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少女☆歌劇 レヴュースタァライト ~声優がミュージカルも熱演するけど傑作か!? 賛否合評!

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 2019年7月から昨夏の深夜アニメ『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(18年)が「スタァライト夏休みプロジェクト」と銘打って再放送中記念! とカコつけて……。『少女☆歌劇 レヴュー・スタァライト』評をアップ!


『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』 ~声優がミュージカルも熱演するけど傑作か!? 賛否合評!

『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』 ~賛否合評1・『少女革命ウテナ』の劣化コピーでも本家の作品群よりは上かも? 最上級の美麗なルックだが内容的にはイマ半か?

(文・T.SATO)
(2018年8月2日脱稿)


 宝塚や今は亡きSKD松竹歌劇団みたいな、少女だけの歌あり踊りありのお芝居学校を舞台とした作品。と要約してイイのか? 多分違う(笑)。
 すでにBSやCSでは先行して、三森すずこら声優たちがアニメと同じ役柄を務める2.5次元の舞台版も放映されている。筆者は録るだけ録って観てはいないけど(笑~ググってみると、舞台版の方が原作扱い!)。


 毎回の各話ラストでは、少女2~3名が知られざる学校の地下劇場に突如拉致される。「アタシ 再生産」の巨大字幕とともに、美麗なバンク映像で長々と描かれる、カラフルな軍服か制服もどきのミニスカ衣装が、自動機械や自動ミシンで衣料から裁断、超高速で裁縫され、金具類の鋳造描写まである不条理な変身シーンが描かれる。
 ロートルのアニオタなら皆が思うだろうが、「セーラームーン」シリーズ2年目の『セーラームーンR』(93年)以降や『少女革命ウテナ』(97年)、『輪るピングドラム』(11年)に『ユリ熊嵐』(15年)などを手掛けた幾原邦彦カントクのスタイリッシュで様式美的・前衛芸術的な演出へのオマージュでもあるだろう。
 ついでに云うなら、『ウテナ』はともかく『ピングドラム』『ユリ熊嵐』での長尺不条理バンク映像は、自己模倣・劣化コピー・少々クドめ、キャラデザが萌えというより少女漫画系で、女性ファンもゲットしようとイロ目を使っているのもわかるけど、今の女オタの好みの絵柄とも違うのでは? という感じで、筆者個人は評価していなかったので(異論は受付ます・汗)、本作の塩梅&尺の取り方くらいがちょうどイイ。


 そして、ナゾの軍服・戦闘服に身を包んだ少女たちが、主役・センターだかメンバー選抜をめぐって、低音ボイスでしゃべる動物のキリンさんの審査員が見守る中、即興演劇だか剣戟バトルだかをくりひろげる。
 良くも悪くも歌&踊りがある作品は、集客的にも強いよネ。あわよくば、2.5次元演劇や、巨大ライブも開催して、スマホ音ゲー(ム)でも集金ができる。それの何が悪い。誰も不幸になってないゾ。ファンたちも確信犯で消費・蕩尽してるのだ! と思いつつも、長いモノ・流行りモノには巻かれたくない反発心からまた、別種の作品が誕生したりもするので、本作みたいな作品に反発する輩のメンタルもわかるし、半分同意もするけれど。


 製作はあまた(ほとんど?)の深夜アニメの製作委員会やスポンサーに名前を連ねるカードゲームのブシロードで、ついには主幹事会社の立場で、歌モノ・アイドルものの変化球として、昨17年にはガールズバンドを主題にしたゲーム&深夜アニメ『バンドリ! ガールズバンドバーティー!』を放ったが、続けて本作ではミュージカルを主題にしてみせたといったところか?
 しかも、前者は作劇的には良くても、少々低予算の並作画作品という感があったけど、本作は明らかにカネ&手間をかけた美麗かつアクションもある高作画作品になっている! てなワケで、前宣伝の段階からメジャー感も醸せていたワケだが……。


 ウ~ム。映像的には一級でも、お話の方は何やら索漠・散漫とした印象を受けなくもないのは筆者だけか? それとも、筆者もイイ歳こいて少々前衛ぶったメジャー感ある作品にムダに無意識に反発せんとして目が曇ってしまったか?(汗)


(了)
(初出・オールジャンル同人誌『SHOUT!』VOL.72(18年8月11日発行))


『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』 ~合評2・多数のキャラを見事に描き分け! 百合的三角関係も描くが、キモは各話ラストの不条理舞台劇バトル!

(文・久保達也)
(2018年11月24日脱稿)


 歌劇を扱ったアニメとしては、個人的には♪ていこ~くかげきだん~という主題歌が妙に耳に残る『サクラ大戦(たいせん)』(00年)を連想してしまうが、その「ていこくかげきだん」の実体は、帝国「歌劇」団の皮をかぶった秘密部隊・帝国「華撃」団だった。
 まぁ、「過激」の意味もこめられていたような気もするが、本作は近年過剰(かじょう)気味なアイドルアニメのヴァリエーションに見えながらも、実はこの『サクラ大戦』的な戦闘美少女を主役にしたバトルファンジー路線に対するオマージュこそが、製作側が最もやりたいことであるのだろう。


 筆者が歳(とし)を食ったことが大きいのだろうが、近年の深夜アニメは第1話を観ただけでは主人公や主要キャラの名前が覚えられず、エンディングのクレジットで確認せざるを得ないものが多いような印象が強い。
 それらに比べると、本作の第1話で主要キャラが出席番号と名前を名乗りながら次々とレッスン場に入ってくるのが実に親切に思えたのみならず、ショートカットの娘はリーダー格、金髪モデル体型のコはスター級、パープル髪のメガネっ娘(こ)は負けず嫌いなど、キャラ同士のちょっとしたやりとりや仕草のみで視聴者に知らしめてしまう演出は、個人的には好感度が高い。


 いくらブシロードの製作とはいえ、オレンジとブラウンの中間色のショートボブヘアを髪飾りで結(ゆ)わえた、「はぁ~」「てへぇ~」なんて調子でやや天然ぶりを垣間(かいま)見せる、アイドルアニメ『ラブライブ!』(13年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20160330/p1)の主人公・高坂穂乃果(こうさか・ほのか)をまんまパクったような主人公の元気少女・愛城華恋(あいじょう・かれん)が、歌劇学校のルームメイトである青髪ロングヘアでおっとりした少女・露崎まひる(つゆざき・まひる)の大きな胸に、ストレッチの最中に顔を埋(うず)めるや、まひるが至福の表情でにんまりするだけで、「華恋ちゃん大好き!」であるのを描写しているのも絶妙だ。
 アイドルアニメのみならず、近年めだつ女性同士の恋愛を描いた百合(ゆり)ものの要素までをも導入しているのは心憎いが、そんな華恋とまひるの関係性が、第1話で早くも揺らぎはじめることとなる。


 イギリスの王立歌劇学校(爆)から転校してきた、黒髪ロングヘアに星の髪飾りをつけた、華恋曰(いわ)く「クール&ミステリアス」な美少女・神楽ひかり(かぐら・ひかり)は、実は華恋が幼いころに撮ったツーショット写真をいまだに自室に飾っているほどのおさななじみだ。
 その写真にも示されているのだが、かつて華恋が贈った星型の髪飾りを、ひかりがいまだにつけてくれていることに、華恋が感動の意を表しても、ひかりはただ一言、「別に……」。
 『ラブライブ!』では穂乃果の教育係(笑)的な側面もあった、やや潔癖性(けっぺきしょう)で神経質な同じく黒髪ロングの美少女・園田海未(そのだ・うみ)を演じていた三森すずこ(みもり・すずこ)が、海未とはまったく異なる演技で、穂乃果みたいな華恋とからむのも要注目だ。


 こんな華恋とひかりのやりとりを見ているだけでパニックになり、これまでふたりで暮らしてきた寮の部屋に、よりによってひかりも同居させると主張する華恋に「絶対ムリ……」とつぶやくまひる。そして、「迷惑なら」と、ひとりで住むことを選んだひかりもまた、華恋と同じ写真をいまだに大事に持っているのだ。
 この百合的な三角関係はもちろん男性オタを狙い撃ちにしたものだが、彼女らのデリケートな関係性を作品の縦軸としてうまく描写できれば、『ラブライブ!』同様に男性キャラが皆無(爆)でも、女性オタをもゲットできるやもしれない。


 だが、製作側が本当にやりたいのはここからだ。


 寮で姿が見えなくなったひかりを捜していた華恋はエレベーターに乗りこむや、超高速で地底深くに墜(お)ちていき、レヴュー=歌劇の客席に放りこまれる。その舞台では、ひかりと負けず嫌いのメガネっ娘が、先述した『サクラ大戦』みたいな軍服に身を包み、剣術バトルを繰り広げていた!
 ナゼかキリンの姿で低音の中年ボイスで語るそこの支配人(?)によれば、ここは歌劇のオーディション会場であり、華恋みたいに自分は到底スター級の同期生に追いつかないなどと嘆(なげ)くような向上心がない者が来る場所ではない、などと華恋を追い返そうとする。


 それに突然奮起した華恋は、「アタシ 再生産」なる字幕(爆)につづき、縫製(ほうせい)工場というよりは、赤い鉄が流れる溶鉱炉やプレス機械などがカットバックされる中でつくりだされた、軍服と制服のいいとこ取りみたいな萌(も)え衣装を装着するという、まさに『仮面ライダービルド』(17年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20180513/p1)みたいな変身を遂(と)げる!
 変身描写のラストに、多数のカラフルなルージュ(口紅)が並んでいることで、かろうじて女の子らしさが演出されているのはポイントが高い。


 「第99期生、愛城華恋! みんなをスタァライトしちゃいます!」と、華恋がスーパー戦隊みたいな名乗りをあげると同時に勇壮かつ可憐(かれん)な挿入歌が流れだし、華恋は舞台を超高速で駆け抜け、メガネっ娘が連射する多数の短剣をかわし、宙を蝶(ちょう)のように舞って蜂(はち)のように刺す! って、絶対人間業(わざ)じゃねぇよなコレ(爆)。『ビルド』の上堀内佳寿也(かみほりうち・かずや)監督以上にアバンギャルドな演出かも(笑)。


 この『少女☆歌劇』もあまたのアイドルアニメ同様に、声優たちが演じるキャラの衣装に身を包んで繰り広げるライブならぬレヴューが展開されているが、やはりバトル場面はワイヤーアクションで再現されるのか? 声優にも若干(じゃっかん)の運動神経が必要とされるなんて、エラい時代になりました(笑)。


(了)
(初出・オールジャンル同人誌『DEATH-VOLT』VOL.81(18年12月29日発行))


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翔んで埼玉 ~ダサい・ダ埼玉・ネクラの語源とは!? 忌まわしき軽佻浮薄な80年代出自の北関東ディスりギャグを昇華!

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『翔んで埼玉』 ~ダサい・ダ埼玉・ネクラの語源とは!? 忌まわしき軽佻浮薄な80年代出自の北関東ディスりギャグを昇華!

