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映画 聲の形 ~希死念慮・感動ポルノ・レイプファンタジー寸前!? 大意欲作だが不満もあり

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 2019年8月23日(金)から新宿ピカデリーほかで、京都アニメーション製作のアニメ映画が特集上映記念!
 恐れ多くもそれに便乗させていただき、京アニ製作のアニメ映画『映画 聲(こえ)の形』(16年)評をアップ!
 (先の事件で犠牲になられた方々のご冥福と、心身に重症を負われた方々のご回復を祈念いたしております)


『映画 聲の形』 ~希死念慮・感動ポルノ・レイプファンタジー寸前!? 大意欲作だが不満もあり

(文・T.SATO)
(2016年10月15日脱稿)


 腹に響く大音響とともに炸裂しつづける夜空の花火。マンションの一室の中から、浴衣姿の女子高生メインヒロインがベランダのヘリに立ち上がる姿が見える。風に大きくなびいていたカーテンが降りるや、ヒロインの姿が消えている!
 ……ベタといえばベタだが、衝撃的といえば衝撃的だし、人ひとりが死を選ぼうとするシーンに対する批評としては非常に不謹慎ではあるけれど、美しくて緊迫感もあるセンスのよいシークエンスに仕上がっていたとは思う。


 淡くてキレイな「中間色」を本映画の作品ビジュアルの基調としつつも、それが「シアン」や「マゼンタ」にも近い色彩でもあることから、ドコかで小さな「不穏」さも醸すような背景美術にくるまれているような感もある、この『映画 聲の形』という作品。
 その色彩がこの作品に独特の「夢遊病者感」を与えている。時折りインサートされる鯉が遊泳する小河川やその水中の描写ともあいまって、夢の中やあるいは水中に没した際の手足の自由がままならないような「不全感」、薄皮一枚を隔ててから外界と接しているような男子高校生主人公の「離人症」のような主観、彼の視界に映じているのであろうソフトフォーカスな光景。
 さらには、他人と情の通ったコミュニケーションを交わそうとしても、ことごとく無視されてしまうので孤立してしまう「疎外感」。ひいてはコミュニケーション相手の反応や働きかけから逆照射されることで確認できる自分の輪郭や足許すら定まらず、「生」の充実とはあまりに程遠い、どころか自身がたしかに「生きている」という実感すらもが欠落していき、自己の存在意義への懐疑や、はたまた稔りや喜びも少ないと予見されてきてしまう自身のコレからもつづくであろうミジメな将来。そこから必然的に導き出される淡い「希死念慮」(死にたいという気持ち)とも、本作の色彩設計は通じあっていく。
――あまり思い出したくナイけど、筆者も彼のような心象風景の10代を過ごしていたことを思い出す(汗)――


 しかし、そんなフワフワとした内面での逡巡と同時に、この作品世界の中で描かれているのは、「聴覚障害者」や「イジメ」に「教室内での孤立や蔑みの視線」や「人間関係の齟齬」といった、「夢遊病者」的な「中間色」の映像とは対極的ともいえる、あまりにも物理的・肉体的な「重苦しさ」や目が覚めるような「痛覚」といった「生々しさ」に満ち満ちた事象の数々でもある。


 筆者個人もこの作品世界とその空気や人間模様に大いに没入した。そして、相応に心を打たれたのも事実である。志も非常に高くて、かつ多面的で深い人間観察眼もある優れた見識の所在も感じさせる良作であり、野心作でもあったと思う。心に刺さってくるところも多々あったし感動もした。泣かせられもした。
 しかし、本作を手放しで賞賛する方々には不快に思われるやもしれないけど、何かがいくつか足りてはおらず、本来ならば作品内で十全に語られるべき事項が結局は語り尽くされていないような腰の据わりの悪さ、釈然としない奥歯に物が挟まったようなモヤモヤ感も残った。
 それは大きな瑕疵(かし)ではナイ。例えるなら100個あるパズルのピースが95個まではピタリとハマったものの、残りの5個ほどは欠落したままのような感覚だ。
 そのモヤモヤ感・不足感の正体を明らかにしたくて、ついでに本作をダシにして自身の「イジメ」観や「障害者」観なども語ってみたく、コレから本作のさまざまな要素について散文的に言及してみたい。


*「性格強者」、元「イジメ加害者」としての主人公少年・石田将也


 まずは、本作の主人公である男子高校生・石田将也(いしだ・しょうや)について語ろう。
 彼自身は筆者も含むある種の性格類型が愛好するような、オタク向けジャンル作品の主人公の大勢を占めるような、生来からの弱さや繊細さを感じさせるタイプではナイ。
 美少年もしくは「普通」や「平均」、もっと云うならやや「内向的」な性格を意味する少年の記号として、前髪を垂らしてオデコや眉毛を隠すことで、他人に対する弱めのバリアを張ってから、そのスダレ越しに外界をうかがっているようなナイーブな性格をドコかで感じさせるタイプであるキャラクターのような「髪型」を彼はしていない。
 オデコをまるまると出して短髪の黒髪をさらに上方に軽く逆立てた、生来の性格はきっと他人に対して物怖じするようなタイプではなかったのであろうとも想起させる、多少のワイルドさを感じさせる風貌を彼は持っている。
 それは彼が本来的には特に気張らなくても平常運転の状態では、他人に対して気後れすることなくコミュニケーションに踏み出していける、エネルギッシュで不敵な印象もドコかで醸さないではない。


 本作の冒頭では、この主人公少年・将也が小学6年生であった時分の姿が印象的に描かれる。郊外の小さな橋の上から友人たちと小河川に飛び込むワンパク坊主な姿。学校の授業にはあまり関心がなく、ということは恐らくは知的・お文化的なものにも関心がナイ。落着きもなくてガマンも足りなくて、授業中の退屈をまぎらわせるためか、シャープペンのおしりを神経質にカチカチと押して、延々とその針を伸ばしつづけている姿。
 本作のメインヒロインともなる小学6年生時代の聴覚障害の少女がクラスに転入してくるや、無遠慮にも甲高い驚きの声をあげ、珍奇な異物か玩具か昆虫を発見したかのように彼女を弄び、真後ろの席からどの程度の聴覚障害であるかを確かめんと授業中でも彼女の後頭部へ向けて大声で叫び散らす!


 他人への共感能力や肉体的・性格的な弱者へのいたわりには乏しい、こういう乱暴な男子小学生ってたしかにいたよなぁ……。腕力や胆力に生命力といったモノには決定的に欠けていて、この主人公少年とは真逆の性格であった筆者なぞは、このような精気に満ちたタイプの子のことを非常に苦手に思っていたこともニガ味&苦笑とともに思い出す。


 そして、この小学6年生時代の主人公少年は、聴覚障害者特有の健常者とは異なる独特の抑揚のしゃべり方をチャカして口マネし、黒板に大量に彼女の悪口を書きつづり、校庭で砂を投げつけ、彼女の意思疎通用のノートを池に捨て、イタズラで奪った補聴器を窓の外へと放り投げる!
 特に恐らく何度目かの補聴器をムリやりに奪ったシーンでは、彼女の耳が傷ついて流血!


 正直、かなりインパクトがある「イジメ」シーンの連発である。残酷である。気の毒である。気分が悪くなる。ハッキリ云って不愉快で憤りすら覚えるのだが、ついつい引き込まれて見入ってしまう、ツカミが非常に強い本作の導入部でもある。
 しかし、元気な小学生男子の残酷さとは、エスカレートすればこうなるモノであろうし、コレとイコールではないにせよ、コレに類するような「イジメ」の光景はたしかに筆者も子供時分に見てはきた。よって、さもありなんのリアルな描写だとは思う。


 凡百の教育評論家やそれに影響を受けた作家であれば、両親なり周囲の大人が主人公少年を邪険にして育てたからこそ、その不満を補うために彼は「イジメ加害」行動を起こしたのだ……と描きそうなものである。しかし、この作品はそのような陳腐・凡庸な見解は取らない。
 彼の父親の姿はまったく描かれず、髪の毛を脱色していることで往時は多少ヤンキーが入っていたのであろうと推測させる、理容院を営むシングルマザーの母親によって、主人公少年・将也が育てられたことが示唆される。
 しかし、自身の生活の基盤や感情の安定の土台たりうる家族構成や家庭の財政事情などに、主人公少年が不満や劣等感を持っているようにはまったく見えない。よって、主人公少年の「イジメ加害」行動は、家庭の事情や母親の教育やシツケの不備などではさらさらなく、云わば「性格強者」「肉体強者」としての彼自身のもって生まれた「自己抑制」や「内省」とは正反対の「能動性」「ADHD(注意欠陥・多動性障害)」な気質・性向の延長として現われたモノのように筆者には思える。


 けれど、だからといって、それは主人公少年の行動の免罪符にはならない。聴覚障害者であるヒロインへの言動は、ココまで来るとシャレや単なるイタズラでは済ませられないレベルである。嗜虐心ゆえの悪意ある「イジメ」であろうが、悪意すらない無邪気ゆえの「イジメ」であろうが、小学生がやることとはいえ、コレはもう器物損壊などの「犯罪」の域にさえ達している。


 もちろん本作を鑑賞した方々はご存じの通り、この主人公少年・将也はその後、劇中で一方的な悪役として描かれていったわけではナイ。校長先生も臨席する学級裁判で、警察沙汰にもなりかねないと指摘されたその蛮行がバレるや、主犯の彼のみに教師や同級生たちは罪を押し付け、立場が急転直下してしまう!
 その直前までにメインヒロインが受けていた仕打ちと同様に池に突き落とされ、下駄箱の上履きを盗まれて、ボールをぶっつけられ、ノートや教科書はビリビリに破かれて、今度は「イジメ被害者」に転落してしまうのだ!


 あまりにもヒドすぎる行為のゆえに、許されざる「イジメ加害者」でありながら、と同時に「イジメ被害者」ともなってしまった主人公少年。それが尾を引き、彼にとっての悪夢の時期であった小学6年生後半の幕引き・リセットをも期待したであろう中学校の入学式なのに、早々に旧友たちに悪評をバラまかれてしまう。
 小学生時代と同様、黒板用のチョークで悪口が大量に書かれまくった自身の机の前で、今後の運命を半ば悟ったかのように視線を宙に泳がせている中学生になった主人公少年の姿の点描がインサートされることで、高校3年生に進学したばかりの現在に至るまでのまるまる5年間を、いわゆる「(ひとり)ボッチ」として過ごしてきたことが示唆されるのだ……。


――ことココに至って、コミュニケーション弱者でもある我々オタク人種が抱えている課題とも通底! 本作におけるもうひとりの「ボッチ」キャラにして唯一のオタク系キャラ、高校3年生時代の同級生にしてデブで小柄で天然パーマな髪質のコミックリリーフ・永束(ながつか)クンとの接点の余地も誕生! 正直、主人公少年がココまで転落しなければ、スクールカースト最底辺にいるオタク少年を対等な友だちとして認定することはなかったとも思う。クラスで真後ろの席に座っていた彼のことをそもそも認識していなかったくらいだから、永束クンの方から話しかけてこなければ、オスとしては弱そうな彼みたいなタイプは主人公少年のおメガネや好みには合わなくて、対等たる友人としての資格はナイものとして無意識に判定されてしまい、今でもアウト・オブ・眼中だったのではなかろうか?(爆)――。


 個人的には、良くも悪くも彼がもっとガタイもよくて乱暴で、もう少しだけ腕力や声の大きさなどから来る、教室や仲間集団という「場」に対しての支配力にも秀でていれば、「イジメ被害者」へと転落することもなく、その暴君としての「小権力」を、自身に対する反逆者には暴力も厭わないという威嚇で散らつかせることで維持できて、ひいては自身の悪行を心の底から反省することも一生なかったようにも思う。
 ただし、そちらの方向に物語が展開すると最悪のバッドエンドではあるし、このアリエなさそうだけどギリギリでアリエそうでもある恋情も混じった「イジメ加害者」と「イジメ被害者」との和解という細い道で、際どいツナ渡りをしていく本作の物語は成立しえなくなるし、本論の主題からも脱線していくので、そのような思考実験はココではさておく。


