必要もナイのだが、本作はこの部分に少々の不足を感じてならない。
 ふたりの「希死念慮」の描写に、もうチョットばかりの点描さえ追加されていれば、作品にふたつあった「自死」という事象の「重心」がもう少しだけ低くなって作品が安定し、釈然としない唐突感も消え去って、腰の据わりが良くなったようにも思えるからだ。


 とにかくヒロインはそういう行動を取ったのだ! ということで了承して、映画の流れにあるがままに身をゆだねても別に構わないのやもしれない。しかし、それでも少々の釈然としない思いはやはり残るようにも思う。
 もちろん、ヒロインの行動原理がバレバレであったのなら、あのシーンに「意外性」や「驚き」はなくなってしまうことであろう。筆者個人も映画や物語というモノは劇中内でのすべての事情を事細かくていねいに説明しなくてもイイとは思う。その行間でそれとなく感じさせてくれるのであれば、それで問題がナイとも考えてはいる。


 つまるところ、「行間を点描で想像させる」という「役回り」を持った残り5個のピースがそこにピタリとハマっていたのであれば問題はなかった。しかし、筆者には残り5個のピースが単に欠落・紛失して空白が生じているだけのようにも見えてしまうのだ。


 だから微妙なところではあるのだが、個人的にはベタでもクサくなってもイイので、多少クドいくらいに随所にモンタージュ演出的なダメ押しがほしかったようには思う。
 ヒロインによる「自死」の選択は、もちろん冒頭の主人公少年による「自死」の選択とも「係り結び」的に対応している事象でもある。両者が「自死」を選択しようとした理由も、共に「内罰的」にすぎるがゆえであるだろう。
 その生来の性格は正反対である両者だが、高校3年生の時点ではこの一点において両者には共通点がある。ならば、その共通する彼らの内的な主題のところで、両者が呼応して響き合ったり引かれあったりしてハーモニーを奏でても、しょせんはリアリズムよりも象徴・寓意が優先する、ドキュメンタリーならぬフィクションとしての映画や物語作品としては、その方が有機的な連関を内部に兼ね備えて、映画としての体裁も美しくなったようには思える。


 であれば、そこは映画的な演出によるマジックの出番だ。たとえば、主人公少年が昏睡状態から覚醒する直前や、ヒロインの深夜の夢の中で、この両者の半生の総決算を「後悔」や「失望」を中心としたバンク映像の流用によるセピアに色アセた静止画の点描ではあってもフラッシュバックのように羅列してみせる。
 主人公少年の中高生時代の「ボッチ」状態や「不全感」。自身の人生への「絶望感」。小学生時代の「イジメ加害」行為への「後悔」どころか、過去の愚劣な自分自身に対する「怒り」や「殺意」。
 ヒロインの小学生時代の「イジメ被害」。自身を構ってくれたがために佐原さんが迫害されて不登校に陥ってしまった「申し訳なさ」。主人公少年への手話によらない発声に頼った恋愛感情の「告白」が通じないディスコミュニケーションへの「失望」。
 主人公少年とヒロインの両者が共に次第に持つに至った「自己消去願望」、ひいては「希死念慮」。


 コレら膨大な回想カットを、物量作戦的に短時間で畳み掛けてみせる映像作品特有の時間コントロール術で、ひいては観客の感情をもコントロールしようという初歩的なテクニックの提示。けれども、たとえば主人公少年とヒロインが共に抱えているあまたの「傷心」や「悲痛」に「反省」や「後悔」に「希死念慮」などのおさらいを走馬燈の洪水的な奔流、ベタでも1カットの長さが徐々に短くなっていくカットバックを、主人公少年とメインヒロインで交互に連発し合うような演出はできたようにも思うのだ――そーいうのはベタでイヤだというならばスイマセン(汗)――。


 コレらの回想カットを強引に押し流していくことで、実はこの両者には「この世での生きにくさ」という一点でもって共通点があったのだ! それはひとりでも歩んでいける近代的な自立した個人ではない、前近代的で「共依存」的なモノやもしれないけど、十二分に傷ついてもいる満身創痍の人間には頼れる杖や、自分をひとりの心ある人間として認めてくれることで自己確認もできる、慰謝や充電もしあってくれる友人や連れ添いがまずは必要なのだ!
 そんな心情や、両者のメタ的な接近に求心力を映像的にも補強してイメージさせていく! などといった手法を、コレもまたあくまで鑑賞数週間後の「後智恵」ではあるけれども、才無き一介のオタクである筆者が自身の非力さも顧みずに僭越を承知で代案を提示してみたくもなったりする――どうぞ罵倒してください(汗)――。