(2019年2月22日(金)・封切)
(文・T.SATO)
(2019年6月7日脱稿)


 我々オッサン世代には、TVアニメ化(82年)もされたホモ・ギャグ漫画『パタリロ!』(78年)でも有名な魔夜峰央(まや・みねお)原作作品でもある、同名のマイナー漫画(82年)が実写映画化された。


 時は前世紀である20世紀。東京都は大いに栄えており、白亜の豪邸にゴシックな服装をした都民たちが裕福な生活をしている。
 しかし、荒川を挟んだ埼玉県では江戸時代か縄文時代の竪穴住居のような暮らし(!)をしており、埼玉県民が東京都に入るには「通行手形」(!)が必要であった(笑)――さらに、もっと田舎である群馬県に至っては恐竜も生き残っていた!?(汗)――。
 しかも、埼玉県民が変装して都心で遊んでいても、特殊センサーがその田舎クサさ(爆)を感知して警報が鳴って逮捕もされてしまうのだ!(笑)


 ドコから見ても完璧な身ごなしで東京都民にしか見えないGACKT(ガクト)が演じる男子高校生(笑)が、都心の白亜の大校舎の学園に転入してきた。しかし、彼の正体は「埼玉解放戦線」(!)のメンバーでもあったのだ!
 正体がバレてしまったことで始まる逃避行! そんな彼にホレてしまった東京至上主義者でもある生徒会長の美少年――実質的には見た目もメンタルも少女であり、新進若手女優の二階堂ふみちゃんが演じている(笑)――との道ならぬ恋&思想的な成長!
 東京vs埼玉の大合戦になるのかと思いきや、東京とツルんでしまったやはり縄文時代な千葉vs埼玉との大合戦ともなってしまう! しかして、最終的には千葉&埼玉連合軍が神奈川県とも通じている敵の巣窟でもある東京都庁(汗)へと殴り込むのであった! という物語であった。


 もちろん、設定からしてギャグであり、お芝居もオーバーアクションの学芸会のバカ映画でもある(イイ意味で!)。



 が、オッサンとしては、この原作マンガが発表された1982年末の時代背景との濃厚なつながりを想起せずにはいられない。


 オッサンの繰り言で恐縮だけれども、1982年よりも前の1970年代前半の若者文化とは、まだまだ日本が貧乏であり「四畳半フォークソング」が流行っていたような時代でもあった。70年代後半には少々音楽性(ポップス性)や優しいオシャレさを高めた当時は「ニューミュージック」と呼ばれた楽曲が流行しはじめるも、今でも延命している中島みゆきに象徴されるように、それは演歌のポップス版とでも呼ぶべきモノでもあった。
 そして、それらは消費文化の中でオシャレな自分に半ばは自己陶酔しながら、周囲に見せつけるために今で云う「リア充」(リアル・現実世界で充実)を装うといった体ではなく、ある種の「実存的なヤルせない情念」を歌い上げて、今で云う弱者やイケてない系にも手を差し伸べてくれるような包摂性があったのだ。


 しかし、70年代末期に突如として勃発したMANZAIブームで時代の空気――というのか若者文化――は急に軽佻浮薄へと変わってしまった。そこに1982年10月から平日正午の帯(おび)番組『笑っていいとも!』が放映を開始して、タレントのタモリが司会を務めた。そして、それまでのアングラ芸人臭を払拭して躁病的な芸風で番組を盛り上げて、「ネアカ」「ネクラ」や「ダ埼玉」「ダサい」といった言葉も流行らかす。
 これによって、「ネクラ」は当時の子供や若者たちにとっては、地味でもマジメでコツコツとした善良で誠実な人種なぞではなく、今で云うコミュ力や人間味もないツマラない人種であって公然とバカにしてもよい存在になってしまう(汗)。今で云う「陰キャ(ラ)」である性格類型の持ち主であった当時の子供や若者たちは、「ダメ人間意識」・「過剰な劣等感」まで持たされて、今日的な「スクールカースト」もこの時代に誕生するのであった……。


 そして、それらの派生形としてタモリは、「卓球はクラいスポーツ」、「埼玉や千葉(に名古屋)はダサい地域・田舎だ」とする芸も披露していくのだった……。


 個人的には実に不愉快な忌(いま)まわしき時代であった。しかし、「差別」が大スキな大多数の庶民・大衆・愚民の皆さまにとっては楽しくて楽しくて仕方がナイ、「黄金時代」だったのではないのかとも思うのだ(汗)――今では立憲民主党辻元清美(つじもと・きよみ)も、30年も前の80年代末期に中型船舶で東アジア各地をまわる「ピースボート」活動を記した自著『清美するで!! 新人類が船(ピースボート)を出す!』(第三書館・87年3月10日発行)の中で、「昔(70年代)はイイと思っていたけど、今では『神田川』などのフォークソングは貧乏クサくてイヤだ」などと語っていて、清貧よりも華美を採択してみせるような言説が個人的には実に不愉快だったものだ(爆)――。


 そして、89年(平成元年)夏に幼女連続殺人事件の犯人が懐かしのアニメ・特撮などが趣味である「おたく」(当時は「ひらがな」表記)であったことが判明し、この語句とそれの意味する人格類型・性格類型が一般大衆の間でも一世を風靡して、「ネクラ」な人種は今度は犯罪者予備軍として蔑視してもよい「おたく」扱いとされることで、一度はトドメを刺されてしまうのであった……(汗)。


 40年近くが経った今では、「オタク罵倒」の方はともかく、それらの「地方イジりギャグ」の方は干からびて、庶民・大衆の方こそがスレすぎて慣れてしまって、それらのイジりギャグを振り向けられても取り乱さずに乾いた半笑いでナチュラルに受け流すように立ち回ってみせるほどに成熟してしまっている。


 しかし、往時の「ネクラ人種」や「埼玉」や「千葉」などの「北関東」や「東北地方」の住民(の若者)は、TVのバラエティー番組や『笑っていいとも!』などに出演して出身地なぞを聞かれてしまうと、ホントウにガチで隠れキリシタンみたいな表情になっていたものだ(汗)。
 そして、その反対に70年代末期には、『ポパイ』などの若者雑誌でアメリカ西海岸がカッコいいものとして紹介されることで、享楽的で南国の楽園的なフンイキもある「沖縄」などは国内でも特にカッコいい別格エリアとして昇格されていった……というのが筆者の実感でもある。
 なので、今でも沖縄県民が本土に来ると差別されていると感じる……なぞとのたまう御仁もタマにはいるけれども、失礼ながらそれは被害妄想の類いであろう。ドー考えても若者文化の中では「沖縄」の方がオシャレで都道府県ブランドも高くて、その逆に80年代における「北関東」や「東北」は笑いのめしてもイイ、小さなイジメもOKな対象になっていたとも思うゾ(笑)。


 90年代後半以降のネット普及後の世界であれば、人数的にはホントは少数派であっても声はデカいので多数派(笑)に見えてしまう「ネット民」が噴き上がってくれることで、TV局なり往時のタモリ的な笑いなりヤンキーDQN(ドキュン)的な他人や弱者に対する共感性には乏しい不良視聴者どもをネット上では大いに叩きまくってくれることで、それらが大きな圧力となってTV局の製作者側でもそのテの蔑視ギャグは自粛してくれるようにもなっている。しかし、80年代とはホントウにヤリたい放題であって、当時の若手のお笑い芸人たちはスタジオの一般観客や街頭のシロウトを、ほとんどイジメのイジりたい放題にする……といった時代になっていたのだ(イヤ、ホントの話です・汗)。
――ここで云う、90年代後半以降の「ネット民」とは、「ネトウヨ」や「パヨク」も含む。「ネトウヨ」や「パヨク」連中には、まだ何らかの「社会正義」や「公共」なりについての関心なり意識がある。身の回りの半径数十メートル・地元の友人たちへのウケ狙い程度にしか関心がナイとおぼしき「私的快楽至上主義者」で、食材などを粗末に取り扱うバカッター民たちの方が筆者にとってははるかに呪わしい! ヒトが物理的・肉体的に傷つくワケでもないのにネットの炎上の方を批判して、バカッター民を保護すべき未熟な未成年のごとき弱者として擁護するリベラル連中は倒錯しているとさえ思うのだ(爆)――


 とはいえ、それからでも30年以上が過ぎると、90年代前半のバブル経済崩壊によって狂騒的な空気もとっくに消え去っており、TVに登場するお笑い芸人も元からクラスの中心にいた連中らではなくて、深夜バラエティー番組『アメトーーク』(03年~)の「中学ン時イケてない芸人トーク!」特集のように、コミュ力弱者がリハビリ(爆)のために芸人になったようなヤツらばかりが多数派(?)を占めるようにもなった昨今(笑)、江戸の仇を長崎で取ろうとする気力はまた筆者にはもうナイ。
 タモリもあそこでブーストをかけなければ80年代を生き残れずに、70年代末期のアングラ芸人として消え去っていたとも思うのだ。むろん、今がイイから過去もすべてを許すとかではなくって、その功罪両面は明らかにしたいけど、そこにルサンチマンを過剰に忍び込ませる気もまた毛頭ナイのだ。
 まぁ、それは筆者自身も加齢で枯れつつあるからかもしれない。埼玉ディスりのギャグ自体も陳腐化・形骸化・歌舞伎的様式美と化して、今となってはイジられても三枚目を演じて笑いで受け流すような関西人的なコミュニケーション流儀が日本人の間でも流通・普遍化するようにもなったからでもあるけれど。人々の何気ないコミュニケーションの仕方や細部にもここ数十年の間でもいろいろと変化があったということだ。そのへんはまた、別の作品評にカラめて今後とも「ついで」のオマケとして語っていく所存だ。



 ちなみに、「翔んで埼玉」の「翔んで」の方も、1976年に大ヒットした司馬遼太郎センセイが幕末維新の志士・西郷隆盛&その親友・大久保利通を描いた歴史小説翔ぶが如く』(薩摩隼人薩摩藩の武士らの機敏・剽悍な行動を指して名付けたタイトル)での意図的な漢字の誤用のタイトルに端を発している。同作のベストセラー化を受けて翌77年には「翔んでる女」が流行語となって、翌々年の78年の歌謡曲かもめが翔んだ日」&大人気ラブコメ漫画『翔んだカップル』でも一般化を果たして、筆者も子供心に実にカッコいい! と思った漢字語句でもあった。
 79年には我らが愛するジャンル作品でも『機動戦士ガンダム』(https://katoku99.hatenablog.com/entry/19990801/p1)の主題歌「翔べ! ガンダム」や、TV時代劇「必殺」シリーズでも『翔べ! 必殺うらごろし』などのタイトルにも引用されたほどである。
 かつてほどではナイけれども、現在でも古びてはいないカッコいい漢字の誤用読みではあるので――もっとも、この漢字を一番好んでいるのはヤンキーDQN連中だとは思うけど(笑)――、「翔」に「飛ぶ」という「読み方」は本来はナイはずなのに――「飛ぶ」という「意味」自体は持ってはいるけど――、今ではすっかり日本語に定着した新造語句でもあった。本作のタイトルもそんな時代風潮を受けたモノでもあったのだ。


 以上、「歴史証言」的な豆知識!


(了)
(初出・オールジャンル同人誌『DEATH-VOLT』VOL.82(19年6月16日発行予定⇒8月1日発行))


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(2019年5月31日(金)・封切)


(文・久保達也)
(2019年6月13日脱稿)

空前のゴジラブーム再び!?