 なお、ふだんは冴えなくても怒るべきときには怒れる、小6時代の担任男性教師のクラス統治失敗・監督不行届・主人公少年のみへの責任追求が、本作を鑑賞した人々の多数に糾弾されている。しかし、筆者個人はこの担任教師が特に無能であったり責任転嫁に長けていたとは思わない。「イジメ」をするガキどもも実は悪事だと充分わかっているケースが多いので、教師やオトナの眼にはふれない死角に隠れてやるモノだし、仮に「イジメ」を見掛けて加害者側を強硬に叱りつけても、あとでそれへの反発が被害者側に転嫁される可能性まで考慮すると、叱り方の加減や都度都度の濃淡の付け方にも悩むところではあろだろう。
 そもそも今どきの教師の過半は、良くも悪くも胆力&気迫をもって生徒を強く叱ることができずに、悪い意味での非力な善人、悪い意味での善良な紳士淑女で、悩みながらもズルズルと「子供は本来、性善だ」との言説で自己正当化をしながら「イジメ」という悪行を現状放置している不作為が大勢であろうと思えば、状況をストップさせて主犯も確定させ事態を逆転させられただけでもまだマシだったと私見する。


*「イジメ加害者」の転落描写が重すぎてリアリティ・ラインが上がってしまい、奇跡的な病状回復&交感描写が少々浮いて見えてしまう


 集団の中での「孤立感」。自身が周囲の人間に対して何らかの干渉を行っても変化やリアクションをもたらすことができないという、もしくは拒絶や無視をされてしまうことから来る「隔絶感」。ひいては生きていることそれ自体、自身の「生命」や「生活」に対する「手応え」や「充実感」を味わえないことから来る「不全感」。
 このような境遇&心情に筆者などは、「外面」と「内面」との分裂、「内面」の誕生、ひいては社会に対する政策提言もできる近代的な自立した強い個人としての意味ではなく、イジイジ・ウジウジした文学青年的な弱い個人としての意味での「近代的自我」の誕生の劣化コピー版なども見てしまうのだが、まぁそれは余談である。
 現在は高校3年生になった主人公少年・将也が、人生をアキラめたかのような半ば呆けて心ココにあらずといった表情で、通学のために無心で自転車をこいでいるロング(引き)の映像が、彼の心象風景をも象徴していてあまりにも印象的だ。


 「イジメ被害」や「孤立」。これらの顛末は彼の少年時代のあまりに甚大な「イジメ加害」の「罪」にふさわしい「罰」ではあるのだろう。しかし、それにしては彼の思春期・青年期をもすべて台無しにしてしまうくらいの、あまりに大きすぎて釣り合わない代償であるようにも思えてきて、気の毒になって同情もしてしまう。
 しかして、彼の「イジメ加害」の「罪」の重大さに思いを馳せれば、現状の不遇をもってしても「御破産で願いましては」とチャラにできるものではないのでは? とも思い直す。
 加えて、主人公少年が「イジメ被害者」に転落することなくして、彼がこのような「自己抑制的」で「内省的」な「内面」を獲得することはあったのであろうか? 「内省」や「抑制」などといった殊勝さなどカケラもないタチの悪い粗暴なヤンキー不良街道まっしぐらの人生を歩んだのではなかろうか? などとも考えてしまうのだ。
 それらの複雑な感慨を観客に一挙に想起させるのが、コレら一連の描写の目的でもあるのだろうし、それがこの作品に一筋縄ではいかない深みと多面性を与えているのも事実だ。
――ただし、余談になるけど、むかしとは異なり近年の「イジメ」は「イジメっ子」と「イジメられっ子」との関係が流動的で時には反転することもあるとする説を筆者はあまり信じない。小さな「からかい」の類いならばともかく、筆者の乏しい見聞範囲でも「幼稚園」~「高校」まで「イジメっ子」は常に「イジメっ子」であり、「イジメられっ子」も常に「イジメられっ子」の役回りを固定的に務めつづけることがほとんどだったと思えるからだ――


 「聴覚障害者」に対するあまりにもリアルで壮絶な「イジメ加害」描写、そしてその反転としての「イジメ被害」描写、ひいては中高6年間のクラスでの「孤立」に伴なう「内面」描写。この二転三転した3連発の描写が、この作品を秀逸たらしめるところでもある。
 と同時に、コレらの描写のあまりにもな重苦しさが、作品自体の船体をその自重で沈めてしまうことで、必然的にその作品のリアリティの吃水線・基準線を、通常の作品よりも上げてしまうことにもなる。


 通常の作品であれば、あるいは最初からSFやオカルト的な仕掛けがある作品であれば、「夢の知らせ」や「愛」だの「希望」だのといった「精神主義」的なファクターが勝利して、「男女の危機」や「家族の危機」に「世界の危機」すら救うご都合主義的な展開に変貌していったとしても、一応の了承ができてしまう。
 加えて、その作品が「愛」や「希望」に「絆」だのといった一応の道徳的なファクターの尊重を高らかに即物的な表現でシンボリックに描いた「説話」的なフィクション作品であったのであろうということも、同時にナットクできてしまう。


 この作品でも、ヒロインを助ける代わりに自身が階下の小河川へと落下してしまって昏睡状態に陥っていた主人公少年の意識と、深夜の睡眠中に主人公少年についての夢を見ていたヒロインの意識が通じ合い、見ようによっては奇跡が起きて主人公少年が眼を覚ましたかのような描写が存在する。その直後、毎週火曜日に落ち合っていた小橋梁に両者が夜陰の中を駆けつけて、涙の再会を果たすシーンもあった。
 この一連のシーンに過剰なケチをつける気は筆者も毛頭ナイ。ギリギリOKのシーンであるとも思う。しかして、このシーンだけはその他のシーンとは異なり、リアリティの階梯が微妙に異なっているようにも感じてしまう。他のジャンル系作品であればOKであったであろうとも思えるシンボリックなこのシーンが、この作品ではソコだけいかにも作りモノめいていて、浮いている感がなきにしもあらずだとも思えるのだ。


聴覚障害者でもあるヒロインの「聖女性」は、「感動ポルノ」「レイプ・ファンタジー」か?


 本作における、聴覚障害者でもある女子高生メインヒロイン・西宮硝子(にしみや・しょうこ)。彼女はピンクと栗色と紫が混じったような色彩のボリュームもある長髪で、終始ニコニコとして笑顔を絶やさないようにも見え、人生途上で他人に対して悪意や害意を積極的には抱いたことが一度もナイかのような「全身、女の子!」といったルックスを与えられている。
 彼女のコレら一連のキャラ造形を、「感動ポルノ」「レイプ・ファンタジー」という文脈から問題視する見解も世には散見される。


 この問題についての私見を述べる前に、話をいったん脱線させたい。深夜の美少女アニメも鑑賞する重度のオタクである筆者が、このテの発言をするのは自己矛盾も甚だしいのだが、


美少女アニメに登場する『美少女キャラクター』とは、男子(特に我々「弱者男子」)にとっての『都合がいい女子像』にすぎない」


という、ネット上でのオタク論壇でスレた論者たちにより散々に語られて、自分(オタク)自身をも俎上に乗せて切ってみせるような自己分析的な指摘がここ10数年、界隈では繰り広げられてきたが、オタキング岡田斗司夫的な「オタクこそがセンス・エリート」だとするオタク・エリート論者たちからはウラギリ者・獅子身中の虫のように反発されつつも、この分析自体はとても秀逸なモノだし、間違ってはいないと筆者個人も考えている。
 特に「弱者女子」や「病弱女子」を主題とする作品群に肩入れするオタク男子のメンタリティーに、一見それは女性尊重のようでありながらも、実はやはり隠微なかたちで男性が女性を保護して優越感に浸ろうとするヘタレ・マッチョ(イズム)がハラまれており、対等な男女関係ではアリエナイとする指摘に至っては……。いささかイジワルで偽悪的にすぎるとは思うモノの、一方ではその批評的なキレ味に個人的には感服もしてきた。


 このような観点に隣接するモノとして、障害者を等身大の清濁を併せ持ったナマ身の人間ではなく、過剰に健気な聖なる者として偏向して描いてしまう作品群のことを「感動ポルノ」、レイプ被害者がご都合主義にもレイプ加害者のことを弾劾せずに許すどころか恋情さえ抱いてしまう作品群のことを「レイプ・ファンタジー」と名付けて、否定的にカテゴライズする向きもある。
 筆者個人は「フィクションとは現実の理念型・戯画化・誇張・単純化・理想化」であるとも思うので、ドーしても「感動ポルノ」性や「レイプ・ファンタジー」性が微量にはハラまれてしまうモノという認識なので、そのようなシニカルな概念に全面的には賛同もしないけど、一理はあると認める立場ではある。
 よって、サブ視点・メタ視点としては、本作をそのようなモノサシでも鑑賞してしまったクチだ。だから、本作ヒロインの「ルックス」や「性格」を含む人物造形に対して、本作もまた「美少女」や「障害者」をダシに使った「感動ポルノ」や「レイプ・ファンタジー」である! なぞと糾弾する論調にも、完全同意はしないけど半分だか1/3くらいは正しいとも考えている。


 「イジメ被害者」であるヒロインが、もう5年の歳月を経ていたとはいえ「イジメ加害者」である主人公少年を、彼女がその「聖女性」で許したかのようにも見えてしまう描写。少なくとも5年後の現時点では、過去の罪業をさほどに問題視はしていないようにも見える描写。コレらの描写に対しては、一部で特に批判の声も大きいようだ。
 たしかに理性的に、加えて心情的に考えてみれば、程度にもよるけれど、教師らが仲介となって「イジメ被害者」と「イジメ加害者」とを両手を携えさせて「話せばわかる」の理性的な近代的市民同士として和解をさせるなどといった行為は、人間は残念ながら良くも悪くも「理性や合理のみにて生きるにあらず」なのも厳然たる事実なのであるからして、「被害者」側の感情面どころか生理的な嫌悪の域にまで達していて折にふれてフラッシュバックで過去のトラウマをエグられているであろうメンタルを無視した無神経なモノである。あるいは、オモテ向きは改心したフリをして自身の悪事を衆目にさらされたことに内心で逆ギレし、隠れて次なる加虐行為で復讐せんとメラメラと嗜虐心を燃やしがちな品性下劣な「加害者」のメンタルをも無視した、たとえ善意から来るモノではあっても実に浅薄な人間観に基づいた愚劣な行為でもある。
 もちろん中長期的には「加害者」と「被害者」との和解が、必須ではなくとも理想のひとつとして遠方に措定されてもイイのだが、短期的・緊急避難的には「加害者」と「被害者」を対面させないように引き離してみせることで後者に安心を与えて、生活圏を共にしない「棲み分け的な共生」とするか、それを具体化するならば「加害者」側に転居や転校といったペナルティー・負荷を与えることが、真の意味でのフェアな裁定だと思える。
 理性や知性に乏しくて、「我が身をツネってヒトの痛みを知れ」的な物理的・境遇的な負荷――ここではすでに出来上がっている他の学校のクラスの人間関係の中に新参者の転入生として加入させる処置など――を与えられなければ、「被害者」の痛みや弱者としての立場や寄る辺なさに「実感」として気付くこともできない御仁であれば、罰もまた単なる前近代的な「応報刑」として否定されるべきモノではなく近代的な「教育刑」としての意味合いも生じてくる。
――もちろん本人の生まれつきの品性や心掛け次第ではあるので、罰を与えることでも悟らない御仁も一定数はいるであろう(汗)――


 とはいえ、白状すると実は筆者も、本作における「イジメ被害者」と「イジメ加害者」との久方ぶりの交流再開描写については、特に大きく問題視・疑問視をしてはいなかった。元「イジメ被害者」たちの深く傷ついたデリケートなメンタルに対しては恥じ入るべき失礼であり、無神経な態度であったのかもしれない。


 しかし、小さな釈明もさせてもらいたい。
 本作における、この元「イジメ被害者」と元「イジメ加害者」の再会後の関係性は、たしかに世間一般の「イジメ」問題における「平均」や「典型」例としてのそれではなかったとも思う。
 ただし、あくまでも、この作品でのイマ・ココにおいて再会した、個別具体の元「イジメ被害者」と元「イジメ加害者」との「特異にすぎる去就」や「独特のパーソナリティ」に「相性」といったモノがもたらしたひとつのケースと捉えることは可能だとは思うのだ。
 つまり、主人公少年・将也とヒロイン・硝子の個別具体の境遇&人格がまるごとクロスして交流が進展していった果てのひとつの事例として捉えれば、さほどにムリは感じられなかったし、ごくナチュラルに了承させられるモノではあったと思えたのだ。