 そこまでの「傷心」や「後悔」の連打を提示した上でなお、主人公少年とヒロインによる「自死」という責任の取り方が、主人公少年が語る通り、


「それでも死に値するほどのことではナイ!」


と結論されるのであれば、植野さんが


「(「自死」によって責任を取ろうとする行為自体が)思い上がりだ!」


とヒロインに問いかけたことへのひとつの回答としてもピタリとハマったようにも思うのだ。


 昏睡状態に陥った主人公少年とヒロインが睡眠中に見た夢、その直後に両者が駆けつけて涙の再会を果たすシーン。先にこのシーンはそこだけが作りモノめいていて、浮いて見えると語った。だからカットをしろとか、リアリティの階梯を他のシーンと合わせるようにチューニングしろ! と筆者は批判・否定をしたいのではナイ。
 むしろ、作りモノめいていても、作りモノであることを徹底して、そこにある種の「密度感」のようなモノを高めていくことで、そのシーンに「リアリティ」とは異なるモノとしての「説得力」(!)は持たせることができるようにも思うのだ。
 たとえば、ここに上記のモンタージュ演出的なカットバック――猛烈な後悔・自己嫌悪・希死念慮を抱えていたふたりが互いにそうだと気付いて通じ合うことで安心し、無色・無味乾燥・索漠としたモノに感じられていた世界に対するフック・引っ掛かり・手応え・彩(いろど)りを感じていく一連のリフレイン――をチカラ技で代入していけば、ベタでもコレら一連のシーンは、イイ意味でのフィクション作品としての象徴・寓意・感情・主張などの、さらなる力強さを兼ね備えた名シーンに仕上がったようにも思えたのであった……。



 ズラズラと取りとめもなく書き連ねてきた。以上は筆者が本作に対して心の片隅に抱いた小さな不満を、顕微鏡のように拡大して語ってみせたモノである。
 文脈の都合で、あえて本作の美点の方にはあまりふれてはこなかった。筆者が指摘した本作の一応の弱点(?)は、すでに原作マンガの時点でハラまれていたモノであったことも、映画鑑賞後に確認もしている。
 しかし、本作については多大なる魅力を筆者も感じてはいるし、総合的には非常に優れていると判定しており、高く評価もしていることはくれぐれも念を押しておきたい。


(了)
(2016年10月15日脱稿~未発表。当該ブログ記事が初出)



後日付記:
 原作マンガ版の佐原さんの去就についても少々ケチをつけたいところがある(笑)。小学校6年生時分の自分が植野さんに「その服装、ダサくネ?」とその存在やセンスを全否定的に扱われた佐原さん。
 彼女は女子高の服飾専攻で頭角を現わし、その長身・ノッポを活かして、学内での服飾モデルとしても活躍することで、周囲や下級生からチヤホヤされて少々の「自信」を付けていく姿も描かれる……。
 いやまぁ別にイイんだけれども、非モテでキモオタの筆者としては、服飾デザイン面での技量はともかくモデルの方面は、コレはファッション&スイーツで虚栄心な方向での「自負」であって、その内面・人格・胆力・人間性・技量といった部分での「自信」じゃねーだろ!? とのツッコミもしたくなる(汗)。
 が、内面・人格・胆力・人間性なんてモノは即座に身に付くモノではないどころか、人生の数十年をかけて身に付けていくようなモノ、場合によっては一生かかっても性格的に身に付かない(爆)であろうモノやもしれないとも思うと、そーいう軽佻浮薄な方面でのアドバンテージで「自信」を付けていくのも、王道・正攻法とは思わないけど、方便としてはアリなのやもしれず、むしろ佐原さんみたいな気弱なタイプであれば、何でもイイから使えるモノは少しでも使って「自信」をカサ上げして、ようやくバランスが取れるのやもしれないとも思うと、コレこそが現実的な方策なのやもしれず……。でも、そーなると彼女が長身ではなかった場合には(以下略)。


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