 ギャレス・エドワーズ監督による映画『GODZILLA ゴジラ』(14年・東宝https://katoku99.hatenablog.com/entry/20190531/p1)で、ゴジラシリーズが映画『ゴジラ ファイナル ウォーズ』(04年・東宝http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20060304/p1)以来、実に10年ぶりに復活した。
 それ以降、かのロボットアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』シリーズ(95年~・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20110827/p1)で有名な庵野秀明(あんの・ひであき)総監督による映画『シン・ゴジラ』(16年・東宝http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20160824/p1)に、深夜アニメ『魔法少女まどか☆マギカ』(11年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20120527/p1)や『仮面ライダー鎧武(ガイム)』(13年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20140303/p1)のメインライターとして知られる虚淵玄(うろぶち・げん)が脚本を務めたアニメ映画『GODZILLA 怪獣惑星』(17年・東宝http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20171122/p1)にはじまる三部作と、この5年間は毎年のように、新作ゴジラ映画が観られる状況がつづいている。
 先述した『GODZILLA ゴジラ』で劇場を埋めつくした客はもうあきれるばかりに中年のオッサンばかりで、そこにオバサンとおじいさんがわずかに混じるという惨状(笑)だったのだが、これはまる10年間も新作ゴジラ映画が製作されなかったために、ゴジラの商品的価値が完全に地に堕(お)ちていた当時を象徴するものだった。


 それがあの庵野監督がゴジラを撮る! といった話題性のみならず、そこで描かれた政界ドラマを左右の政治家連中をはじめ識者やマスコミが大絶賛、怪獣映画としては異例の82億5千万円(!!)もの興行収入をあげた『シン・ゴジラ』を契機に、世間は一転してゴジラに注目することとなった。さらにゴジラがアニメ映画の三部作として製作されたことも、それまでゴジラを知らなかった、あるいは無関心だった若者たちを誘致するには一定の効果をあげてきたかと思える――ちなみに『GODZILLA ゴジラ』は32億円にとどまった――。
 今回の『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』を筆者は公開初日のレイトショーで鑑賞した。金曜日の夜だったこともあってか昔からの熱心な中年ゴジラファン以上に一般のカップルや老夫婦(!)などの姿も多く見られ、若者たちも男子のみならずひとりで観に来た女子も目立ち、それもオタではないであろうフツーにリア充に見える娘までもがいたほどだった。
 わずか5年前に公開された『GODZILLA ゴジラ』の当時とは隔世(かくせい)の感があった。まさに「継続は力なり」というべきであり、映画『ゴジラVSデストロイア』(95年・東宝)と映画『ゴジラ2000(にせん) ミレニアム』(99年・東宝)の間に生じたたった4年のブランクが、いわゆるミレニアムゴジラシリーズ(99~04年・東宝)の興行を低迷させる要因となったことを思えば、今後もゴジラ映画を継続して製作・公開していく必要があるだろう。


「モンスター・ヴァース」=怪獣世界シリーズ最新作!


 さて、『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』は先述した『GODZILLA ゴジラ』の続編なのだが、ゴジラが主役ではなくアメリカの「キング・オブ・モンスターズ」=怪獣王・キングコングが主役の映画『キングコング:髑髏島の巨神(どくろとうのきょしん)』(17年・アメリカ・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20170507/p1)とも世界観を共有した続編でもある。
 『髑髏島の巨神』のエンドタイトル後の映像にて今回登場する怪獣王ゴジラ・宇宙超怪獣キングギドラ・巨大蛾(が)モスラ・空の大怪獣ラドンが描かれた太古の壁画が登場することがまさに本作の予告編の役割を果たしており、『GODZILLA ゴジラ』にはじまる一連の作品群を製作側では「モンスター・ヴァース」、直訳すると「怪獣宇宙」=「巨大怪獣たちが存在する作品世界」のシリーズと名づけていることから、正確には本作はその第3弾にあたるのだ。
 先述したミレニアムゴジラシリーズの興行が低迷したのは、毎回世界観がリセットされてしまい1作1作が独立した作品となっていたために、観客がシリーズを歴史系譜的に追いつづける楽しみを奪われていたことも大きかったのであろうし、それぞれが主演作品を持つアメコミヒーローたちが活躍する舞台を同一世界として時に大集合もさせる映画『アベンジャーズ』シリーズ(12年~・アメリカ・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20190617/p1)が2010年代の現在では大ヒットしているのだから、ゴジラキングコングの世界観をクロスオーバーさせた今回の作劇の手法は、戦略的には実に正しいものだともいえるだろう。


 先にも記した通り、「モンスター・ヴァース」とは「巨大怪獣たちが存在する作品世界」のシリーズのことである。こういうカタカナ言葉を使うと新奇な感じがしてくる。しかし、そもそもの昭和の時代のゴジラシリーズや東宝特撮映画にしてからが元祖「モンスター・ヴァース」でもあったのだ!
 元祖の映画『ゴジラ』(54年・東宝)や映画『空の大怪獣ラドン』(56年・東宝)や映画『モスラ』(61年・東宝)はそれぞれが別個の独立した作品であった。それが『モスラ対ゴジラ』(64年・東宝)では2大怪獣を対決させた。同年のゴジラ映画『三大怪獣 地球最大の決戦』(64年・東宝)では早くもゴジララドンモスラを共演させることで 後付けでもそれぞれの作品が同一世界の物語であったことにした。
 ゴジラ映画『怪獣総進撃』(68年・東宝)に至っては、映画『大怪獣バラン』(58年・東宝)や『海底軍艦』(63年・東宝)の海竜マンダや『フランケンシュタイン対地底怪獣(バラゴン)』(65年・東宝)のバラゴンや『キングコングの逆襲』(67年・東宝)のゴロザウルスなどが登場することで、これらの東宝特撮映画までもがすべて同一世界の出来事であったとされたのだ!


 しかし、1970年代に青年年齢に達した第1世代の特撮マニアたちによるゴジラ映画を論評する論法では、ゴジラが人間に敵対する悪の存在から人間に味方する正義の存在へと変化して悪の怪獣と戦うようになっていったことを「堕落」として捉えた。
 そして、その原因を、怪獣映画がシリーズ化したことで、ゴジラや怪獣が観客や劇中人物たちにとって「未知」ではなく「既知」の存在となって、その「恐怖性」を失ったためであるとした。それゆえに「怪獣と人類との1VS1の初遭遇」という「1回性」を過剰に重視することで、同一世界を描く「続編」や「シリーズ化」を批判するようになっていく。
 怪獣と怪獣が対決する「怪獣プロレス」路線なんぞは、怪獣を「擬人化」して描くことで「既知」の存在そのものとしてしまうことで、怪獣の「恐怖性」を最も失わさせる悪行として徹底的に忌避(きひ)もした。
 1970年代末期から2000年代初頭に至るまでの特撮論壇では上記のような論調が主流であり、ゆえに興行的には大ヒットを記録していて当時の児童たちにも高い人気を博していた平成ゴジラシリーズも、その本格志向でありながらもやや粗(あら)がある作品内容についてのみならず、またも「昭和」のゴジラシリーズのように「同一世界でのシリーズ化」に陥(おちい)ったことそれ自体が間違っている! として批判する第1世代の特撮マニアたちは実は当時は多かったのであった――まぁ、今でもあの『シン・ゴジラ』に対してさえも、そのセンスある特撮映像や畳みかけるようなテンポのよい演出の方で評価するのではなく、ゴジラしか怪獣が登場せずに怪獣対決が描かれていないから良いのだとして評価を高くするような論法を展開する、あいかわらずの旧態依然な輩(やから)も少数ながらいたことはいたけれど(笑)――。


 だが、今回の『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』は、1945年8月6日に米軍が広島に原爆を投下した直後からゴジラが目撃されるようになったと設定したほどに、


「最高の恐怖」・「テーマは『リアル』」・「1954年の第1作『ゴジラ』の精神を受け継ぐ」


がキャッチコピーであった、あの5年前の『GODZILLA ゴジラ』の続編であるのにもかかわらず、そのテイストはまったく相反するものであり、まさに怪獣対決=「怪獣プロレス」を前面に押しだした、きわめてエンタメ色の強い作風となっていたのだった。


 人間側の主人公は、生物の生体音を流すことでその行動を操作することが可能な装置・オルカを大学時代に共同で開発し、その後結婚して息子と娘をさずかるも2014年にサンフランシスコで起きたゴジラVS怪獣ムートーの戦いで息子を失い、怪獣に対する考え方の違いで離婚した、ともに生物学者のマーク&エマのラッセル夫妻と、その12歳の娘・マディソンである。
 この一家が怪獣災害に巻きこまれる中で心の変遷(へんせん)や関係性の変化が生じた末に家族再生を果たすという、近年では『ウルトラマンR/B(ルーブ)』(18年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20180826/p1)などでも見られた、いわばホームドラマ的な展開を主軸に据(す)えている。
 そして彼らを取り巻く存在として、先述したように広島原爆投下直後から謎の巨大生物が目撃されたのを契機に1946年に実在したトルーマン大統領(!)によって秘密裏(り)に設立された、世界中に前進基地を置いて怪獣たちの動きを監視する未確認生物特務機関・モナークが、『GODZILLA ゴジラ』と『キングコング:髑髏島の巨神』にひきつづいて登場することで、両作を観ている観客であれば「世界観の共有」を印象づけている。
 生物学者であり『GODZILLA ゴジラ』につづいて登場する今や国際スターとなった渡辺謙(わたなべ・けん)が演じる芹沢猪四郎(せりざわ・いしろう)博士をはじめとする科学者陣と、黒人女性のダイアン・フォスター大佐が率いるG(ジー)チームなる武装部隊とで、先のモナークは構成されており、それぞれのゴジラや怪獣たちに対する思惑(おもわく)の違いも描かれていく――ちなみに、芹沢猪四郎とはもちろん、『ゴジラ』第1作のもうひとりの主人公・芹沢大助博士と、「昭和」の東宝特撮映画の多数を監督した故・本多猪四郎(ほんだ・いしろう)をかけ合わせたネーミングであるのは、ゴジラシリーズのマニアであればご承知の通りである――。
 そして人間側の悪役として登場するのは、元イギリス軍の大佐であるも現在は多数の傭兵(ようへい)を従え環境テロリストとして暗躍するアラン・ジョナである。先述したオルカで怪獣たちを操って世界を支配することをたくらみ、エマ&マディソン親子を拉致(らち)してエマ女史に自身の野望への協力を強要するのだ。


*「怪獣プロレス」を盛りあげるための「ホームドラマ」!