 しかしながら、元「イジメ被害者」たちの全員とはいわずとも無視できない数の人々が、彼らと同類であるハズの本作のヒロインが「イジメ加害者」の「罪」を許し、あるいはさほどに問題視もしていない(?)ようにも見受けられて、そのうちに恋情の方が勝ってしまう描写の数々に、リアリティを感じていない、もしくは反発さえ覚えるといった見解を散見するに至っては……。その見解に完全に屈服するワケにもいかないし、彼らの意見にも相応の偏りがあろうとは思うモノの、それなりの尊重は必要であるようにも考えてしまう。
 少なくともこの作品には、そんな彼らを有無も云わさずナットクさせてしまうだけのパワーは存在しておらず、疑問を持たせてしまうような隙はあったのだとも結論付けざるをえない。


 この作品は「イジメ」や「障害者」をテーマにしてはおらず、「コミュニケーション」をテーマとしている。だから、「イジメ」や「障害者」の問題に過剰にこだわってしまう鑑賞の仕方では、作品の本質からハズれていってしまうのダなどといった意見も散見する。加えて、原作マンガ家自身もネット上でそのように発言しているインタビューが存在する。
 しかし、作品というモノは、受け手が「作り手の意図」とは異なる読み方や解釈をしても構わない性質のモノでもあるだろう。よって、作品の外側で発言した「作り手の意図」という答案との「答え合わせ」をして、それに屈服してみせる必要もナイ。逆もまた真なりで、「作り手の意図」は異論を封じるための水戸黄門の印籠のごとき用いられ方をされるべきモノでもない。


 たしかに本作は「イジメ」や「障害者」をメインテーマとはしていない。「コミュニケーション」の方こそが主題となっている。
 しかし、ここまでリアルで切実で重たい「イジメ」や「障害者」の描写を入れておいて、それがストーリー展開や登場人物のトラウマにもなるほどに深く入り組んでいるのであれば、それは作者の意図すら超えて、メインではなくともサブテーマとしての比重は持ってしまう。
 そうなると、「イジメ」や「障害者」問題に対する普遍・恒久的な対策ではなくとも、この作品独自の、あるいはこの作品における個別具体の登場人物たち特有の「決着」や「ケジメ」なり、「解答」までは行かなくとも滋味ある「見識」や「妥協」なり「諦観」の提示を、受け手の側が意識的にしろ無意識にしろ「係り結び」として求めてしまうことも極めて自然な心理だとはいえるように思うし、この作品はその部分では少々弱みがあったようにも思う。


 その伝で、本作を「感動ポルノ」「レイプ・ファンタジー」として糾弾する論法にも相応の理は認めたいのだ。


*ヒロインの「聖女性」の相対化と、「感動ポルノ」批判に対するエクスキューズ


 とはいえ、この作品が「イジメ加害者」にとても甘くて、メインヒロインが万人を許してみせるような「聖女性」を無条件で賛美するような、ベタな「感動ポルノ」であったとも思えない。


 本作の前半では、小柄でボーイッシュな黒髪の少年、もとい実はメインヒロインの妹(!)が登場して、この妹が元「イジメ加害者」とヒロインとのコンタクトを妨げようとして延々と立ちはだかりつづける一連が描かれていた。
 元「イジメ加害者」が「イジメ被害者」に謝罪をして許されようとする行為自体も、


「それは『イジメ加害者』にとっての『自己満足』に過ぎない! 偽善者! 気持ちが悪い!」(大意)


 ……などなど、作品自体の根幹・前提をも覆すような、我々のようなイジワルな評論オタクの考えることなどはとっくにお見通しだ! と云わんばかりに、想定されうる批判を先回りするようなかたちで、劇中でもヒロインの妹に散々に痛烈なツッコミを、当の「イジメ加害者」であった主人公少年に浴びせつづけてもいる。


 ヒロイン自身もベタな「聖女」であったり「弱者女子」であったり、ましてや「病弱女子」であったわけでもなかった。
 まず、彼女自身が地元の福祉会館での老若男女たちが集う手話サークルの会合の場所に突如現われた元「イジメ加害者」でもある主人公少年に呼び止められた際には、しばしの愛想笑いと困惑の末に彼の前から足早に逃走してみせている!


 そして、彼女のいわゆる「聖女性」。恐らくは半ばは生まれつきのモノで、気持ちがあまりにもやさしすぎたり、共感性羞恥の気もあってか、他人が少しでも不快や負担や負荷に思ってしまうであろう言動がとっさに取れないので「NO」と拒絶の意志を示すことができずに、「イジメ加害者」に対してさえも形式的にではあっても情をかけてしまうような「気が弱い性格」それ自体も、劇中内での絶対正義として正当化・美化されているという気配がなく――積極的に否定されていたとも云わないけど――、むしろドコかで作劇的には突き放されており、そのような性格傾向が彼女の「弱点」にもなっている……という、長所はウラを返せば短所にもなる二重性をやんわりと指摘しているような空気を個人的には感じさせなくもないのだ。


 これは映画本編の情報ではナイけれど、劇場入場者に配布された原作マンガ家自身による20ページ弱ほどの描き下ろし番外編漫画では、ヒロインの母親に「硝子はドンくさい(!)子供だった……」と冷徹に述懐させてもいる。
 映画鑑賞後に後学のために手に取ってみた原作マンガに至っては、同じくヒロインの母親に、硝子の髪型がいかにもフェミニンでセミロングなものだからこそ、小学校の同級生のクソ餓鬼男子どもがその(肉食)動物的な直感で、オトナしそうで弱そうで反撃してこなさそうな女の子として見てナメてかかってくることで、それにより突け入れられてイジメられる一因にもなっている! といった趣旨の発言をさせており――巷間云われる痴漢にあいやすいタイプと同じですネ(汗)――、ヒロインに対して衝動的に男の子並みのベリー・ショートな髪型に散髪しようとするシーンまでもが(未遂に終わるけど)描かれていた。
――この母親の透徹した「イジメ」観を、筆者は「価値判断」の次元では肯定しないけど「事実認識」の次元では肯定する――


 つまりは作り手たちは、ヒロインの「ルックス」や「性格」をも含む「聖女性」の問題については、ドコまで明瞭に意識化・言語化・理論化していたかはともかくとしても、ある程度までは自覚的であり、それらをさりげなく相対化する視点については、とっくに織り込み済ではあったのだと私見する。


*エクスキューズの極めつけ、ヒロインのアンチとしての美少女キャラ・植野直花


 メインヒロインと主人公少年とのぎこちない5年ぶりの交流が始まり、その過程でヒロインが小学6年生時代の同級生女子・佐原さんの去就を気にしたことで、「あるある」の「リアリティ」路線から現実世界ではおおよそ実現しそうにはナイけれど、劇的な「ドラマチック」路線へとストーリーはシフトチェンジして、進学先もバラバラな小学校時代の旧友たちとの再会が、街角での偶然の邂逅(かいこう)も交えて描かれていく。
 そのひとりであるサラサラした黒髪ロングのスレンダーでスタイルもよい美少女キャラ・植野直花(うえの・なおか)の存在と、彼女の強気で気まぐれでワガママな言動が、本作を凡百の作品に堕さしめない強烈なポイントともなっている。
 ヒロイン・西宮硝子の「聖女性」とは真逆の、好悪が激しくて「鬼子母神」的な激情をも時に露わにする植野さん。


 ヒロインと主人公少年との街角での待ち合わせ場所の近くに偶然(?)居合わせた植野さんが、ヒロインを見かけるや失礼千万にも「いまだに“ボッチ”なの?」呼ばわりして彼女のことを小バカにし、喜びの再会のように駆けつけるや、小学生時代の再現だとばかりにヒロインの補聴器をその耳から取り上げる!――さすがに投げ捨てたりはしないけど――
 その後、ヒロインと主人公少年を中心に集った新旧の友人たちと出掛けた遊園地では、植野さんはヒロインを強引に誘ってふたりだけで観覧車に乗り込んで、閉鎖空間の中で、


「アナタがキライ!」
「いつもヘラヘラして!」
「(往時は)大人たちにチクって!」


とその心情をブチまけて、


「キライな者同士で握手!」
「要はアナタはアタシと話す気がナイのよ!」


とまでのたまってみせている!
 あげくの果てに、主人公少年が昏睡状態で入院する病院の駐車場のフェンスに見舞いに来たヒロインを叩きつけ、へたりこんだ彼女の長髪をつかみあげてパンチやビンタを浴びせつづけて、


「悲劇のヒロインぶるな!!」
「(自殺で贖罪しようとする行為自体が)思い上がりだ!!」


などと乱闘騒ぎ!


 終幕間際での主人公少年が友人連中と和解するシーンでも、「あー、寒寒(サムサム)。友情ごっこかよ」と冷や水を浴びせかけている。


 キョ、キョーレツ……。正直、「暴論」の域にも達している「極論」でもあると思う。しかし、彼女の言動にも大いに理があって、植野さんこそがヒロインを障害者として「腫れモノ」扱いすることなく対等な「一個人」として扱っているというロジックもたしかに成り立ちはするとも思う。
 個人的には、自身を偽悪的に封建主義者と称して「差別もある明るい社会」を標榜してきた漫画評論家呉智英先生の言ではないけれど、あからさまな支配・被支配関係の「差別」は許されるべきではないにせよ、全人類を一律に「障害者」にでもしないかぎりは、「健常者」と「障害者」との間にある何らかのハンディを完全なゼロにできるとも思えない。よって、「障害者」や弱者に対する何らかの優遇処置ナシに、両者を「絶対平等」「完全対等」なモノとして扱うこともまた、「公平」であるとはとても思えないので、植野さんの極端な言動に完全に賛同するモノでもないのだが。
 しかし、コレらの一連により、ヒロインの「聖女性」はいよいよ剥奪・相対化されて、作品をいわゆるベタな「感動ポルノ」に陥りかねないところを救い上げており、ドラマ面でも大きなアクセントにはなっている。


 ただし……。この作品におけるヒロインと植野さんとの個別具体の関係性はこうなっているのだ! というかたちでのナットクはできはするものの、これはこれで「聖女性」とは逆方向でのファンタジーな人間関係になっているとも思えなくもない。
 やはり、人間は誰とでもドコの国のヒトとでも仲良くなろうとすべきだとの博愛的な正論は認めるにしても、実際には性格や趣味嗜好や美意識の相違から来る「気が合う/合わない」という「相性」の問題もあるハズで、世間一般的にはヒロインのようなおっとりした性格の女子と、快活ではあるモノの短気で好悪が激しい女子とでは、気が合うことはまずはナイと思うし、筆者の狭い見聞からも、むしろ前者の女子は後者の女子を苦手にすら思っている。
 まぁ本作のメインヒロインである西宮硝子自身には、意外に強いところ、キモが据わったブレないところ、翻って云うなら鈍感なところもあるからこそ、植野さんと向き合えたというようにも解釈できるので、この作品内における特有のパーソナリティ同士の人物描写と人間関係としては特に大きな不満もナイのだが。


 その伝で云うならば、小学生時代に手話を勉強してメインヒロイン・硝子とコンタクトを取ろうとした気弱そうなノッポの短髪同級生少女・佐原さんの描写の方が注目に値する。小学生時代の植野さんが、


「ポイント稼ぎ、乙(おつ=お疲れさま)」


と揶揄して、


「その服装、ダサくね?」


とまで罵倒して、佐原さんの方ではそれにショックを受けてしまい、不登校に追い込まれる一連の描写の方がとてつもなくリアルでもある――佐原さんも弱すぎるとは思うけど、もちろん植野さんの方が断然悪い!(怒)――。
 一応の「聖女性」を仮託されたメインヒロイン・硝子の方が抱えていても不思議ではない「性格の弱さ」は、佐原さんの方が作劇的に大きく肩代わりさせられている。


 高校生の今では、ふつうに当の植野とツルんでいる佐原さん……というおおよそアリエそうもない友情関係に、若干の不整合やご都合主義を筆者個人は感じ取った。


 しかし、劇中でも主人公少年が当の佐原さんに


「佐原、植野と大丈夫だっけ?」


という気遣いのツッコミを入れさせて、ジェットコースターにカコつけて佐原さんが


「今でも怖(こわ)い」


と返したり、小学6年生時分に植野さんのみならず、メガネをかけた学級委員でチャッカリした自己保身的な(可愛い子)ブリっコ優等生女児・川井さんのことをも「怖かった」と明かすあたりも含めて、筆者のようなイジワルな観客からのツッコミに対する回答が劇中でも早々に用意されているのは、クレバーな作劇かつキャラクターシフトでもある。