 これだけ多数の人間キャラが登場すればその群像劇を観ているだけでも充分におもしろい。先述したゴジラのアニメ映画三部作もそうだったが、ゴジラの登場がやや少なかったことが正直個人的には全然不満に思えないほどだった。
 アニメ映画三部作は熱心なゴジラファンからすればやはりそれが難点だったのだろうが、かの『シン・ゴジラ』もゴジラの登場場面はかなり少なかったのであり、その政界群像劇を絶賛しておきながらゴジラアニメ三部作を批判するのは、おもいっきりのダブルスタンダードにも思える(笑)。


 それはさておき、先述したように本作は科学者夫妻とその娘が中心となるホームドラマ的な展開であるのみならず、環境テロリストのアランに積極的に協力し世界各地を怪獣に襲撃させたエマ女史のマッド・サイエンティスト的なエキセントリックさがキモでもある。
 それこそ『ウルトラマンガイア』(98年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/19981206/p1)に登場した藤宮博也(ふじみや・ひろや)=ウルトラマンアグルをはじめ、90年代後半から00年代前半の特撮作品にありがちだった「人類は地球を汚すガン細胞だから滅ぼすべき」(笑)といったセリフをモロに放つ描写まであるほどなのだ。
 だが、ホームドラマ的な展開が世界観を矮小(わいしょう)化するワケでも、人類批判セリフによって陰鬱(いんうつ)な作風に陥(おちい)ることもないのは、本作の人間ドラマが怪獣対決=「怪獣プロレス」の魅力を阻害しないかたちで点描されているというよりかは、むしろ「怪獣プロレス」を盛りあげるためには欠かせない要素に達するまでに昇華がされていたからだ。


 先に今回の本編部分をホームドラマ的な展開と書いたが、それは決して1970年代に日本のテレビドラマ界で隆盛を極めていたホームドラマを揶揄(やゆ)して当時そう呼んだようなお茶の間での「メシ食いドラマ」(笑)ではなかった。
 もちろん冒頭ではマディソン嬢が実の父・マークから来たメールへの返信に夢中だったために、付けっぱなしのガスレンジで朝食を焦(こ)がしてしまう……なんていうベタな「日常」シーンなどが描かれるのだが、中国の奥地にあるモナークの基地にエマ女史が呼び出されて以降は、ラッセル家はマークもエマもマディソンもほぼ「非日常」の世界に放りこまれたままとなり、家族の心の変遷や関係性の変化はそこで描かれていくのである。


 それは娘であるマディソンの描写に最も色濃く表れている。
 中国のモナーク基地でモスラの卵が突然孵化(ふか)して芋(いも)虫のようなモスラの幼虫が基地内で暴れはじめ、幼虫の口からの粘液(ねんえき)で大勢の隊員が固められたり巨体に吹っ飛ばされたり瓦礫(がれき)の下敷きになったりしているのに、エマがオルカを発動させるやモスラがおとなしくなったことで、当初はマディソンは母・エマの研究に敬意を表して満面の笑(え)みでエマと抱き合うのである――多数の隊員が目前で非業の死を遂げていたのにも関わらずである! 母よりかは常識人なようでも、この娘もまた母の血をひいている(笑)――。
 だが、その後エマとマディソンはアランが率いる傭兵たちによって奴らが占領したモナークの南極基地に監禁されてしまう。そこに夫であるマークがモナークの主要キャラたちと救助に来るも、エマは夫による救助を拒絶するどころか学術的興味を優先して基地で氷漬(づ)けにされていたキングギドラを起動させ、エマの夫でありマディソンの父であるハズのマークを絶体絶命の危機に追いやってしまう! この行為でさすがにマディソン嬢でさえも次第にエマ、そしてエマの研究に対して疑念の目を向けるようになっていくのだ。
 そして決定打となったのは、メキシコの火山で眠っていたラドンをエマが起動させたことだ。せめて住民の避難が完了するまで待ってほしいとのマディソンの頼みに、エマが耳を貸さずにオルカでラドンを眠りから覚ましたことで、映画『ゴジラVSメカゴジラ』(93年・東宝)に登場したファイヤーラドンのように全身がマグマの熱で燃えたぎったラドンの急襲により、麓(ふもと)の市街地は壊滅してしまうのだ!
 ここに至り、ついにマディソンは「ママこそモンスター!」だとしてエマと彼女の研究を非難し、ひそかにオルカを持ち出して、アランたちのアジトからただひとりで脱出するのだ。カットによっては少年のようにも見えるマディソンを演じる黒髪ショートヘアのミリー・ボビー・ブラウンは本作がスクリーンデビューだそうだが、その演技はとてもそうとは思えないほどに絶品かと思えた。


 このように、ラッセル家の心の変遷や関係性の変化は、怪獣の出現・大暴れ・対決といった「特撮」の見せ場と分離して並行することなく、常に連動するかたちで描かれており、「本編」の「ホームドラマ」と「特撮」の「怪獣プロレス」のクライマックスが渾然(こんぜん)一体となって盛りあがるように組み立てられているのだ。これは近年の「平成」仮面ライダーシリーズなどとも同じ手法だともいえるだろう。


*「怪獣プロレス」至上主義のオタ監督(笑)


 もちろん今回の怪獣たちも、日本の怪獣映画の伝統として用いられてきた怪獣の着ぐるみを着用したスーツアクターによる演技ではなくCGで描かれている。しかし、特にゴジラキングギドラのデザインや動きは巨大怪獣というよりは中に人が入った怪獣の着ぐるみをリアルに再現しているかのような印象が強いのだ。
 たとえばキングギドラをCGで描くのなら、先述したアニメ映画版三部作の最終章・『GODZILLA 星を喰(く)う者』(18年・東宝http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20181123/p1)に登場したギドラのように、全長20キロメートル(!)もある超巨大な竜だとか、半透明で実体のない高次元エネルギー体だとか、その気になればもっと自由奔放(ほんぽう)なイメージにすることもできたハズだ。


 だが、今回登場したキングギドラは、デビュー作となったゴジラ映画『三大怪獣 地球最大の決戦』以来、「昭和」「平成」のゴジラシリーズで継承されてきた3本の首・2本の尾・巨大な羽根のスタイルを踏襲(とうしゅう)しており、映画『ゴジラモスラキングギドラ 大怪獣総攻撃』(01年・東宝)に護国聖獣として設定を改変されて登場したキングギドラほどではないにせよ、首や足がかなり太めなマッチョなスタイルなのだ。
 そして、マークたちの危機に颯爽(さっそう)と駆けつけたゴジラは、南極に上陸するやいきなりキングギドラの首を両腕でかかえこみ(!)氷原にたたきつけたのだ!
 筆者はこの場面を観て、本作の脚本も担当したマイケル・ドハティ監督が今回描きたかったのは「怪獣対決」ではなくあくまで「怪獣プロレス」であり、そのためにはキングギドラは先述した『星を喰う者』のギドラのようにあまりにもデカすぎるとかファンタジックなイメージではなく、それこそ中にマッチョなアクターが入っているかのような「人間体型」でなければならなかったのだろうと直観したものだ(笑)。


 本作ではキングギドラは「モンスター・ゼロ」と呼称されている。古い世代のマニアであれば、映画『怪獣大戦争』(65年・東宝)に悪役として登場した、自分たちも名前という固有名詞を持たずに、すべての生物を番号で呼んでいたX(エックス)星人が、キングギドラを「怪物0(ゼロ)」と呼称していた描写を引用したのだと、即座に気づいたことだろう。
 『怪獣大戦争』は彼の地ではかつて『GODZILLA VS.MONSTER ZERO(モンスター・ゼロ)』なるタイトルで公開されていたことは、われわれ年配の特撮マニア間では往年のマニア向け書籍などで目にしていた有名な話である。つまりは、アメリカではキングギドラの「モンスター・ゼロ」なる別名義は、作品タイトルでもあったくらいなのだから、むしろ日本以上にポピュラーだったようである。
 ちなみにX星人はゴジラを「怪物01(ゼロワン)」、ラドンを「怪物02(ゼロツー)」と呼んでいたのだが、たったそれだけの描写がX星人が地球外生命体であることを濃厚に感じさせ子供心をワクワクさせたものであり、幼いころにゴジラ映画に感じたそんな童心レベルでのSF的ワクワク感を、ドハティ監督は本作に徹底的にブチこんでいるようにも思えるのだ。


 ラドンが市街地に巻き起こした衝撃波でメキシコ軍の軍人たちが必死に樹木にしがみつきながらも吹っ飛ばされてしまう描写は、映画『空の大怪獣ラドン』の福岡襲撃場面を彷彿(ほうふつ)とさせるが、ここで市街地の広告看板がやたらと目立つのは、『ラドン』の該当(がいとう)場面にあった「森永ミルクキャラメル」とか「お買い物なら新天町」などの看板群に対する明らかなオマージュなのだろう。
 そもそもラドンの造形――あえてこう書く――や動きも、そのモチーフとなった実在した翼竜プテラノドンのようなシャープなイメージではなく、『ラドン』で使用されたギニョール(ラドン型の人形)を操演で動かす演出をワザワザ再現しているかのようである(笑)。
 戦闘機のコクピットからの主観映像と、ラドンが蝶(ちょう)のように舞い、蜂(はち)のように戦闘機群を次々に撃墜させていく描写を交錯させた演出もまた然(しか)りだ。


 キングギドラが目覚めたのを機に、世界各地で17匹(!)もの怪獣がいっせいに暴れだすのは、もはやゴジラ映画『怪獣総進撃』や『ゴジラ ファイナル ウォーズ』のうれしいパクリとしかいいようがないのだが、怪獣たちの中には先述した『キングコング:髑髏島の巨神』に登場したキングコングや巨大グモのバンブー・スパイダー、『GODZILLA ゴジラ』に登場したムートーらが含まれており、本作がそれらのれっきとした続編であることを強調しているのは実に好印象である。
 幻想的で優雅(ゆうが)な巨大羽根などの昆虫らしさをCGでリアルに描いたモスラが成虫と化す場面では、映画『モスラ』でインファント島の小美人が歌唱して以来、「昭和」から「平成」に至るまでモスラのテーマ曲として継承されてきた「モスラの歌」のメロディが流れ、ボストンでのゴジラVSキングギドラのラストバトルでは、とうとう故・伊福部昭(いふくべ・あきら)作曲の「ゴジラのテーマ」までもが流れてしまった!
 先述した『シン・ゴジラ』でも、『エヴァンゲリオン』の音楽を担当した鷺巣詩郎(さぎす・しろう)による劇伴(げきばん)が流れる中、庵野総監督も往年の東宝特撮映画の伊福部劇伴を多数流していたが、ドハティ監督のオタクぶりはまさに庵野氏に匹敵するといったところか?(笑)
 その『シン・ゴジラ』や『ゴジラVSデストロイア』のクライマックスバトルを踏襲するかのように、最後はついに本作のゴジラも全身が真っ赤に発光するバーニングゴジラと化してしまいましたとサ(爆)。


アメリカで流通した「ゴジラ観」とは?


 まぁ、アメリカではすでに1960年代の昔から、ケーブルテレビにてゴジラ映画をはじめとする日本の特撮怪獣映画が再三放映されており、かのスティーブン・スピルバーグジョージ・ルーカスティム・バートンといったハリウッドの巨匠(きょしょう)たちも、それを機にゴジラに夢中になったそうである。
 1974年生まれのドハティ監督もまた幼いころから日本のゴジラ映画を観ていたようだが、先述した巨匠たちが若かったころには当然ながらアメリカではまだ放映されるハズもなかった、娯楽志向や子供向けの作風が強まりゴジラが悪役から正義の味方へと次第にシフトしていった60年代後半から70年代前半の「昭和」の後期ゴジラシリーズにもふれていたことが、「怪獣プロレス」をウリにした今回の『キング・オブ・モンスターズ』の作風に影響を与えていたのかもしれない。


 なお、かつて『ニューウェイブ世代のゴジラ宣言』(JICC出版局(現・宝島社)・85年1月1日発行・ASIN:B00SKY0MJW)に掲載された「ゴジラ映画30年史」と題したコラムにて、


「ついにゴジラにガキまでできた。もうゴジラもダメである」(笑)


とされた映画『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』(67年・東宝)や「ゴジラシリーズ最低の内容である」とされた映画『ゴジラ対メガロ』(73年・東宝)など、80年代から90年代の日本の特撮評論では「駄作」扱いされてきたそれらの作品も、アメリカではリピート率が高かったためか結構人気があったそうである。


 もちろん国民性の違いもあるのだろうが、ドハティ監督にかぎらず、少なくともアメリカではゴジラは「反核」の象徴だの「恐怖」の対象だの「悪役」の怪獣だのと認識されていたワケではなかったのは確かだろう。そもそも人類の脅威として描かれた『ゴジラ』第1作が全米で初公開されたのは意外や意外、なんと日本の封切から50年後(!)の2004年のことだったのだから!――1956年にアメリカで公開された映画『GODZILLA,KING OF THE MONSTERS!(ゴジラ キング・オブ・ザ・モンスターズ!)』は、『ゴジラ』第1作から核兵器に関するくだりをすべて削除し、ハリウッド俳優の出演場面を加えた「改変版」にすぎなかった――


 ちなみに日本で第3次怪獣ブームが起きていた1978年、つまりドハティ監督が4歳のころに、アメリカの有名なアニメ製作会社ハンナ・バーベラ・プロダクションによる『Godzilla』と題したテレビアニメの放映がスタートしている。
 その内容は、「人間の味方」の怪獣王・ゴジラが、映画『大怪獣バラン』の主役怪獣・バランのように手足の間の皮膜(ひまく)で空を飛べる親戚(しんせき)怪獣(笑)・ゴズーキーや、調査船・カリコ号の船長や乗組員たちと人間の言葉で会話をしながら(爆)世界を旅する中、さまざまな怪獣や古代恐竜、雪男に宇宙人、はたまた犯罪組織やクローン人間などと対決するというものだったそうだ(笑)。
 ここで描かれたゴジラは、たしかに「反核」でも「恐怖」でも「悪役」でもなく、おもいっきりの正義のヒーロー怪獣だったのだろう。


 同作がアメリカで放映されていたころは、日本でも第3次怪獣ブームだったので東宝怪獣映画やウルトラマンシリーズが盛んにテレビで再放送されていた。そして、当時発行された初期東宝特撮や第1期ウルトラシリーズの至上主義者たちが執筆した本邦初のマニア向け商業本『ファンタスティックコレクション』シリーズ(朝日ソノラマ・77年~)などをまだ読めるハズもなかった当時の就学前の幼児や小学校低学年の子供たちは、そんなマニア向け書籍の影響を受けることも「初期」だの「後期」だの「第1期」だの「第2期」だのと区別することもなく、「ゴジラ」も「ウルトラマン」もすべてのシリーズ作品をありがたく享受(きょうじゅ)していたのだ。
 そんな彼らと同世代のドハティ監督が、旧来のゴジラファンからすればとんでもアニメとしか思えない『Godzilla』を幼少時に「これがゴジラだ」とありがたく受け入れて、氏の「ゴジラ観」が形成される中で多大な影響を及ぼすこととなった可能性も充分に考えられるだろう(笑)。


*ドハティ監督が「怪獣プロレス」にこだわった理由とは?


 今回の『キング・オブ・モンスターズ』で『ゴジラVSメカゴジラ』のファイヤーラドンや『ゴジラVSデストロイア』のバーニングゴジラに対するオマージュが見られたことから、ドハティ監督はわれわれ日本の特撮マニアたちのように20歳(はたち)を過ぎても新旧のゴジラ映画を観つづけてきたオタッキーな御仁であることは明らかなのだが(笑)、映画『ゴジラVSビオランテ』(89年・東宝)から95年の『ゴジラVSデストロイア』に至る「平成」ゴジラシリーズでは、「昭和」の時代と違って高層の建築物が激増したのを背景に、作品を重ねるごとにゴジラの身長と体重が巨大化する一方となり、その着ぐるみはかなり重量感を増した造形となっていた。
 ゆえに撮影現場ではスーツアクターが思うように動けなかったことから、「平成」ゴジラシリーズの故・川北紘一(かわきた・こういち)特撮監督はその代わりとして、光線や熱線をはじめとする怪獣たちの必殺技を作画合成でハデに描く演出を優先したところもあったのだろう。


 だが……



「平成になってから、どうも怪獣同士の取っ組み合いが少ないような気がするのですが。たとえば、ガバラ――映画『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』(69年・東宝)の敵怪獣――を一本背負いしたり(会場笑)、キングコングに蹴(け)りを食らわせて崖(がけ)から突き落としたりですね、あれやっぱりいいんですよ。ああいうのをやってほしいなと思うんですが」

(『ゴジラ/見る人/創る人 ―at LOFT・PLUS・ONE トークライブ』(99年12月26日発行・ソフトガレージ・ISBN:4921068453) ヤマダ・マサミ「ゴジラという現象」)



 これは東京の新宿・歌舞伎町(かぶきちょう)にあるロフトプラスワンで、1999年3月18日に開催された特撮ライター・ヤマダマサミ主催の「ゴジラ復活祭」と題したトークライブ第1回にて、当時の東宝映画プロデューサー・富山省吾(とみやま・しょうご)に対してファンから出された一般客からの意見である。先述した「平成」ゴジラシリーズの特撮演出を「光線作画の垂れ流しばかりでおもしろくない」とする批判の延長として、かつては怪獣映画が幼稚になった諸悪の根源としてさんざんに非難されてきた「怪獣プロレス」をその逆に改めて肯定(こうてい)してみせるものでもあったのだ。
 ホントにマニアは勝手だが(笑)、当時20代半ばとなっていたドハティ監督もやはりマニアのはしくれとして「平成」ゴジラシリーズにはこれと同様の感想を抱(いだ)いていたのかもしれない。
 本作のゴジラは先述したアニメ映画三部作のゴジラのように森林が生(お)い茂った巨大な山が動いていると思えるほどにかなりマッチョなスタイルだが、ドハティ監督は重すぎてあまり動けなかった「平成」ゴジラのデザイン・造形をわざわざ再現しつつも、故・川北特撮監督に代わってデカくて重たそうな着ぐるみ型のゴジラをCGで自在に動かして怪獣プロレスさせるリベンジをやらかしたのではあるまいか!?


 もちろんCGを駆使して描かれた、青白く発光するゴジラの背びれ、空のキングギドラに向かってゴジラが首を真上にして(!)口から放つ青白い放射能火炎、キングギドラの全身に常にほと走る金色のイナズマ、マグマの高熱で全身が真っ赤に染まったラドンなどの描写は、『ウルトラマンA(エース)』(72年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20070430/p1)第21話『天女の幻を観た!』(https://katoku99.hatenablog.com/entry/20061009/p1)で実にハデな必殺技を多数描いた特撮演出デビュー以来、カラフルな作画合成を得意としてきた故・川北特撮監督に対するリスペクトとも解釈できる演出である。そして、ゴジラを「青」、キングギドラを「金」、ラドンを「赤」とするなど、カラーイメージの統一にも成功しているのだ。
 また、高熱を体内に有したキングギドラの周囲では常に雷雲が発生するために気象レーダーではその姿が台風の渦巻き雲や目(!)のように表示されるとか、その設定をきちんと劇中で踏襲しつづけてキングギドラゴジラとの最終対決も含めた活躍場面が常にその暴風雨の中で描かれるのは、CGの利点を駆使したビジュアル的なハデさのみならず、氷漬けのキングギドラが南極基地で発掘されて鉄骨に囲まれた設備で格納されていたこととともに、かつての東宝怪獣映画の魅力だった疑似(ぎじ)科学性をも継承したものだといえるだろう。
 さらにゴジラキングギドララドンの巨大な目を登場人物たちの背景に据えて描くことで怪獣の「恐怖」をあおったり、ラドンとの対決で勝利したキングギドラが麓の街が壊滅したメキシコの火山の頂上で勝利の雄叫(おたけ)びをあげるさまをロング(ひき)でとらえたカットで画面手前に教会の十字架を大きく描いた「滅びの美学」的な演出には――個人的にはキングギドラのカッコよさが最も感じられたカットだ――、初期東宝特撮至上主義者である古い世代のマニアたちもおもわず注目するほどの出色の出来に仕上がったとも思える。


*芹沢博士に自己投影した特撮マニアの『ゴジラ』第1作へのリスペクト


 もちろん『ゴジラ』第1作への原点回帰を狙った『GODZILLA ゴジラ』の続編である以上は、やはり原点に対するリスペクトも見られないワケではないのだが、そちらは実にあっさりと済まされている感が強い。
 たとえば冒頭の議会の中で、モナークによる怪獣の生態や研究調査の報告・成果などの発表に対し、年配女性の議長が「小学生が喜びそうな講義をありがとう」とあからさまにバカにした態度を見せて議場で笑いが起きるさまは、『ゴジラ』第1作での初老の生物学者・山根恭平(やまね・きょうへい)博士の発言が国会で嘲笑(ちょうしょう)される場面を彷彿とさせるものだろう。ただ、科学者の言動が政界や自衛隊・マスコミなどの人間に嘲笑されるのは、『ゴジラ』第1作にかぎらず「昭和」の東宝特撮映画では定番だったものであり、これはむしろ東宝特撮映画全体に対するオマージュであるとも解釈できるものだ。


 中盤でキングギドラをはじめとする怪獣たちを殲滅(せんめつ)する超兵器として登場する、『ゴジラ』第1作のラストで芹沢博士が使用したのと同じ名の「水中酸素破壊剤」こと「オキシジェン・デストロイヤー」も、アメリカ海軍のウィリアム・ステンツ大将があまりにもフツーにかつ唐突(とうとつ)にそれを登場させるためにさほどの感慨もわかないくらいである――出番は短いものの「少将」だった前作につづいてウィリアム・ステンツ大将が登場することも、『GODZILLA ゴジラ』の続編であることをさりげなくアピールしている――。
 これも『ゴジラ』第1作に対するオマージュというよりは、むしろ半径3キロメートル以内の生物をすべて死滅させるハズのオキシジェン・デストロイヤーでさえも通用しなかった描写で、キングギドラを地球の生物とは別格の宇宙怪獣であることに説得力を与えるために、便宜的にここに配置したという印象の方が強いものなのだ。


 ただし、今回のクライマックスバトル直前に見られた「二代目」芹沢博士の行動は、まだ公開間もないことから詳述は避けるが、『ゴジラ』第1作ラストシーンの「初代」芹沢博士を彷彿とさせる姿で描かれていた。
 ちなみに、芹沢博士を演じた渡辺謙は、前作の公開時に自身の役名の元ネタである故・本多猪四郎監督の名を「いしろう」ではなく「いのしろう」と思っていたと発言し、大のゴジラ好きで知られる俳優・佐野史郎(さの・しろう)から「なんだおまえは!」と一喝(いっかつ)されて平謝りしたというエピソードがあるそうだ。いや佐野センセイ、そりゃ一般人なら「いのしろう」と読んでしまいますって(笑)。ところで、佐野氏は1955年、渡辺氏は1959年生まれであり、ともに1966年~1967年の第1次怪獣ブーム世代である。
 われわれのような特撮マニアからすると、そんなヌルオタ(ヌルいオタク)なエピソードがある渡辺氏ではあるけれど、前作、そして本作でも、共演するハリウッドスターたちが皆ゴジラを「ゴッズィ~ラ」と発音する中、ただひとり「ゴジラ」と呼ぶように演技していたという話は、個人的には敬服に値することだと思っている。
 そして氏が演じる「二代目」芹沢博士は、先述したオキシジェン・デストロイヤーによって一度は生体反応を止めてしまったゴジラに、日本語で「さらば、友よ」と呼びかける……