 そんなキツめな性格の植野さんだからこそ、メインヒロインに対しては猛烈な嫌悪を隠さないけど、主人公少年のその後の「孤立」に過ぎる去就については、後ろめたく思っていたことも明かされる。そこに微量の恋情も込められていたこともほのめかされている。
 正直、快活な植野さんのような性格類型の少女であれば、オスとしての魅力に欠けるボサッとした弱者男子には眼もくれないであろうから、ワンパク坊主で口も達者でしかも頼もしかったとおぼしき小学生時代の主人公少年に好意を持ったのは、さもありなんでリアルだとは思う。
 しかし同時に、いわゆるファッション&スイーツの私的快楽至上主義者で、天下国家や公共のことにはまったく関心がナイようにも見える(偏見です)、植野さんのような虚栄心も強いタイプの子は、小学生時分に好意を持っていた相手を一途に思い詰めつづける……などといったことはさらさらなく、当の相手がダサく見えてくれば、もっとイイ男に次々と目移りしていくんじゃネ? とも思うけど(汗)。
 でも、それをいくらフィクション作品とはいえ、リアルに描写してしまったならばビッチに過ぎて、植野さんが観客に好感を持たれることもなかったであろうから、この作品における植野さんの「キツさ」と「一途さ」の描写の塩梅は実に絶妙だったとは思うのだ。


 ……実は当初は筆者も、植野さんを擁護しようと考えていたのだけれども、ググってみると植野擁護論はけっこうあるようなので、ヘソを曲げて穿った批判をしてみました(笑)。しかし、植野さんがその役回りはそのままに、その顔面が美少女ではなかったならば、評論オタク界隈でもどのように受け止められていたであろうか? その評価の在り方にもまた、ネジくれたかたちでの「感動ポルノ」問題がハラまれているのやも!? といった観点から、どなたか思考実験を繰り広げてくれませんか?


*ヒロインが「自死」を選ぼうとする理由がわかるけれども弱いかも……


 本作における「起承転結」の「転」にあたる箇所は、本論冒頭でもふれた、花火大会を河川敷で鑑賞するヒロイン家族と主人公少年との団欒の最中に、ひとりだけ中座して帰宅し、自宅マンションのベランダから飛び降りようとするヒロインの衝撃的な行為によってもたらされる。


 先に植野さんが「贖罪としての自殺など思い上がりだ!(大意)」などと強硬に批判したことにふれた。
 仮にその通りであるのなら、何がどう「思い上がり」であったのか? 何を「贖罪」しようとしたのか? その「罪」とは何であったのか? 「自死」を選択するに至る背中を押した触媒としての「引きガネ」とは何であり、「引きガネ」で点火されて暴発した弾倉の「火薬」の種類とは何であったのか?
 コレらのいくつかのファクターに踏み込んでいき、それらを腑分けして点描してもらいたかった気が個人的にはしている。それすなわち、本論の冒頭でパスルのピースが100個あるうちの5個ほどが抜けているのでは? と述べたゆえんでもある。


 本作の冒頭では、肩代わりさせてしまった5年前の補聴器の弁償金額分の大金をバイトで稼いで、起床前の母の枕元に置き、主人公少年が国道とおぼしき大河川の大橋から飛び降りて自死しようとするシーンもあった。
 時折りインサートされる小動物の死体や、メインヒロインの妹が撮影したという動物の死体写真もあった。ヒロイン姉妹に対して理解のある祖母の死も描写されてきた。
 他人を責めるよりも先に、自分のことを責めてしまうような内罰的な良い子ちゃんにすぎるヒロインの性格的な偏りも描かれてきてはいた。


 よく見れば、ヒロイン個人に限定しないならば、遠回しなかたちでの伏線、もしくは事後における説明、あるいは劇中において突発的な「死」が発生してもそれほどまでには不自然ではない状況を、この作品はすでに構築していたのやもしれない。
 しかし、コレをもってして、本作のヒロインの「自死」せんとする行為の突発性を、擁護するのはムリがあるようにも思える。いわんや観客の側で好意的に頭脳を働かせて深読みをしろ! というような意見は、ある種の評論オタクにありがちな、それこそ「思い上がり」の態度であるようにも筆者には思える。


 「自死」を決断することもさりながら、その前段としての「希死念慮」へと至る心理的な道程も、とてつもなく重たいモノであり生半可なモノではないハズだ。もちろんそれを真っ正面から延々と陰鬱に描く必要もナイのだが、本作はこの部分に少々の不足を感じてならない。
 ふたりの「希死念慮」の描写に、もうチョットばかりの点描さえ追加されていれば、作品にふたつあった「自死」という事象の「重心」がもう少しだけ低くなって作品が安定し、釈然としない唐突感も消え去って、腰の据わりが良くなったようにも思えるからだ。


 とにかくヒロインはそういう行動を取ったのだ! ということで了承して、映画の流れにあるがままに身をゆだねても別に構わないのやもしれない。しかし、それでも少々の釈然としない思いはやはり残るようにも思う。
 もちろん、ヒロインの行動原理がバレバレであったのなら、あのシーンに「意外性」や「驚き」はなくなってしまうことであろう。筆者個人も映画や物語というモノは劇中内でのすべての事情を事細かくていねいに説明しなくてもイイとは思う。その行間でそれとなく感じさせてくれるのであれば、それで問題がナイとも考えてはいる。


 つまるところ、「行間を点描で想像させる」という「役回り」を持った残り5個のピースがそこにピタリとハマっていたのであれば問題はなかった。しかし、筆者には残り5個のピースが単に欠落・紛失して空白が生じているだけのようにも見えてしまうのだ。


 だから微妙なところではあるのだが、個人的にはベタでもクサくなってもイイので、多少クドいくらいに随所にモンタージュ演出的なダメ押しがほしかったようには思う。
 ヒロインによる「自死」の選択は、もちろん冒頭の主人公少年による「自死」の選択とも「係り結び」的に対応している事象でもある。両者が「自死」を選択しようとした理由も、共に「内罰的」にすぎるがゆえであるだろう。
 その生来の性格は正反対である両者だが、高校3年生の時点ではこの一点において両者には共通点がある。ならば、その共通する彼らの内的な主題のところで、両者が呼応して響き合ったり引かれあったりしてハーモニーを奏でても、しょせんはリアリズムよりも象徴・寓意が優先する、ドキュメンタリーならぬフィクションとしての映画や物語作品としては、その方が有機的な連関を内部に兼ね備えて、映画としての体裁も美しくなったようには思える。


 であれば、そこは映画的な演出によるマジックの出番だ。たとえば、主人公少年が昏睡状態から覚醒する直前や、ヒロインの深夜の夢の中で、この両者の半生の総決算を「後悔」や「失望」を中心としたバンク映像の流用によるセピアに色アセた静止画の点描ではあってもフラッシュバックのように羅列してみせる。
 主人公少年の中高生時代の「ボッチ」状態や「不全感」。自身の人生への「絶望感」。小学生時代の「イジメ加害」行為への「後悔」どころか、過去の愚劣な自分自身に対する「怒り」や「殺意」。
 ヒロインの小学生時代の「イジメ被害」。自身を構ってくれたがために佐原さんが迫害されて不登校に陥ってしまった「申し訳なさ」。主人公少年への手話によらない発声に頼った恋愛感情の「告白」が通じないディスコミュニケーションへの「失望」。
 主人公少年とヒロインの両者が共に次第に持つに至った「自己消去願望」、ひいては「希死念慮」。


 コレら膨大な回想カットを、物量作戦的に短時間で畳み掛けてみせる映像作品特有の時間コントロール術で、ひいては観客の感情をもコントロールしようという初歩的なテクニックの提示。けれども、たとえば主人公少年とヒロインが共に抱えているあまたの「傷心」や「悲痛」に「反省」や「後悔」に「希死念慮」などのおさらいを走馬燈の洪水的な奔流、ベタでも1カットの長さが徐々に短くなっていくカットバックを、主人公少年とメインヒロインで交互に連発し合うような演出はできたようにも思うのだ――そーいうのはベタでイヤだというならばスイマセン(汗)――。


 コレらの回想カットを強引に押し流していくことで、実はこの両者には「この世での生きにくさ」という一点でもって共通点があったのだ! それはひとりでも歩んでいける近代的な自立した個人ではない、前近代的で「共依存」的なモノやもしれないけど、十二分に傷ついてもいる満身創痍の人間には頼れる杖や、自分をひとりの心ある人間として認めてくれることで自己確認もできる、慰謝や充電もしあってくれる友人や連れ添いがまずは必要なのだ!
 そんな心情や、両者のメタ的な接近に求心力を映像的にも補強してイメージさせていく! などといった手法を、コレもまたあくまで鑑賞数週間後の「後智恵」ではあるけれども、才無き一介のオタクである筆者が自身の非力さも顧みずに僭越を承知で代案を提示してみたくもなったりする――どうぞ罵倒してください(汗)――。


 そこまでの「傷心」や「後悔」の連打を提示した上でなお、主人公少年とヒロインによる「自死」という責任の取り方が、主人公少年が語る通り、


「それでも死に値するほどのことではナイ!」


と結論されるのであれば、植野さんが


「(「自死」によって責任を取ろうとする行為自体が)思い上がりだ!」


とヒロインに問いかけたことへのひとつの回答としてもピタリとハマったようにも思うのだ。


 昏睡状態に陥った主人公少年とヒロインが睡眠中に見た夢、その直後に両者が駆けつけて涙の再会を果たすシーン。先にこのシーンはそこだけが作りモノめいていて、浮いて見えると語った。だからカットをしろとか、リアリティの階梯を他のシーンと合わせるようにチューニングしろ! と筆者は批判・否定をしたいのではナイ。
 むしろ、作りモノめいていても、作りモノであることを徹底して、そこにある種の「密度感」のようなモノを高めていくことで、そのシーンに「リアリティ」とは異なるモノとしての「説得力」(!)は持たせることができるようにも思うのだ。
 たとえば、ここに上記のモンタージュ演出的なカットバック――猛烈な後悔・自己嫌悪・希死念慮を抱えていたふたりが互いにそうだと気付いて通じ合うことで安心し、無色・無味乾燥・索漠としたモノに感じられていた世界に対するフック・引っ掛かり・手応え・彩(いろど)りを感じていく一連のリフレイン――をチカラ技で代入していけば、ベタでもコレら一連のシーンは、イイ意味でのフィクション作品としての象徴・寓意・感情・主張などの、さらなる力強さを兼ね備えた名シーンに仕上がったようにも思えたのであった……。



 ズラズラと取りとめもなく書き連ねてきた。以上は筆者が本作に対して心の片隅に抱いた小さな不満を、顕微鏡のように拡大して語ってみせたモノである。
 文脈の都合で、あえて本作の美点の方にはあまりふれてはこなかった。筆者が指摘した本作の一応の弱点(?)は、すでに原作マンガの時点でハラまれていたモノであったことも、映画鑑賞後に確認もしている。
 しかし、本作については多大なる魅力を筆者も感じてはいるし、総合的には非常に優れていると判定しており、高く評価もしていることはくれぐれも念を押しておきたい。


(了)
(2016年10月15日脱稿。初出・当該ブログ記事)



後日付記:
 原作マンガ版の佐原さんの去就についても少々ケチをつけたいところがある(笑)。小学校6年生時分の自分が植野さんに「その服装、ダサくネ?」とその存在やセンスを全否定的に扱われた佐原さん。
 彼女は女子高の服飾専攻で頭角を現わし、その長身・ノッポを活かして、学内での服飾モデルとしても活躍することで、周囲や下級生からチヤホヤされて少々の「自信」を付けていく姿も描かれる……。
 いやまぁ別にイイんだけれども、非モテでキモオタの筆者としては、服飾デザイン面での技量はともかくモデルの方面は、コレはファッション&スイーツで虚栄心な方向での「自負」であって、その内面・人格・胆力・人間性・技量といった部分での「自信」じゃねーだろ!? とのツッコミもしたくなる(汗)。
 が、内面・人格・胆力・人間性なんてモノは即座に身に付くモノではないどころか、人生の数十年をかけて身に付けていくようなモノ、場合によっては一生かかっても性格的に身に付かない(爆)であろうモノやもしれないとも思うと、そーいう軽佻浮薄な方面でのアドバンテージで「自信」を付けていくのも、王道・正攻法とは思わないけど、方便としてはアリなのやもしれず、むしろ佐原さんみたいな気弱なタイプであれば、何でもイイから使えるモノは少しでも使って「自信」をカサ上げして、ようやくバランスが取れるのやもしれないとも思うと、コレこそが現実的な方策なのやもしれず……。でも、そーなると彼女が長身ではなかった場合には(以下略)。


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新元号「令和元年」 ~近代・ポストモダン社会における「天皇制」を考える!?