 ひたすら自宅にこもって研究の日々をすごすばかりで、先述した山根博士の娘・恵美子にひそかに想いを寄せるものの、リア充的な好青年・尾形秀人(おがた・ひでと)と恋仲だと知って落胆(らくたん)する姿までもが描かれた、故・平田昭彦(ひらた・あきひこ)が演じていた「初代」芹沢博士。
 それは、まだ自身のコミュ力弱者ぶりをコミカルに吐露してみせるような(ひとり)ボッチアニメなどがカケラも存在していなかった70年代末期に起きた第3次怪獣ブームの時代においては――ちなみに、この時代はようやく『宇宙戦艦ヤマト』(74年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20101207/p1)などが注目されはじめたころであり、そもそもアニメや特撮などは「大人」や「青年」が観るものではなかった――、ちょうど同じころに特撮マニア間で再発見された往年の円谷特撮『怪奇大作戦』(68年)で名優・岸田森(きしだ・しん)が演じた、孤独な犯罪者にも同情してみせるようなどこか厭世的(えんせいてき)なクールなキャラクター、SRI(科学捜査研究所)の牧史郎(まき・しろう)に対するわれわれ特撮マニアたちの執着なども同様だったのだが、そのさみしい心象風景の描写がネクラで内向的なわれわれから過剰(かじょう)なまでの感情移入を集めることとなり、そんな自己投影(!)こそが特撮マニア界の勃興期でもあった当時における『ゴジラ』第1作を神格化させる一因にもなったのではなかろうか?
 実は「初代」芹沢博士にとっても、ゴジラは唯一(ゆいいつ)の「友」といえる存在だったのではなかっただろうか? と、今回「二代目」芹沢博士が放った「さらば、友よ」というセリフに、筆者は感慨を深くせずにはいられなかったものだった。


 「二代目」芹沢博士の自己犠牲によってゴジラは復活、キングギドラを倒すに至るほどの圧倒的なパワーを得ることとなるが、クライマックスバトルではキングギドラが口から放つ金色の電撃光線に敗れたモスラが光の粒子と化し、それを浴びたゴジラがさらにパワーアップを遂げ、全身を赤く発光させたバーニングゴジラとなる。
 これは『ゴジラVSメカゴジラ』のラストで、「機械文明の力」よりも「大自然の神秘」の優位を主張するテーマを体現させるために、メカゴジラに敗退したラドンが金粉と化して倒れ伏しているゴジラと合体し、ゴジラを復活・パワーアップさせたシーンのオマージュでもあるのだろう。
 モスラが成虫と化して優雅な羽根を広げて飛翔する場面で、アジアの超美人女優=チャン・ツィイーが演じるチェン博士がモスラを「怪獣の女王」(!)と呼び、モナークの隊員が「ゴジラモスラはいい仲なのか?」とつぶやくあたりも、子供向けの「昭和」の後期ゴジラシリーズでは善玉怪獣であったゴジラモスラを想起させる、やや幼稚なセリフだとも云えはするのだけれども、そのような適度なB級さも個人的には悪くはないと思う(笑)。
 そんなモスラと同様にゴジラに力を与た「二代目」芹沢博士が、たしかにゴジラの「友」であったことを反復して描いていく演出は、本編の「人間ドラマ」と特撮の「怪獣プロレス」のクライマックスを絶妙に融合させていたのだった。


*ハリウッドにお株を奪われた本家が進むべき道とは?


 キングギドラを倒して天空に向かって勝利の雄叫びをあげるゴジラを囲むように、バンブー・スパイダー、ムートー、ラドンが集結していき、「擬人化」された表現で怪獣たちがゴジラに頭(こうべ)まで垂れてしまう(笑)。そして、そこに入る字幕は


GODZILLA,KING OF THE MONSTERS!」


=「怪獣王 ゴジラ」なる称号である。


 これは先述したように、1956年に『ゴジラ』第1作の「改変版」がアメリカで公開された際につけられたタイトルをそのまま引用したものである。「怪獣たちの王」として君臨するゴジラをそのまま絵にして幕となる本作は、「最高の恐怖」・「テーマは『リアル』」・「1954年の第1作『ゴジラ』の精神を受け継ぐ」といったものとは真逆な、「非・恐怖」・「非・リアル」・「昭和の後期ゴジラシリーズの精神を受け継ぐ」かのような、小笠原諸島にある怪獣たちが住まう孤島・怪獣ランドの王様(笑)としてのゴジラみたいな稚気(ちき)ある描写で賛否はあるだろう。しかし、リアルなゴジラ像しか受け付けないというような頑迷な特撮マニアも歳を取って枯れてしまっているだろうから「もうこれでもいいか」的に意外と許せる人間ばかりとなっているような気がするので、意外と特撮マニアの大勢はあの怪獣たちの平伏シーンに満足しているのではないだろうか?


 ところで、本作の主人公親子・マークとマディソンがひきつづき登場する、まさに往年の映画『キングコング対ゴジラ』(62年・東宝)の再来となる続編映画『ゴジラVSコング』が2020年公開予定ですでに待機している(後日付記:2021年に公開延期とのこと)。しかし筆者は、本作『キング・オブ・モンスターズ』のラストシーンから、先述したアニメ版のゴジラ映画三部作の世界の物語にもつづいていくかのような印象も受けている。
 1999年5月、アメリカにカマキラスが出現して以降、21世紀前半にドゴラ・ラドンアンギラスダガーラ・オルガ……と次々に現れた怪獣たちにより、世界各地は壊滅的な打撃を受けてしまう。そして2030年、アメリカ西海岸に出現したゴジラは人類、そしてほかの怪獣たちをも駆逐(くちく)してしまう脅威(きょうい)的な存在であり、以後15年以上に渡り、人類は地球の覇権(はけん)をめぐってゴジラとの戦いを強(し)いられることとなる……
 これはアニメ版ゴジラ映画三部作の第1章『GODZILLA 怪獣惑星』の導入部にて、その世界観を示すためにあらすじ的に描かれたものなのだが、今回の『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』はまさにこれを1本の作品として映像化したかのような印象も受けるのだ。


 『GODZILLA 怪獣惑星』では、コンピューターが選抜した1万5千人の人々が移住先を求めて2048年に地球を脱出するも、生存可能な星を発見できなかったために20年後=地球時間では2万年後(!)に再度地球に帰還するが、そこはすでに人類が駆逐されてゴジラをはじめとする巨大生物が君臨する、新たな生態系の星となっていた。


 『キング・オブ・モンスターズ』では、エマ女史は


「このまま人類が繁栄をつづけることによる地球の滅亡を阻止するために、怪獣を使って地球を本来の姿(2億5千万年前のペルム紀)に戻すのだ」(大意)


と主張した。


 アニメ版ゴジラ映画三部作の最終章『GODZILLA 星を喰う者』に至っては、先述した『怪獣大戦争』の悪役・X星人が元ネタである異星人・エクシフのクールな美形神官であるメトフィエス


「各惑星で知的生命が科学的に繁栄した末にゴジラ型の原子力怪獣が生まれて、その惑星の知的生命も怪獣災害による苦悩の果てにいずれは絶滅、この大宇宙も最後は終焉を迎えるのならば、すべての事象は結局は最後に虚無に帰結していくことの具現化でもある高次元怪獣キングギドラに人身御供(ひとみごくう)として捧げて、知的生命体の終焉を人工的に早めることでその苦悩も除去してあげよう」(大意)


とまで主張した。


 これらの行動の動機は、イコールではないにしてもその根っこは相似(そうじ)はしている。


 『キング・オブ・モンスターズ』でのエマ女史の「太古の自然の回復」という願いが実現(?)するのに、『怪獣惑星』では「自然の回復」ではなく「新たな自然の誕生」という相違はあるものの、そこに2万年もの歳月を要したことになるのだが、次回作『ゴジラVSコング』の勝者が「怪獣の王」のみならず「地球の王」として君臨するようになれば、人類の行き着く先はアニメ版ゴジラ映画三部作に描かれた未来と同様のものになるのかもしれない。
 『キング・オブ・モンスターズ』のラストで描かれた、壊滅した大都会で雄叫びをあげる怪獣たちの姿は、まさにその伏線であるといっても過言ではないのだ。


 また、息子を殺したゴジラに中盤までひたすら恨みをつのらせていたマークが、侵略者=キングギドラと戦うゴジラの姿に実はゴジラが地球の「守護神」であることを悟(さと)る関係性の変化も、かつて両親をゴジラに殺されゴジラ打倒に執念(しゅうねん)を燃やしつづけたものの、三部作の間に心の変遷を遂げて最終章のラストで芹沢博士のようにゴジラと心中したアニメ版の青年主人公=ハルオ・サカキにも相似するものがあるように思える。
 しかし、今回のハリウッド版もアニメ版も人類の原水爆実験によって誕生させられたゴジラは、そんなものを生みだしてしまう人類に時に牙(きば)を向けるものの、前者はこの星を本来の姿に戻そうとする地球の「守護神」であると定義し、後者は放射能による突然変異で生じた新たなる生態系の「王」であると定義した点においてはハッキリとした相違があり、各作がそれぞれのゴジラ像を見事に描ききったとはいえるだろう。


 そんなゴジラの出自にも前作の『GODZILLA』2014年版よりかは敬意を示しつつも、「反核」でも「恐怖」でも「悪役」でもなくおもいっきりの正義のヒーロー怪獣ゴジラとして「怪獣プロレス」をメインに描いた、きわめて娯楽性の高いゴジラ映画がとうとうハリウッドでつくられてしまった。そして、興行通信社調べによるシネマランキングでも堂々初登場第1位に輝いた!――ちなみに2週目は案の定、ディズニーのアニメ映画『アラジン』(19年・アメリカ)に首位を奪われたものの、第2位には踏みとどまった――


 『シン・ゴジラ』以来、日本の特撮怪獣映画としてはゴジラは3年間も眠りつづけたままとなっている。日本における新作は2024年のゴジラ誕生70周年の際にでも製作しよう……なんて悠長(ゆうちょう)に構えていたら、またハリウッドに先を越されてしまい、海の向こうで公害怪獣ヘドラやサイボーグ怪獣ガイガン、昆虫怪獣メガロやロボット怪獣メカゴジラが復活してしまうかもしれない(笑)。
 巨大なイグアナがニューヨークの街をドタドタと走っていたハリウッド映画『GODZILLA』(98年・アメリカ)の時代ならともかく、ここまでやられてしまった以上は、本家の日本としてこのまま手をこまねいている場合ではなく、早急に次の手を打つべきではなかろうか?
 近年の仮面ライダースーパー戦隊ウルトラマンメタルヒーローなどで、バトルアクションを中心に描きつつも作品テーマや人間ドラマもきっちりと内包した作品を手がけてきた、海の向こうの『パワーレンジャー』(93年~・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20080518/p1)上がりの坂本浩一監督あたりにでも、日本版の『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』を早急に実現させ、本家としてのゴジラの真価を世界中に見せつけてもらいたいものである。


(了)
(初出・特撮同人誌『仮面特攻隊2019年初夏号』(19年6月16日発行)所収『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』合評3より抜粋)


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 2019年4月28日(日)深夜から映画館で先行公開のオリジナルビデオ『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』6部作が、全13話に再編集されて『機動戦士ガンダム THE ORIGIN 前夜 赤い彗星』との副題を付けてNHK地上波にて放映中記念! とカコつけて……。『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』(15年)評をアップ!


機動戦士ガンダム THE ORIGIN』 ~ニュータイプレビル将軍も相対化! 安彦良和の枯淡の境地!