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元号「令和元年」 ~近代・ポストモダン社会における「天皇制」を考える!?

(文・T.SATO)
(2019年6月7日脱稿)


 2019(平成31)年4月1日、次の元号である「令和」が発表された。
 当日の各局の夜のニュースをいくつか観ていると案の定、学者や論説委員やコメンテーターが「令和」の「令」は「命令」だから「政権が国民に云うことを聞け」という意図を感じるとか、「和」は「昭和」の「和」だから未来志向ではなく悪しき復古志向だとかの、自身の専門分野の知見に裏打ちされたモノではなく、市井の床屋政談レベルの深読み発言をシカメっ面して憂いてみせている。


 百歩譲って、政権の意図が仮にそうだったとして、元号に「令」という文字を使うと、庶民大衆はお上に従うようになるのであろうか? 「和」という文字を使うと、日本人は復古志向に走るのであろうか?
 そんな呪術的・超能力めいたことが実現することを危惧するのは、戦前の「イザとなれば神風が吹く」というメンタルと同じであり、筆者から見ればオカルトである。言葉が霊力を持っていてそれが現実化するという類いの古代日本の「言霊」信仰が彼らにも無意識に刷り込まれていて、それが顕現しているのであろう。我が日本においてはサヨクも未開の土人のような非合理的な心性を持っていることがわかって心底ガッカリさせられる。


 実際、政権は元号制定過程を明かさないと明言したのに、選考委員はそんな「命令」を遵守する気もナイから、翌日以降は取材に来た記者にダダ洩れである。政権与党の目論見(?)は早くも失敗に終わったのであった。
 エッ、極右団体・日本会議こそが黒幕? いやぁ日本会議がアレだけ反対していた「日韓慰安婦合意」も結ばれ、実質「移民法」も平気で成立して、在特会の桜井や田母神さんが東京都知事選で小池さんや舛添さんに惨敗していたのはナゼ? 彼らに影響力ってあるの? フツーに経団連の方が影響力あるんじゃネ? てことは、経団連が猛反対しているサマータイムは実現しないってことだネ!(笑)


 2015年のTPP著作権の法整備で安倍ちゃんが「二次創作が萎縮しないように留意する」と明言していたけど、コレも日本共産党とお勉強会をしようと唱えていたマン防ことマンガ防衛同盟の後継系列ではなく、人気マンガ『ラブひな』(98年)・『ネギま魔法先生ネギま!)』(03年)の作者・赤松健(あかまつ・けん)らの団体による政府自民党やお役所へのロビー活動の成果だよネ?
 ことほどさように日本における政策は、膨大な数のプレイヤー・圧力団体の働きかけの折衷・合力として決定されていて、北の将軍さまの国のように安倍ちゃんの意向がすべて実現できるワケもなく、どころか彼にとっては不本意な政策も多々あることと思う(笑)。
 そのへんが判っていない、何でもカンでもアベノセイダーズやその反転としてのアベノオウエンダンの世界認識の単純さ&地アタマの悪さ(汗)――もちろんシングルイシューであれば女性宮家実現の棚上げなど、特定団体の意向だけが反映されている場合はある――。


 「令和」発表の日からは新元号をラベルに貼っただけの便乗商品が大量に販売を開始する。コレに対しても、「天皇制の強化につながる」との批判の声が一部で噴出。エェ~? 戦前だったら、こんな安易な便乗商品を作ったら「不敬罪」で逮捕だったと思うけど(笑)。筆者には(戦前的な)「天皇制」が実質的には死滅して、すでに国民の愛玩物と化したようにしか見えないのだが……。
 「天皇制」を否定したければ、元号の漢字の意味などの外堀を攻めるのではなく、シンプル・明快に「近代における平等の理念に反する」と主張すればイイだけなのでは? エッ、弾圧されるって? 田原総一郎センセイはじめ、今回もそーいう主張をしている御仁は一定数いるけど、誰も逮捕されてないから大丈夫ですよ~。


 エッ、「元号騒動」自体も右派の陰謀だって? 今回の「平成天皇生前退位」に一番反対して、論壇誌でも明らかに歓迎していなかったのは右派陣営だったよネ? 陛下の御心に背いたコイツらも戦前だったら「不敬罪」だヨ! 「皇室典範に根拠がナイ」とか「天皇の政治関与につながる」とか、今では右派も適度に近代化された「天皇機関説」の輩なのだなぁ(爆)。だけど、その男系絶対的な「機関説」がウラ目に出て、数世代後には「天皇制」が消滅する可能性も高いけど。


 まぁ筆者個人は「民主主義」も「天皇制(王制)」も信じちゃいない、古代ギリシャの哲学者プラトンが唱えた「哲人政治」を理想とする者なので(笑)、「天皇制」がドーなろうと正直ドーでもイイけれど。


 ただ、「王制」などの古典的な世襲身分を激烈に否定してみせる御仁が、人間に上下を付けずに誰とでも公平・対等に付き合おうとする人間であるかはカナリ怪しいとも思う。わかりやすい世襲身分の代わりに、今度は「リベラル」や「フェミ(ニズム)」か否かの濃淡で測る何らかの新たなカーストが誕生するとも思う。
 実際に「フランス革命」や「ロシア革命」や「中国文化大革命」では、「保守寄り」・「資本主義寄り」と目されたヒトたちが糾弾されてギロチンにかけられ、収容所で強制労働させられたり、「人民裁判」(=法律によらない裁判)の果てにヒステリー化した暴徒が集団リンチで群がってきて腹ワタまで食べちゃった! ……なんてな人食い土人みたいな世界が現出した逸話や、極左の「中核派」と「革マル派」が互いに「自身こそがサヨクとして純粋で、相手は保守反動・反革命だから殲滅せん」と鉄パイプで撲殺しあってきた歴史、第二次大戦の戦死者数よりも戦後の共産圏で粛清(処刑)されて死んだ人間の数の方が多いことを思えば(爆)、右派のみならず左派をも警戒すべきだし、残念ながら人間一般とは何らかのカースト――右でなければ左寄りのカースト――を作って、そこで優越感競争をしてしまうドーしようもない業があるらしい。


 実際、カーストを単に反転しただけの逆カーストを作って、その業績やイシューごとの善悪ではなく役職という属性だけで、学級委員や学校の先生に時の総理や天皇、そしてその罪は九族(9親等)に及ぶで、左翼なのに前近代的なメンタルで、親族までをも理性的な批判でなしにボロクソにケナしているのも昔からよく見る光景ではある――A級戦犯を糾弾したいのであれば本人だけを責めればイイのに、小学校の教師ぐるみで戦犯の息子たちをイジメ抜いていた……なんてな卑劣な話も調べればいくらでも出てくる(汗)――。
 この御仁は5年早く生まれてれば70年代前半の第2期ウルトラマンシリーズ擁護派ではなく60年代後半の第1期ウルトラマンシリーズ至上主義者になってたんじゃね? 30年早く生まれてればサヨクでなく軍国少年になってたんじゃね? ネトウヨではなく左翼学生運動連合赤軍に入ってたんじゃね? 単に生育した時代の違いで立場や罵倒相手が違っているだけで、敵を作って罵詈雑言する精神の型・性格類型としてはメタレベルで同じじゃね? と思わされる御仁は多い(笑)。


 右であろうが左であろうが、反対陣営のことはボロクソにケナしてもイイと考えている排他的な大勢を見るにつけ、やはり「自由」や「平等」などの近代の理念よりも上位に、たとえ封建的に見えても「道徳」「礼節」「惻隠」「節度」などの理念を措定していかないと、「言論の自由」の名の元に正当化されているロジック抜きの「罵倒」や「ヘイト」を抑止できないのではなかろうか? 近代社会の混乱も収まらないのではなかろうか?
 近代の次の時代があるならば、「自由」や「平等」よりもコレらの理念を上位としてほしい。よって、筆者は「日本国憲法」や「大日本帝国憲法」よりも、聖徳太子の「十七条の憲法」の方がはるかに優れていると私見するのだ(笑)。


 とはいえ、こーしたカーストなり反転カースト感情は減らすべきだとは思うけどゼロにできるとも思えない。
 そこで筆者が考えるのは、世襲身分や会社の役職などの唯一絶対のカーストがひとつだけある固定世界ではなく、細分化した膨大な小さなカーストを無数に並列させて用意しておき、ルックスではダメでも性格はイイとか、スポーツはダメでも勉強はできるとか、文章は書けないけど絵は描けるとか、何にもできないけどゲームが上手いとか、顔面偏差値は低いけど公園でバスケのシュートを華麗に決めるからギャラリーの女の子にモテるとか、胸は小さいけどスタイルはイイとか、私の方が美人だとか、私は可愛い系だとか、私の方がグラマーだとか、私の方がスレンダーだとか、私の方がマツ毛が長いとか、私は二重まぶただとか、私の方が脚が細いワとか、私の方が指がキレイだワとかのしょーもない(笑)、ドコかしらの小さなカーストに片足を突っ込めば、そこで小さな優越感や自尊感情も満たすことができるように社会をデザインしておいて、各自にガス抜きをさせることである。
 ある場所で上手くいかなくなっても、別のカーストに移ってそこで自尊感情を満たせばイイ。あるいは複数のカーストに帰属して、ドコかでダメになっても絶望させないようにすればイイとも思うのだ。さもしいけど、筆者もとい我々オタク同人もメタレベルで見れば、究極的にはそーいう行為を行なっているだけだともいえる(汗)。


 コレら膨大なカーストのひとつに「王制(天皇制)」があるとするのは少々ムリがあるけど、経済的に豊かになって自由度が増した近現代では、相対的には「王族(皇族)」の方が不自由で衆人環視でもあろうから、庶民からあえて「王族」になりたがる人間は少ないであろう。
 そこで「皇族」をブルジョワ批判の対象としてではなく、「皇族」もまた人権を侵害された被害者・犠牲者だからこそ「天皇制」を廃止すべきであるとするアクロバティックなロジックまでもが登場している。何か上手いことを云わないとイケナい大喜利の世界、ホントにご苦労様でございます(笑)。


 まぁ批判をしにくい(陰に陽に批判はし放題な?)「天皇」の名を利用して悪事が進められる危険性もたしかに確実にあるけど、「天皇制」を廃止してもトランプや石原慎太郎国家元首になって個人崇拝を強要してくることがあれば、「天皇制」と「首相や大統領制度」の危険性は実は等価だともいえる。
 ならば「三権分立」ならぬ「権権分離論」(権威と権力の分離)の立場から、世襲の「王族」と一応は民主的に選ばれた「首相」や「大統領」を並立させておくことも、いずれかの独裁を防ぐ意味で(完璧ではなくとも)有効ではあると思える。サヨクが持ち上げる北欧諸国が経済的にはリベラルでも政治的には実は「立憲君主制」なのは、そーいう知恵から来ているとも私見する。


 まぁ司馬遼太郎歴史小説花神(かしん)』(69年)で描いた蘭学医者上がりの幕末の志士・大村益次郎村田蔵六)みたいな誰にも「カリスマ性」を感じない超合理主義者はマレであり、我々凡人はウルトラマンなり仮面ライダーなりアイドルなりミュージシャンなりスポーツ選手なり先達の文化人を推したり崇めたくなる原始的なメンタルを元から持っていることまで見越しておいて、禁圧するのではなく「王制」も含む大小様々な「カリスマ」やネット上のあまたの「神」降臨(笑)を並立させて適度に分散発散させることで、独裁者を登場させにくくする制度設計・社会設計もあるようには思うのだ。
 清河に魚は住まない。毒物も適量であれば薬になるのだ。……などと云いつつ、以上は筆者が庶民・大衆・愚民の皆さまのことをちっとも信じていないからこその、性悪説に基づいた方策でもあるのだが(爆)。


 よって、「天皇制」が継続するには、彼らの人権を一部制限してもらい、温室育ちで培養して哲学者ルソーが云うところの「一般意志(公共益)」の人格的な表現――安寧(あんねい)を祈り、慰謝(いしゃ)を与えるポーズ――としてのキレイごとの「祭祀王(さいし・おう)」を演じてもらうかぎりで、崇めているようでも実は弱者でもあるから守ってあげたいとも同時に思わせるような機微や慈悲心を喚起することにしかポストモダン社会での存在根拠はナイとも思う――昭和天皇崩御前の病床の折りに女子高生たちが記帳に訪れる現象を指して、オタク第1世代の評論家・大塚英志が「可愛い天皇」と呼称・分析していたように(『少女たちの「かわいい」天皇』「中央公論」88年12月号~03年に角川文庫化・ISBN:4044191166)――。
 つまり、「男系」の血筋の継承とかはドーでもよくって、タテマエでもそのような一応の崇高な慈悲・慈愛的な精神を天皇家の家庭教育の中で培養・継承できるかに近代天皇制が存続できるか否かのキモがあって、それが継承されればそこに広い意味での「カリスマ」や「正当性」も感じられるので、右派陣営はその論法で「天皇制」を擁護すればイイとも思うのだけれども、フィジカル(物質・肉体的)に「Y染色体ガー」とか云っているのでムリポそうである――奈良時代初頭の元明天皇元正天皇の母娘間での皇位継承は、いかにヘリクツ付けようともすでに「女系天皇」が過去に実現していた前例だとも思うゾ――。


 しかし、学習院とかでも愛子さまをイジメた加害者少年をお咎めできないまでにリベラル化(笑)している現代日本では、いよいよイイ意味での適度な純粋培養もムズカしくなって、むしろテストステロン(男性ホルモン)過剰で嗜虐的な一部のヤンチャな子供間でのイジメのターゲットにされそうでもある。コレに加えて責任感や衆人環視がウスかったために戦前はスキャンダルが多発した旧宮家や側室制度が復活しようものなら、そこに一応の崇高な精神性・カリスマ性の継承は感じられないので、いよいよ「天皇制」にもトドメを刺される日が来るとも思うのだ。


 「天皇制」というか「祭祀的王制」&「民主制」のイイとこ取りも可能で、演技やポーズだとしても博愛的な態度や精神や行動とは何ぞや? ということも想起させられる装置であるかぎりで、「立憲君主制」にも相応の分を認める筆者ではあるけれど、右も左もバカばかりなので、そのときはそのときだとも思う(汗)。


(了)
(初出・オールジャンル同人誌『DEATH-VOLT』VOL.82(18年6月16日発行予定⇒8月1日発行))


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少女たちの「かわいい」天皇―サブカルチャー天皇論 (角川文庫)

#天皇 #天皇制 #天皇制賛成 #天皇制反対 #立憲君主制 #女性天皇 #女系天皇 #女性宮家



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騎士竜戦隊リュウソウジャーTHE MOVIE タイムスリップ!恐竜パニック!! ~因縁&発端の恐竜絶滅寸前の時代に時間跳躍!

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『騎士竜戦隊リュウソウジャー THE MOVIE タイムスリップ!恐竜パニック!!』 ~因縁&発端の恐竜絶滅寸前の時代に時間跳躍!

(文・J.SATAKE)
(2019年8月3日脱稿)


 東映特撮ヒーローの夏映画が今年も公開。『騎士竜戦隊リュウソウジャーTHE MOVIE タイムスリップ! 恐竜パニック!!』(19・脚本/山岡潤平氏・監督/上堀内佳寿也氏)はテレビシリーズの前日譚につながる内容となっていた!
 6500万年前、リュウソウ族とドルイドンとの戦いは地球に落下した隕石によって断絶。ドルイドンは地球を脱出し、恐竜たちは絶滅した……。しかしその最後の戦いにはコウたちリュウソウジャーのメンバーが深く関与していたことが明かされる。


 劇場版とはいえ、テレビシリーズ1本とほぼ同等の尺である本作。過去の戦いの歴史・背景と現在のリュウソウジャーたちをつなぐため、みっちりとバトルアクションドラマを展開する。過去におけるリュウソウ族とドルイドンの雑兵・ドルン兵との集団戦を、TVではロケ地となったことがない広大な山岳部の裾野を舞台に繰り広げる様。そして幹部怪人・タンクジョウ&ガチレウスを相手に恐竜形態で突撃し、巨大ロボット形態では素早く回転して二刀流の斬撃を繰り出す巨大戦を見せる新キャラクター・キシリュウジンのアクションの切れの良さで、冒頭から観客を引きつける!!
――キシリュウオーの一部パーツとカラーリングを変更したリデコレーション版なのだが、濃紺と金色の組み合わせが大きく印象を変えている!――


 リュウソウジャーたちの等身大アクションにも工夫が凝らされている。グルグルと視点が回転するカメラワークが特徴であった『快盗戦隊ルパンレンジャーVS(ブイエス)警察戦隊パトレンジャー』(18・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20190401/p1)ほどではないが、高低差の大きい場所での各自のバトルに密接しながらも途切れることなくそのアクションを捉える「長回し」で混戦の臨場感を伝える画が印象的であった。


 コウたちが過去へ飛ばされ様々な恐竜と出会うシーンも劇場版ならではの特撮シーン。まあ、海辺にあれだけ多くの種類の恐竜たちが集うことが本当にあったかどうかはわからないが、造形物による恐竜の卵と生まれたばかりの個体、CGでの大型恐竜たちの姿をアップそして俯瞰で海岸線をも収めた画で見せることで、古代の地球の雄大さを演出していた。



 本作のクライマックスバトルを展開するのは、テレビシリーズでも謎の暗躍を続けている鎧(よろい)騎士・ガイソーグ。それは騎士竜たちを生み出したリュウソウ族のひとりヴァルマが作り上げたものであった! ――特撮に造詣の深い俳優・佐野史郎氏は、学者肌のヴァルマが「力による支配」に取り憑かれてゆく姿を好演!!――
 恐竜の絶大なパワーを利用して力を得たガイソーグ。しかしそれがリュウソウ族の心を犯し、ヴァルマは力ある者のみを隕石落下から守る選民思想へ向かわせる! ――これが原因となってテレビシリーズでの「海」と「陸」のリュウソウ族の争いへと至ったのか? ガイソーグの今後の動向と共に注目すべきポイントとなりそうだ――


 一方、邪心に飲み込まれたヴァルマの娘・ユノが時を超えてコウたちリュウソウジャーと邂逅することで、未来へと続く希望を象徴させる。父の非道に心を痛める子の情愛と、隕石からリュウソウ族と恐竜を守りたい使命感に挟まれる健気な彼女を、アイドルグループ・AKB48(エーケービー・フォーティエイト)を卒業し女優として活動している北原里英嬢が熱演。未来の世界で騎士竜たちと心を通わせるリュウソウジャーの勇姿を目の当たりにしたユノが、父を鎧の呪縛から解き放って欲しいとコウに願う。それに応えるべく戦うリュウソウレッドこそ真のヒーローの姿だ!
 ジャンル作品の定番の図式ではあるが、力ある者の支配が正しいと吠えるヴァルマ=ガイソーグに、みんなを守り一緒に笑える世界を創りたいと応えるコウ! 騎士竜ディメボルケーノを竜装したリュウソウレッドが放つ猛火炎がガイソーグを撃退するバトルシーンこそが、種族を超えて手を取り合う仲間の強さを強くアピールしている!!
 そして地球に迫る巨大隕石にはメルト(リュウソウブルー)・アスナリュウソウピンク)・トワ(リュウソウグリーン)・バンバ(リュウソウブラック)の4人が操る戦隊ロボ・キシリュウジンが立ち向かう。騎士竜の何万倍はあろうかという強大な質量に挫けそうになる4人だが、何者にも負けず挑み続けるコウの姿と「限界を決めるのは自分だ!」の言葉に勇気を奮い立たせ隕石を粉砕! 


 結果は隕石による恐竜の絶滅を防ぐことはできなかったが、現在に続く地球の歴史を守ったのがコウたち未来のリュウソウジャーであったとする。無事現在に帰還したコウたちは、福井県立恐竜博物館に佇む恐竜たちの化石と、ユノら過去のリュウソウ族が残してくれたリュウソウジャーの姿を描いた石板に胸を熱くする。コウたちが守った過去が師匠であるマスターの生命につながり、その彼らの精神を受け継いで今の自分がある……彼らが騎士竜戦隊としての使命感を一層強めるラストシーンだ。


 一方で残念な面もあった。ユノが本シリーズにおける敵怪人・マイナソーの源である点は絶望的な未来を変えたい、という思いで理解できるのだが、そのマイナソーもコウたちの操るキシリュウオーに比較的あっさりと撃退されてしまうため、中盤のバトルに盛り上げが欠けたように思う。
 ここは追加戦士であるカナロ=キシリュウゴールドと騎士竜&ロボであるキシリュウネプチューンの出番を願って短いながらも活躍させてあげるのが理想なのだが、本作のカナロは恐竜博物館で理想の結婚相手探しにご執心! キシリュウゴールドへの変身シーンもなしという初見の方にはタダの女たらしキャラとなってしまった感が……(涙)。映画はテレビでの初登場よりも先行して撮影するスケジュールの都合もあるのだろうが、追加戦士としては非常に残念なスクリーンデビューであった。


 ヒーローの持つ「使命感」がテレビシリーズでは今ひとつはっきりとしていない印象であった『リュウソウジャー』だが、本作を経たことでコウたちにもそうしたキャラクターの厚みが少しずつついてきたように感じている。これからの展開に期待を持たせてくれる劇場版であった。


(了)
(初出・特撮同人誌『仮面特攻隊2020年準備号』(19年8月10日発行)~『仮面特攻隊2020年号』(20年12月28日発行)所収『騎士竜戦隊リュウソウジャー THE MOVIE』合評1より抜粋)


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ウルトラマンタイガ』序盤総括 ~冒頭から2010年代7大ウルトラマンが宇宙バトルする神話的カッコよさ! 各話のドラマは重めだが豪快な特撮演出が一掃!

(文・T.SATO)
(2019年8月9日脱稿)


 2010年代の「ウルトラマン」シリーズもついに7年連続の番組製作という快挙を達成!――そういう意味では、円谷一族や旧態依然のメンツによる万年赤字体制で通年での番組製作が不可であった時代よりも、映像会社やパチンコ会社を経てバンダイに主導権を握られた今の時代の体制の方を筆者は高く評価している――


 この間、敵も味方もソフビ人形を使って怪獣を召喚したりヒーローに変身したり、右腕をあまたの怪獣の豪腕に換装できたり、幾多のカードでヒーローや怪獣の属性を備えた複数のヨロイに着替えるウルトラマンや、ふたりの先輩ウルトラマンの能力をブレンドして活躍するウルトラマン、ついには常時ふたりのウルトラマンが主役ヒーローとして活躍する作品までもが作られてきた。


 もちろん、それは競合ジャンルや刺激の多い現今の移り気な子供たちの関心を喚起し、「前作と同じじゃん」と見クビられて早めに卒業されてしまうことを回避するためでもある。本作では作品ごとの目先の新しさや旗印、キャッチーなヒキとしては、3人ものウルトラマンが主役級として同時に登場するサプライズを採用!


●しかも、3人の中核となる新ウルトラマンこと「ウルトラマンタイガ」は昭和の「ウルトラの父」と「ウルトラの母」の実子でありサラブレッドでもある「ウルトラマンタロウ」のそのまた息子(!)と設定! 顔のデザインもタロウを踏襲しつつもやや丸顔で未熟さ&可愛さをアピール、両耳部から斜め上方にはタロウのようにツノが生えている!
●ゴッツいマッチョな「ウルトラマンタイタス」は、往年の70年代末期の第3次怪獣ブームの頂点で誕生して、昭和ウルトラとは別世界であるも第3期ウルトラシリーズのトップバッターであるTVアニメシリーズ『ザ☆ウルトラマン』(79年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/19971117/p1)ことウルトラマンジョーニアスの故郷の惑星・U40(ユー・フォーティ)が出自! かの星のウルトラマンたち同様に額や胸中央のカラータイマーが五芒星のかたちとなっている!
●ネーミングからして忍者モチーフでありスマートで身軽そうな青いウルトラマンこと「ウルトラマンフーマ」の出自は、『ウルトラマンオーブ』(16年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20170415/p1)や『ウルトラマンR/B(ルーブ)』(18年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20180826/p1)の2大ウルトラマンことウルトラマンロッソとウルトラマンブルの故郷の惑星・O50(オー・フィフティ)!