(文・T.SATO)
(2019年6月6日脱稿)


 巨大ロボットアニメの金字塔『機動戦士ガンダム』(79年・81年に映画化・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/19990801/p1)初作の「前史」を描いた『機動戦士ガンダム THE ORIGIN(ジ・オリジン)』(15年)6部作が、この2019年春からNHKの深夜ワクにて『前夜 赤い彗星』の副題を付けて、25分・全13話に再編集されて地上波初放映。


 読者諸兄の大勢もご承知の通り、この『ORIGIN』の原作は、初作のキャラデザ&作画監督を務めた安彦良和が早くも20年近くも前の西暦2001年に「ガンダムエース」誌・創刊号の目玉として連載を開始した、初作を若干の新解釈を踏まえてリメイクしたマンガ作品であり、足掛け10年もの連載がつづいた作品でもある。
 同誌のドル箱であった同作を少しでも延命させたい編集部の意向か、物語は中盤で初作の「前史」を単行本6巻もの分量を費やして延々と描いていく番外編へとスライド。『ORIGIN』で映像化されたのはこの「前史」の部分だけであり、奇しくも「ORIGIN」=「起源」というタイトルが、あとから「前史」だけを映像化した作品のタイトルの方にこそピタリとハマった印象だ。
 ゆえに本来は、初作とは細部が異なるリメイク漫画版『ORIGIN』序盤につながっていく物語ではあるけれど、少々の不整合に眼をつむればTVアニメ版初作やその再編集たる映画版の序盤につながる作品として捉えても大きな違和感がナイものともなっている。映像主体の「ガンダム」シリーズにおいては、小説や漫画などの番外編作品でも、それらを原作にあとから映像化されたモノの方が正史として扱われる傾向があるようにも思うので――『機動戦士ガンダムUCユニコーン)』(10年)など――、今回の『ORIGIN』もそのような位置付けとなっていくのであろう。


 原典たる初作では、旧独を模したとおぼしきジオン公国の侵攻を受けた、宇宙空間に浮遊する地球連邦側の植民用巨大円筒スペースコロニー・サイド7に住まっていた少年少女たちが人手不足の地球連邦軍の最新戦艦に避難して、故郷を脱出する道程で生き延びるために仕方なく現地徴用兵士として戦争に身を投じていく「十五少年漂流記」スタイルの物語が描かれた。


 しかし、「前史」たる本作では、原典で主役巨大ロボ・ガンダムを操縦する少年主人公の宿敵となる、敵ジオン軍の巨大ロボ乗りでありエースパイロットでもあった金髪イケメン青年・シャアの方を主人公とする。
 そして、彼の少年時代からの来歴を、彼の父親でもあり「宇宙移民こそがニュータイプ(新人類)だ」と主張していたジオン・ダイクンを、彼の死に乗じてその権威を簒奪していくTV初作でもおなじみなザビ家の面々やその角逐に亡き次兄の顛末を、シャアことキャスバル・ダイクンがその偽名を名乗るために幾人かの青年の命を奪ってきた(!)その策謀をも描いていくのだ。
 月のウラ側にある最果てのコロニー・サイド3における地球連邦の圧政やそれに対する現地民の不満。その自治独立の機運をザビ家が代弁して「ジオン公国」を名乗らせる。かの国の巨大ヒト型ロボ=モビルスーツの開発史を通じてそのテストパイロットともなる初作の有名敵将であった青い巨星ランバ・ラル黒い三連星ガイア・オルテガ・マッシュ。初作にもシャアやランバ・ラルの配下として登場したスレンダー・デニム・クランプ・ドレンらの前歴。ついには、地球連邦政府に対しての独立戦争を、そして地上に「コロニー落とし作戦」を敢行していく一連をも映像化していく。


 初作やその劇場版をリアルタイムで鑑賞した往年の少年少女であれば特別に濃ゆいオタではなくとも、TV本編でもほのめかされて当時のマニア向け書籍でも語られていた「ルウム戦役」だの「南極条約」だのの「前史」はフワッとではあってもご存じのことではあるだろう。若年の後追いマニアであってもガンダムオタクであれば、そのような「前史」はもちろん承知されているのに違いない。
 そんな「前史」がついに最高級の作画クオリティーにて本格的に映像化を果たす日が来たのだ。しかも安彦の達筆で柔らかい描線をも見事に再現したキャラたちは、身振り手振りや表情も実に豊かにお芝居をしている――時には古き良き大時代のマンガのようにコミカルに崩したりもするけれども、それもまた愉快であった(笑)――。


 もちろん、このような一連の懐古趣味的な題材やストーリー展開は「爛熟の果ての徒花」、ニッチなニーズをねらった「狭いビジネス」であるとの批判も正しい――とはいえ、「ガンダム」や「宇宙戦艦ヤマト」に実写版「機動警察パトレイバー」などのオッサンホイホイ新作は、平均的な深夜アニメの10~100倍の規模で円盤を売り上げてはいるので、単純にニッチであるとも云いがたいけれども(汗)――。


 しかし、出来上がった作品は、ムダに無意味な難解さはカケラもナイので「一見さん、お断り」の作品ではなく、「ガンダム」を知らないお客さんがたとえ間違って何らかの機会に観ることになってしまったとしても、充分に理解ができて楽しめるだけの普遍性や面白さを獲得できているとも思うのだ――初作における思春期の繊細メンタルやヒロイズムではなく、政治的な権謀術策を主眼としているあたりで、幼児や児童層であれば理解しがたいモノではあろうけど(笑)――。


 なので、マニア諸氏が本作のことを「初作をよく知っていてこそ楽しめる」と評するのはその通りではあるけれども、ホメているつもりでその実、ライト層を遠ざけてしまう逆効果な行為だとも思うのだ。むしろ、本作を起点に「ガンダム」諸作に興味を持ってもらえるだけのポテンシャルまである作品だとも思うので、先の言説は愛情ゆえの言動なのは承知するけどクレバーな言動だとはとても思われない。


 初作を除くとムダに無意味に難解で生硬な作風となっていった歴代『ガンダム』を手懸けた富野カントクの作風と、判りやすくてナメらかでナチュラルに仕上げてみせる本作の監督を務めた安彦良和の作風。この両者は実に対照的でもある。
 この安彦や同世代の脚本家陣と組んでいたころの富野はイイ意味で彼らの作風や意見具申や牽制などによって中和されて、『ガンダム』初作はちょうどイイ塩梅に仕上がっていたのだとも痛感するのだ。
 氏が当時に手懸けた初作の小説版や、あるいは数年後に富野が1~2世代も歳下のスタッフたちとアニメを作るようになってワンマン体制が確立した以降の作品群に象徴的なのだが、登場人物たちのセリフが饒舌か、もしくは舌足らずへと二極化、血肉の通ったナマなセリフではなくムダに思わせぶりで観念的・生硬なセリフとなっていったこともまたその証左であった。


 『ORIGIN』以降の安彦はオトナの態度・営業トークで富野を立てるようにはなったけど、ロートルオタクであれば安彦が自身は関わってはいない続編「ガンダム」諸作や「ヒトの革新」だとされていた「ニュータイプ思想」に対して、陰に陽に批判的な見解をほのめかしていたことを覚えているであろう(笑)。
 後年、富野も転向してニュータイプという思想や存在を前面に押し出すことはやめて、宇宙移民よりも地上の保守的家族像の方を称揚するようにもなっていく。そして、安彦が手懸けた『ORIGIN』でも、宇宙移民の先進性や地球連邦からの独立を唱えた「ニュータイプ思想」の先導者でもあったジオン・ダイクンは、先駆的・前衛的な思想の持ち主であったとは決して描かれない。
 その正体はただのイカレた誇大妄想狂のチンケな小人物として描かれる。しかも、彼は子供を産めなかったけど才女ではあった老妻を捨てて(爆)、学はなくとも癒やしだけは与えてくれる従順な若い酌婦に走って、その彼女に産ませた子供たちが初作の宿敵・シャアや、その妹でもあり初作では地球連邦軍の最新戦艦にて主人公少年らと行動をともにするセイラ嬢であったとしたのだ。


 安彦は人類がニュータイプへ進化するなぞという絵空事はツユほども信じておらず、その思想は害毒ですらあり、そのようなSFビジョンを信じてしまうガンダムオタクたちをお節介にも幻滅させて解毒しようとしているのがミエミエである(笑)。
――近年では富野や安彦の逆張りとして、作家の福井晴敏ニュータイプに「虫の知らせ」レベルではない、アシモフやクラークのごとき古典SF的な補強を施した作品『機動戦士ガンダムNT(ナラティブ)』(18年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20181209/p1)なども登場。個人的にはココまで徹底するならコレはコレで興味深く、相矛盾する両極のニュータイプ解釈が並立すること自体は個人的には歓迎している――


 そして、初作についての従来のウラ設定ではジオン・ダイクンはザビ家に暗殺されたことになっていたが、本作ではそれもまたステレオタイプな旧態依然の勧善懲悪図式だと看て取ったのか、特に陰謀のようなモノもなくてタダの心臓発作であったとして描くのだ(汗)――とはいえ、この事態に驚愕しつつも機を見るに敏で、ザビ家が権力を掌握していったサマをも描いていくのがまたリアルだ――。


 しかして、少年時代のシャア少年も無垢なる悲劇の被害者・犠牲者として描かれるだけの存在ではない。


「自分はザビ家にひざまづく人間ではない!」
「貴様らを従える人間なのだ!」


などと、良く云えば「気高さ」、悪く云えば自我が肥大した「夜郎自大さ」を豪語させることで、劇中内絶対正義ではなく彼もまた、少なくとも子供の時分には利発であっても、自我を肥大させて気位・プライドも非常に高い、なおかつザビ家の女傑・キシリアを前にしても物怖じしないどころか、一歩も引かない胆力を兼ね備えた少年としても描かれる――ザビ家の同年代の末弟・ガルマ少年の歳相応の落ち着きのなさとの対比がまた絶妙!――。
 なるほど、こーいう子供であれば、長じて正体を隠して立身出世も遂げてザビ家に近付きひとりひとり暗殺していくような、狂気と紙一重である執念を発揮しても不思議じゃない! ……というような、半分ほどは突き放して相対化もされているような描き方――シャア少年に父を暗殺したのはザビ家だと憶測を吹き込んだのは、初作中盤の人気中年敵役ランバ・ラルの父君だったことにもなるけれど(爆)――。



 リアルロボットアニメの嚆矢(こうし)として往時はいかに衝撃的であった『ガンダム』初作といえども、後年に観返せばまだまだヒーローロボットアニメの尻尾を引きずってもおり、ザビ家の面々は美形の末弟・ガルマ青年を除けばいかにも悪党的な面構えで、彼らが住まう公邸もトゲトゲとした意匠の「悪の巣窟」ではあったけど、『ORIGIN』6部作の最終章ではココにもひっくり返しを図ってくる。
 初作中後盤にも登場する日本の初代首相・伊藤博文みたいな白髯の風貌で、温厚な人格者としての性格を与えられてきた地球連邦軍レビル将軍翁と、ザビ家筆頭でジオン公国・公王でもある杖をついていて肥満した巨体のハゲ頭でマフィアのフィクサーのごときスゴ味のあるデギン・ザビ翁。


 レビル将軍ジオン軍黒い三連星に囚われたあとに脱出を果たして、その後に「ジオンに兵なし!」のフレーズで有名な名演説を果たしたとされてきた。
 コレは通常、ジオンの「独裁」には屈しない「自由主義」を称揚するモノとして解釈されてきた。しかし、本作ではむしろ人類の半数を死に至らしめる危機的状況を惹起したジオンのコロニー落とし作戦に恐怖して、戦争が継続することでの大破局への憂慮を深めるデギン翁の方が現実的な「和平派」なのである。
 デギンは地球連邦と講和を結ぶために、捕虜となっていたレビル将軍ともお忍びで面会し、レビルに恩を着せるかたちで実権を握る強硬派で実子の長兄ギレン・ザビを出し抜いて、連邦と通じてひそかにレビル将軍を脱出させるのだ!