 2009年の映画『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE』(https://katoku99.hatenablog.com/entry/20101224/p1)で「ウルトラ」作品にも「平行宇宙」のSF概念が導入されたことで、異なる作品世界の「次元」の壁を超えて「平成ウルトラマン」たちと「昭和ウルトラマン」たちが共演できるようになってから早10年!
 2010年代に入ってからは、平成ウルトラとも昭和ウルトラともまた別の並行宇宙で作品ごとに異なる地球を舞台として、太古の伝説超人・ウルトラマンノアから受領した並行宇宙を越境できるヨロイ・ウルティメイトイージスを装着したウルトラマンゼロが各世界のウルトラマンたちを友人知人としてつないできた。


 それがついに本家のTV正編でも、往年のTVアニメ『ザ☆ウルトラマン』まで正式に連結されて、それがサプライズ&マニアの大勢の喜びとともに歓迎されて、「昭和ウルトラ」「平成ウルトラ」「2010年代ウルトラ」「TVアニメのウルトラ」までもが全肯定されて、それらが奇跡の共演が果たされる日が来ようとは!


 幼少時に昭和のウルトラ兄弟が共演するサマに驚喜しつつも、70年代末期から始まるオタク第1世代による、


「特撮ジャンルに市民権を得るためには、特撮ジャンルはオトナの鑑賞にも堪えうる本格志向でなければならない! そのためにはイロモノ要素は不要! 怪獣には恐怖性を! ヒーローには人間味ではなく神秘性を! そのためには人類がヒーローや怪獣と初遭遇した作品こそが至上! であって、ヒーローの共演などは邪道! 子供たちへの媚びへつらい!」(大意)


だとされてきたことで、昭和のウルトラ兄弟たちのTV本編での共演・共闘が長年、叶わなかった時期からでも幾星霜!(感涙)


――もちろん、アトラクショーや児童向け漫画などでは、好き者でそのへんの機微もよくわかっているマニア上がりの世代人のスタッフや漫画原作者たちが、昭和のウルトラ兄弟ウルトラマンジョーニアスを当時の最新ヒーローたちと共闘させてきた。90年代中盤に児童誌『コミックボンボン』にて連載された漫画『ウルトラマン超闘士激伝』(93~97年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20210131/p1)でもウルトラマンジョーニアスが同族のU40のウルトラ戦士であるエレク・ロト・5大戦士らと、「噛ませ」ではなく「頼れる助っ人」として二度も参戦してくれたことを覚えている御仁もいることであろう。


 厳密にはウルトラシリーズにおける「並行宇宙」の導入は、映画『ウルトラマンティガウルトラマンダイナ&ウルトラマンガイア 超時空の大決戦』(99年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/19981206/p1)が初である。当時のマニア上がりの作り手たちは、ティガに変身するジャニーズ・V6(ブイシックス)の長野博が出演不可能で、ダイナに変身するつるの剛士(つるの・たけし)は出演可能といった事態を、『ティガ』『ダイナ』のいずれかに偏らずに中立を気取るためにか、『ティガ』&『ダイナ』世界とはまた別の「並行宇宙」を映画の舞台としてみせていたのだ。
 とはいえ、それならば、「昭和のウルトラ兄弟」とも「並行宇宙」のSF概念を使って共演させた方が、話題面でも客寄せ面でも盛り上がること間違いなしなのでは!? などと筆者は主張していたのだけど、当時の「ウルトラ兄弟の設定を悪」だとする特撮マニア間での風潮の中では「ナニを奇妙キテレツなことを云っているのだ?」的に華麗にスルーされたのであった(汗)――


『レオ』準備稿に登場したウルトラマンタイガーを知ってるか!?(笑)


 そして、「ウルトラマンタイガ」なる新ウルトラマンのネーミング。実はこの名前に酷似したウルトラ戦士は、往年の『ウルトラマンレオ』(74年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20090405/p1)#1準備稿の冒頭にも登場している由緒もある名前でもあったのだ!?――「タイガ」ではなく「タイガー」ではあったのだけど――。


 レオがまだ亡国の獅子座・L77(エル・ななじゅうなな)星の出自ではなく、昭和のウルトラ兄弟の故郷であるM78(エム・ななじゅうはち)星雲・ウルトラの星の出自の設定であった時期に執筆されたというこの検討稿では、ウルトラセブンの下で若きウルトラマン3人が修行に励んでいるのだ。そして、その3人の名前がウルトラマンレオウルトラマンタイガー・ウルトラマンジャック(帰マンそのヒトではナイけど)であったのだ!


 前作『ウルトラマンタロウ』(73年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20071202/p1)や学年誌でのグラビア特集記事であの時点なりの「完成」の域に達していた「ウルトラ一族」とその「故郷」や彼らが結成した宇宙を守護する「宇宙警備隊」の「下部組織」などのウラ設定! そして、それらのウラ設定を活用して、すでに学年誌での内山まもる先生の漫画版『ウルトラマンタロウ』終盤(https://katoku99.hatenablog.com/entry/20210124/p1)などでも、南極大陸での超巨大怪獣vsウルトラ兄弟&ウルトラの一般兵士数百名といったスペクタクルなビジョンは提示されてはいたのだ。
 それらとも通じる、人間世界とはまた別の「天上世界」でも繰り広げられている抗争劇を、すでに1970年代中盤の『レオ』の時点でTV正編でもやろうとしていた構想には、「スケール雄大な世界観の拡大」が感じられてワクワクせずにはいられない!


――以上は老舗特撮サークル『夢倶楽部』主宰・大石昌弘氏が所有していたシナリオの提供を受けて、同じく老舗特撮サークル・ミディアムファクトリーで特撮同人ライター・黒鮫建武隊氏がそれを紹介した往年の名同人誌『続ウルトラマンレオ大百科事典』(92年)からの情報に基づいている。レオが単調な訓練にアキて持ち場を離れた際に、マグマ星人&怪獣マグマギラスが襲撃してきてセブンは重傷を負ってしまい、タイガー&ジャックは惨殺されてしまうという役回りではあったけれども――


冒頭から10年代7大ウルトラマンが活躍、新ヒーローへバトンタッチ!

 
 それから45年の『タイガ』#1の冒頭! 幻のセブン・レオ・タイガー・ジャックの宇宙での戦いを再現どころか、それをブローアップ! エメラルド色に輝く巨大な「ウルトラの星」を間近に眺める大宇宙空間で、光に照らされた部分とそうでない部分との陰影が照明の当て方で強調されている2010年代の全主役ウルトラマンたち、通称ニュージェネレーションことウルトラマンギンガ・ウルトラマンビクトリー・ウルトラマンエックス・ウルトラマンオーブウルトラマンジード・ウルトラマンロッソ・ウルトラマンブル!


 彼ら7大ウルトラマンたちがのっけから全員集合して、超高速で軽快に飛行・旋回、敵の光線をアクロバティックにかわしながら、ナゾの青黒い超人とのバトルを繰り広げている!


 ようやく合わせワザの連発と強力なダブルパンチで悪の超人を小惑星群のひとつに叩きつけることでその強さも見せつける! その小惑星に降り立った7人のウルトラマンのヨコ並びの勢揃いを斜めヨコから写してみせたカッコいい映像!!


 たしかにこの7人勢揃いの映像は、本作『タイガ』の前番組にして1週間前の過去作再編集番組『ウルトラマン ニュージェネレーションクロニクル』(19年)最終回にも使用されていたモノだ。しかし、『ニュージェネレーション』最終回用に撮り下ろされた番外サービスカットだとばかりに思っていたけど、まさか『タイガ』本編の映像からの抜粋であったとは!


 それだけでもワクワクさせられるのだけど、そこに後輩として「先輩!」と叫びながら本作の主人公ウルトラマンたち、タイガ・タイタス・フーマも駆けつける! さらには御大(おんたい)・ウルトラマンタロウも駆けつける! 都合10人もの新旧ウルトラマンが集結する感動!!


 もちろん、ヒーローの頭数が大ければイイというワケではない。たとえばポッと出の新たなスーパー戦隊ヒーローが新番組の#1の序盤でこのようにイキナリ登場しても、それなりの新鮮さやカッコよさはあっても、ここまでの感動はナイであろう。あくまでも、半年なり1年なり1本の映画作品で看板を張ったことがあった単独主役級のウルトラマンなり仮面ライダーなりアメコミ洋画ヒーローなり東宝特撮怪獣たちが集合してみせるからこそ、彼らの単独主演作をアタマひとつは上回った、より「格上」の作品としての「風格」「品格」を持っている! といった感慨をもたらすものなのだ。


 70年代前半の第2期ウルトラシリーズの先輩ウルトラマン客演編ではよくあった、現役の最新ウルトラマンを引き立てるために「噛ませ犬」として先輩ヒーローが敗北してしまうことで、爽快感や先輩たちの魅力を減じてしまうパターンであってもあまり意味はナイのである。


 同時期の昭和の第1期仮面ライダーシリーズでは、先輩ライダーが客演すると「勝って勝って勝ちまくる!」ことで、「ドラマ性」よりも「エンタメ性」や「イベント性」を優先させることで、当時の子供たちを熱狂させてきた。


 「ヒーロー共演のイベント編」でこそニガ味がある「人間ドラマ」をブチ込んできた往時の第2期ウルトラの製作者たちのキマジメで真摯(しんし)な意図も長じてからの再視聴ではわからなくもないのだ。しかし、やはりそのへんは第2期ウルトラのあれやこれやまでをもムリやりにでも全肯定をしないと気が済まない! というのも第2期ウルトラ狂信者のふるまいであって、公平さや説得力には欠けるものなのだ。残念ながら第2期ウルトラのそれらよりも、昭和ライダーの先輩ヒーロー客演編の方に一日の長があったことを認めざるをえないのだ――100かゼロかではなく6対4か7対3の違いの指摘で、第2期ウルトラの客演編がまったくの無意味であったと云いたいのではナイので、くれぐれもそこは誤解のなきように――。


 『タイガ』#1の冒頭では、新米戦士のタイガ・タイタス・フーマが悪の超人に敗北! それを受けて、タロウと悪の超人は全身を互いに炎上させて自爆特攻する超必殺ワザ・ウルトラダイナマイトにて相打ち!! といったかたちで、ニュージェネレーションの7大ウルトラマンたちは直接的な敗北描写が巧妙に避けられることで、勝ったワケでもないけれども、彼らが弱かったようにも写らないようには描かれている塩加減・アクション演出のマジックも実にうまい!



 そして、新旧ウルトラマンが10人がかりで対峙しないとイケナイくらいに圧倒的に強い、新たなる強敵超人の出現! その正体は仮面舞踏会の黒い仮装目飾りを付けたような群青の青い悪のウルトラマンことウルトラマントレギア!


 本作『タイガ』放映をさかのぼること4ヶ月前、春の映画『劇場版ウルトラマンR/B(ルーブ) セレクト!絆のクリスタル』(19年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20190407/p1)でも、先行して同作の主人公青年やゲスト青年を試してくる悪魔・メフィストフェレスのような立場のボスキャラとして終始出ずっぱりで戦闘力も高かった彼であった。


 しかし、こうして直前作のヒーローと最新ヒーロー作品の2作品をまたいで登場することで醸されてくる、ユルやかでメタ的な「連続感」や「越境感」や「架橋感」! コレ、コレ! こーいった感覚が現今の子供たちやマニアたちの「知的関心」や「興味関心」を惹きつけるためには必要なものなのだ!――いやもちろん、先の映画を鑑賞していないと理解ができない、観客をせばめてしまう類いとしてのドラマ的な「連続性」ではなく、一般層にも開かれたモノにはなっているので、この手法が「閉じた方法論」だとの批判は当たらない!――


ゲスト怪獣に加えて、レギュラー敵や第三勢力を設定して、作劇を拡張!