 そこでレビル将軍デギン翁に対して忖度して折れてくれれば、戦争は一旦の終結となったハズではあるけれど……。妥協・利害調整・義理人情による偽りの「平和」より、良くも悪くも「理念」「正義」を優先する御仁であったのであろう。すでに南極条約のサミット会場でも両国の一部高官の間で利権も込みでの停戦交渉がはじまっていたのに、レビル将軍は会場に乱入して徹底抗戦を唱える「ジオンに兵なし!(ジオンに国力なし!)」演説を全世界にTVでナマ発信をしてみせる!
 コレを観て、裏切られたと激怒するデギン翁! 戦争は継続することになってしまうのであった(汗)。


 妥協の「平和」と、悪しき体制は殲滅してでも勝ち取る「平和」。
 ムズカしいところではある。日独伊が滅びても延命したスペインのフランコ独裁のごとく、戦争を経ずとも30年後には穏健な政権に着地できれば、妥協の「平和」でもよかったとなる。
 反対に第1次世界大戦の大惨禍の反省で欧州では空想的平和主義が流行、ナチドイツを刺激せずに各国が宥和(ゆうわ)的に接したならば増長して周辺諸国を電撃併合、第2次世界大戦が勃発してしまったとなれば、妥協の「平和」は失敗だったとなるのだ――世界史の授業でも習った英チェンバレン首相の「宥和政策の失敗」のことである――。
 強硬策でも同じことで、相手が折れれば成功、暴発してこちらも大損害を被れば失敗である。つまりは、自己の意図ではなく相手の出方次第。当たるも八卦、当たらぬも八卦のギャンブル。成否は結果から逆算するしかないので、「宥和」に出るか「強硬」に出るかの手法に甲乙は付けられないのだ(汗)。


 もちろん「反独裁」ですらもが絶対正義ではない。ジオン派が少数派であるコロニーでは彼らが弾圧され、生来粗暴なヤンキー不良どもがバイクやジープを駆り、「反独裁」という理念に共感したのではなく、大暴れしたいという想いや他人を差別して悦に入りたいという想いを正当化できる口実を見つけただけなのであろう、野蛮にも猟銃や火炎瓶で焼き討ちをかけてくる!
 それに対して、非暴力・無抵抗ではなく、年齢不相応にも妙に落ち着いている十代中盤の少女の身で、咄嗟に人々に指示を下してバリケードを築かせて自身も猟銃で応戦し、暴徒らをケダモノだと見下しつつも涙を流してその手を血で汚していくしかないセイラ嬢の姿も描かれる。


 「生まれてきたばかりの(自身の)赤ん坊を守るためにも俺は戦う!」という正論めいた誓いもまたその類いではあり、相手が変身ヒーローものに登場する人外の敵のような絶対悪であれば、その誓いも自動的に正義にもなる。しかし、コロニー落としで億単位での生命を奪った大罪の重さで泣き崩れるザビ家三男の猛将・ドズル大将がその発言で自己を保とうとすることで、意味合いを変えてしまうあたりは実にイジワルな作劇でもあった。


 劇中人物も語っていた通り、「(互いに引くに引けないから、人類が絶滅しない範疇で)世界は行き着くところまで行かねば気が済まない(大意)」というのが、各位で異なるあまたの思惑・意地・信念などのベクトルの合力としての「ヒトの歴史」でもあるという、ある種の諦観を『ORIGIN』の終盤は語り出してもしまうのだ。


 素朴な「左翼革命ごっこ」を描いて、革命を成功させても権力を握って責任主体となることは放棄することで無垢さを保とうとするナイーブな青年主人公を描いていた、安彦が監督を務めたアニメ映画『アリオン』(86年)&『ヴィナス戦記』(89年)などとは随分と遠い達観した地点に来たものだ――仮に近代国家自体が悪しきモノなのだとしても、それさえ革命で打倒すれば即座に地上天国が訪れるワケではなく、地域のジャイアンどもが跋扈してもっとヒドい状況になることは、今のイラク・アフガン・リビア・シリアの惨状などを見ていればわかることでもあるだろう――。


 とはいえ、信者の方々には申し訳がナイけど、初作を作った富野御大が久々に降臨した『ガンダム Gのレコンギスタ』(14年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20191215/p1)のあまりの出来に信者もほとんどが眼を覚まして(?)、若年オタも試しに観てみたらば「ジャンルの古典・教養のように云われてきたけど、こんなにもイビツな作品であるならば『ガンダム』などは観なくてもイイや!(大意)」なぞといった声が大量に飛び交って、円盤売上的にも爆死したところで、オタクのメインストリームであるべき若年オタク全般にとっての現在進行形での生命力もあるビビッドな作品としての存在意義を失って、「ガンダム」は一旦はトドメを刺されてしまったようにすら思う。
 20代のアニメ評論同人などと会話をしていると、京都アニメーション製作作品は基礎教養・スタンダードではあっても、「ガンダム」は観てすらいなかったりもするワケで……(汗)。いつまでも「ガンダム」や「ヤマト」の世ではナイことを理性の次元では喜ぶべきだと思いつつも、心情面では少々残念に思っていることも、ロートルな筆者にとっての事実ではあるのだ。


(了)
(初出・オールジャンル同人誌『DEATH-VOLT』VOL.82(19年6月16日発行予定⇒8月1日発行))


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(文・久保達也)
(18年12月7日脱稿)


 突然かまいたちに襲われたかのように全身に切り傷ができる。朝起きたら胸に猛獣のツメに切り裂かれたかのような大きな傷跡がある。周囲の人間に話しかけても誰ひとりとして自分の存在に気づかない……主要キャラが見舞われるこうした不可思議現象を、本作では「思春期症候群」と定義している。


 茶髪のギザギザヘアで表情や態度が常にやさぐれてはいるものの、言動は敬語を使うことが多い主人公・梓川咲太(あずさがわ・さくた)の、たったふたりしかいない友人(汗)のひとりで、灰色髪のロングヘアにメガネで制服の上から白衣をまとった理系女子・双葉理央(ふたば・りお)は、咲太から「思春期症候群」が発症する謎について問われ、自身はそれに否定的だと語ったうえで、オーストリア理論物理学者であるエルヴィン・シュレーディンガーの思考実験・「シュレーディンガーの猫」を引用してそれを解明しようとしていた。


 この「シュレーディンガーの猫」――咲太の家で猫が飼われているのもここからだろう――からシュレーディンガーが提唱したのが、一般的にも広く知られるパラドックスであり、これは正しそうに見える前提と、妥当(だとう)に見える推論から、受け入れがたい結論が得られることを意味している。
 第1話ではこの受け入れがたい結論=「思春期症候群」が起きるに至る「正しそうに見える前提」、そして「妥当に見える推論」が全編に渡って描かれているのだ。


 咲太の妹・かえでは中学時代にクラスのリーダー格に嫌われたために、SNSで執拗(しつよう)なイジメを受け、書きこみを見るたびに身体に傷が刻(きざ)まれ、それに衝撃を受けた咲太の胸に、翌朝大きな傷跡があった。これらは「正しそうに見える前提」だ。


 この胸の傷跡が、咲太が過去に暴力事件を起こして何人かを病院送りにしたというウワサになってしまい、咲太はクラスで孤立してしまう。もうひとりの友人・国見佑真(くにみ・ゆうま)の彼女からも、クラスで浮いてる奴といっしょにいると佑真の株が下がるから近づくな! とホザかれてしまうほどだ――激高する佑真の彼女に「生理か?」と云ってしまう、咲太のデリカシーの欠如(けつじょ)を批判する声もあるかもしれないが、それを云うなら「死ね!」とまでホザくほどの彼女の方がよほどヒドイだろう――。


 人のウワサとは現在では読むのが当然とされている「空気」みたいなものであり、それを読めないだけでダメな奴扱いされてしまう。それをつくっている連中には当事者意識がまったくなく、一度決まったクラスのかたちは簡単には変わらない。つまらない、おもしろいことはないか? と嘆きながらも、本当は誰も変化なんか求めてはいない。めだてばウザい、調子にのってると云われてしまう。そうなったらもう元に戻れない。それが学校という空間……


 本作は江ノ電での通学描写が象徴するように、いわゆる「湘南(しょうなん)」の地、神奈川県藤沢市周辺が舞台となっているが、海岸沿いの美しい風景や、校門・教室・校庭・学食といった、一見楽しそうな学園生活のカットバックに、学校という空間の現実を語る咲太のモノローグがかぶさる演出は絶妙な対比が効(き)き、「思春期症候群」に至ることの「妥当に見える推論」となり得ているのだ!


 そんな学校という空間の「空気」を読み、自ら「空気」を演じていたのが、本作の黒髪ロングのツンデレヒロイン・桜島麻衣(さくらじま・まい)だ。
 子役として芸能界にデビューして以来、華(はな)やかな日々を過ごすも、自分のことを誰も知らない世界に行きたいと願っていた麻衣にとっては、芸能活動のために1年生の途中から咲太の高校に通うこととなり、すでにかたちが決まったクラスの中では完全に異分子であり、誰も話しかけることがなかったのは、むしろ好都合であったろう。


 だが、麻衣は「空気」を演じつづけることで本当の「空気」=透明人間と化してしまい、好物のクリームパンを買おうとしても店員にまったく気づかれず、しまいには藤沢駅周辺で買いものが不可能となり、食事もままならなくなってしまう!
 麻衣が自ら「空気」になることを望み、それを演じていたのは、透明人間と化した「正しそうに見える前提」、「妥当に見える推論」と解釈すべきかもしれないが、自身の存在に気づいてほしいがために、ついに麻衣はバニーガールのコスプレをして図書館を徘徊(はいかい)するという、あまりに痛い行為に走ってしまうが、それでも誰にも気づかれない(汗)。


 理央は「思春期症候群」の解明にあたり、観測理論として長岡技術科学大学名誉教授・松野孝一郎が発見した「内部観測」についても語っている。物質は相互作用を通して相手を検知する、という定義だ。つまり、現在の麻衣と藤沢駅周辺の人々の間には、相互作用が発生していないという推論が成立するのだ。
 「人間の脳は見たくないものは見ない。誰かが観測することで、初めて皆がその存在を認識する」と理央は語ったが、学校も、そして社会も、見たくないものを見ようとしない輩(やから)であふれているがために、「透明人間」にされてしまう人々が存在するという現実を鋭くえぐりだした本作に、筆者は賞賛の声を惜しまずにはいられない。


 もっとも存在するハズの人間が最初からいなかったことにされてしまう恐怖は、アルフレッド・ヒッチコック監督のサスペンス映画『バルカン超特急』(38年・イギリス)や、航空事故で亡くなった息子の写真や思い出の品々が、主人公の手元からすべて消えてしまう映画『フォーガットン』(04年・アメリカ)など、古今東西で結構ネタにされている――『SSSS.GRIDMAN(グリッドマン)』(18年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20190529/p1)の悪のメインヒロイン(笑)・新条アカネに殺された人間の扱いもまた然(しか)りだ――ことを思えば、この問題は決して現代ニッポンに限ったことではないのだろうが。
 せめて我々だけでも、誰からも見えなくなった空腹の麻衣に、クリームパンを差し出すような人間でありたいものだ。


(了)
(初出・オールジャンル同人誌『DEATH-VOLT』VOL.81(18年12月29日発行))


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