 なんというのか、ヒーローvs怪獣の1vs1の戦いを1話完結で描くのが、近代的な超人変身ヒーロー以前の古来からの英雄豪傑譚なり覆面ヒーローものの基本フォーマットではあるので、それ自体は否定はしない。しかし、それもまた一長一短ではあるのだ。あまりにもマンネリのルーティンに過ぎると、幼児はともかく児童であれば次第に単調・退屈・幼稚に感じられてくることも事実だろう。


 しかし、そこに1話ぽっきりのヤラれ怪人やヤラれ怪獣だけではなく、話数をまたいで中長期にわたって登場するライバルヒーロー! たとえば、ハカイダー(『人造人間キカイダー』72年)やタイガージョー(『快傑ライオン丸』72年)! そういった各話ごとのゲスト怪人とは格上に当たる第三勢力的なライバルキャラクターを配すればアラ不思議! 作品は予定調和を逸脱して、戦闘シークエンスの「パターン破り」の楽しさや、作品に「二層構造」が与えられることによって、物語のストーリー展開は豊穣性をハラみだすのだ!


 このへんの機微を30年以上も前に分析してみせたのは、ジャンル系の女流作家の故・中島梓(なかじま・あずさ)による書籍『わが心のフラッシュマン』(88年・91年にちくま文庫化・ISBN:448002591X)であった。


 TVのない中島家(爆)で息子にせがまれて買い与えていたというヒーローvs敵怪人の単調バトルを延々と描いてみせるのかと思われていたスーパー戦隊超新星フラッシュマン』(86年)の「写真絵本」(!)。そのシリーズ中盤から、第三勢力として銀河の彼方から美形のダンディーな顔出し悪役であるサー・カウラーとボー・ガルダンが乱入してきて混戦となるサマに彼女はワクワクとしてしまう!


 そして、彼ら美形悪役たちの知られざる「前日談」や「スキ間の物語」をついつい妄想したり創作したくなってしまう内的な衝動を自覚して、自身が執筆している小説群はもちろん、このテの子供向けヒーロー作品、あるいは物語作品全般(!)といったモノが、結局はそのような情動・創作衝動に突き動かされて生産されており、あるいは消費されていることに思い至る……といった内容であったのだ。


 本作『タイガ』も各話単位では古典的なヒーローvs怪獣のフォーマットを取っている。しかし、作品世界のメタ・上位の構造としては、タイガのみならずウルトラ一族とも因縁があって敵対している悪の超人ウルトラマントレギアとの戦いもまた平行して潜在的に背後にはハラまれているという「二重構造」となっているのだ!
 『タイガ』の劇中ではまだ語られていなかったと思うものの、事前のマスコミ情報ではウルトラマントレギアはタイガの父・ウルトラマンタロウと過去には親友同士であったのだともいう!――第3次怪獣ブームの時期の79年にも、過去に親友同士であったというウルトラマンタロウウルトラマンエルフという名のオリジナルのウルトラマンが対決する内山まもるの漫画があったことなども思い出す。同名のTVアニメとはまた別の『ザ・ウルトラマン』名義の漫画作品として単行本にも再録されているので、未見の読者はこの機会にぜひに!――


 そして、それは各話単位での怪獣をも上回る「格上の強敵」をも同時に相手にしなければならない身震い・ヒロイズムも喚起して、「地上世界」ともまた別に「天上世界」では神話的な「神々の抗争劇」をも控えている! といった広大なスケール感をも感じさせてくる!


 ……コレですよ! 「ウルトラ」にかぎらず「仮面ライダー」であろうが「スーパー戦隊」であろうが、「ライダー」&「戦隊」が共闘する「スーパーヒーロー大戦」であろうが、「2代目宇宙刑事」たちが「新旧東映ヒーロー」たちをクロスオーバーさせる「スペーススクワッド」であろうが、各話のルーティンバトルの背部にもあった上層での「巨悪」との抗争劇の「二重構造」!


 かつてのヒーロー・仮面ライダーV3(73年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20140901/p1)はヨーロッパで、人造人間キカイダー(72年)はモンゴルで、仮面ライダーアマゾン(74年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20141101/p1)は南米でいまも戦っているとされた映画『ジャッカー電撃隊VS(たい)ゴレンジャー』(78年)冒頭のようなものなのだ!


 こういった要素で、子供たちやマニアたちの興味関心を中長期にわたって喚起して、あまたの作品群が連結していく、広大な「メタ作品世界」の中で、我々マニア観客たちを人間的にスポイル・廃人・ダメにもしていく(笑)、もとい「空想の広大な作品世界」の中で中長期にわたって遊ばせてくれる方向性を、「ウルトラ」にかぎらずジャンル作品全般は目指すべきではなかろうか!?


 『タイガ』では#1冒頭の4分間強こそ、ウルトラマンが総計10人も登場して神話的な大バトルを繰り広げてくれていた。しかし、本稿執筆時点の#5までを観るかぎりでは、まだ本作には明瞭な連続性のようなものは発生していない。作品の背景に神話的な神々の戦いがあったとはイチイチ描かれてもいない。
 けれど、イチイチには描かれてはいないものの、#1冒頭シーンのその圧倒的な「残り香」で、この作品の背部にはそういった要素がある! と我々の脳内の片スミをイチイチに刺激してくれることで、作品世界にプリプリとした密度感やワクワク感、イイ意味での底上げ(笑)で、作品世界への興味関心・視聴意欲を惹起しつづけてくれてもいるのだ!


本編ドラマ部分に等身大宇宙人とのアクションを導入! そのメリットとは!?


 「天上世界」の話ばかりしてしまったので、『タイガ』における「地上世界」の話にも戻そう。


 本作における、「昭和ウルトラ」の地球とも「平成ウルトラ」の地球とも「2010年代ウルトラ」のあまたの地球とも異なっているこの「地球」では、すでにあまたの歴代ウルトラ宇宙人が潜伏していることは、オープニング主題歌映像の冒頭でナレーションにて毎回毎回クドいくらいにごていねいにも説明しているとおりだ。


 この世界観ビジョンは『劇場版ウルトラマンジード つなぐぜ!願い!!』(18年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20180401/p1)や先ごろフル3D-CGアニメ化(19年)もされた漫画『ULTRAMAN』(11年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20190528/p1)にも見られるものでもあった――細かく云うと、ウルトラシリーズの元祖『ウルトラQ』(66年)#21「宇宙指令M774」が初出やもしれないけど、アレはラストのナレーションでその可能性を提示しているだけなので……(汗)――。


 これによってゲスト役者に予算を使わなくても、既存の宇宙人の着ぐるみ&スーツアクターの投入で安く済ませることができるし(笑)、幼児の目から見ればフツーの人間の悪党よりも着ぐるみの宇宙人の方に視線が向くであろうから、幼児を特撮ならぬ本編ドラマ部分でも退屈させないというメリットもある。


 2010年代のウルトラでは同様の試みがすでに散々になされてきた。そして、人間サイズの宇宙人たちを東映ヒーローものにおける戦闘員のように扱ってバトルアクションを盛り込むことで、ここは筆者個人が特に愛する第2期ウルトラ作品に対する少々の批判にもなってしまうのだけど(汗)、子供にとってはやや重ためでイヤ~ンな感じも残ってモヤモヤしかねない本編ドラマ部分、いわゆる30分ワク後半のBパート終盤でのウルトラマンvs怪獣の特撮バトルに至る前菜・前段の部分である30分ワク前半のAパートの部分でも、東映特撮変身ヒーロー作品のように子供たちの目を引くような「活劇性」や「エンタメ性」を高めることができているのだ!


各話のドラマは重ため。しかし、豪快な特撮演出がそれまでの重さを一掃!


 ……などと、『タイガ』のバトルエンタメとしての軽妙さを賞揚するようなことをココまで散々につづってきたけれど。


 そうは云ったものの、各話のドラマの出来は2010年代のウルトラとしては重ためではある。ナゼだか映像それ自体も後処理でやや「明度」や「彩度」を下げているような気配もある――いやもちろん、ウルトラにかぎらず70年代前半の特撮・アニメ・時代劇などと比すれば、その作風は軽やかなのだけど。牧歌的な60年代までの作品群や、低成長でも安定が達成された70年代後半以降の作品群と比すると、あの時代は例外・特殊な特異点の時代だったので(笑)――。


 #3は、宇宙空間の人工衛星軌道上で事故にあってしまったという宇宙飛行士の夫妻カップルのうちの旦那さんの方が怪獣化して地上に復讐しに来るという、テーマとしては重たいエピソードではあった。長年の特撮マニアであれば、初代『ウルトラマン』(66年)の欧州の宇宙飛行士が怪獣化して地球に復讐に来てしまう棲星怪獣ジャミラが登場する#23「故郷は地球」。搭乗員まるごと宇宙船自体が怪獣化して襲来してくる『ウルトラマンティガ』(96年)#4「サ・ヨ・ナ・ラ地球」(https://katoku99.hatenablog.com/entry/19961201/p1)などを想起してしまうところだ。


 #4もまた、副主人公ともいえる青年・宗谷ホマレ(そうや・ほまれ)隊員を今エピソードの主人公として、地元の下町でギャング宇宙人どもを巻き込んでダーティーでもあるような捜査をしていくうちに、往年の「東映Vシネマ」ばりのバイオレンスな展開ともなっていき、ホマレ隊員とは幼なじみであった青年との悲痛な展開にもなっていく――と同時に、#1につづいて彼もまた超人的な体力や跳躍力を誇ったことから、その正体は地球人ではなくウルトラマンでもないけれども、宇宙人であることも示唆されていく――。


 #5では、女性隊員・ピリカちゃんを主人公として、彼女と偶然にも接点を持ってしまった女性ゲストとの交流が描かれる。ややブラック企業が入った彼女のリアルな労働疲労感なども吐露されて、オッサンオタクとしては実に滋味も感じられたものの……。


――ヒロイン・ピリカ役の当初の女優さんが台湾の民主化の英雄である李登輝(り・とうき)・元総統の映画に出演していたばかりに、関係各位が中国に忖度(そんたく・爆)して放映直前に交代・撮り直しが発生してしまったミソが付いてしまったことは残念だったけれども――


 #3~5のコレらの一連は幼児がタイクツしてしまいそうなストーリー展開だっただろう……と思いきや!



 #3では宇宙飛行士夫妻の片割れの嫁さんの精神体(魂)が飛来してきて、彼女を通じてウルトラマンタイガと合体しているヒロユキ青年主人公の許に長年の生き別れであった「力持ちの賢者」ことウルトラマンタイタスも帰ってきて合体して巨大ヒーローとしても実体化!


 夜のビル街でのハデハデでダイナミックな特撮怪獣バトルが、ウルトラマンタイタスのユカイなトークとともに明るく繰り広げられている。そのことで、このエピソードの重めの雰囲気が一掃されるどころか、ある意味ではタイタスがすべてを持っていってしまう!(笑)


 これは「脚本」の時点でそれを目論んでいたのやもしれないけど、それを実現してみせている「特撮演出」側のパワーであったともいえるだろう。


 #4も同様であって、ウルトラマンフーマのスピーディーで忍者チックなカッコいい「特撮バトル」で、それまでの「東映Vシネマ」ばりだったダーティーなドラマをイイ意味で忘れてしまうのだ(笑)。


 #5もまた同様であって、「女性ゲストの述懐や女性隊員とのやりとり」がその回の「ゲスト怪獣との攻防劇」とあまりに分離しすぎだろ! と思っていたら、ゲスト女性こそが侵略宇宙人(の手先)でもあって、尖兵として彼女が怪獣を召喚していたとすることで、「本編ドラマ」と「特撮バトル」が最終的には一体化する!


 理性では「それでもシミったれた重ためな話だよなぁ、子供はこーいう話はスキじゃないだろう」などと思いつつも、改心したゲスト女性が自身の身を犠牲にしてでも怪獣の暴虐を阻止せんとして身を呈するさまを、女性隊員がやめさせようとする熱演の一連に、感情面では筆者もホダされて実は落涙していたりもするのだけど(笑)。


 しかし、こういった泣きのドラマも、ゲスト女性がもたらした解毒ワクチンによって復活をとげたウルトラマンタイタスの豪快な反撃が始まるや、ジメジメした泣きの要素を一掃! ユカイ痛快な読後感の方が勝ってしまうのだ!


――ゲスト女性の正体が宇宙人だったとはいっても、それはセリフのみで処理されて、着ぐるみの異形の宇宙人の正体などはさらしていない。彼女が担当したのは「抽象」や「観念」の方が優先されがちな「キャラクター仮面劇」ではなく、あくまでも「ナマっぽい地ベタに足が着いた人間ドラマ」なのであって、彼女が人間の姿を終始取りつづけていたこと自体には、年長のマニア目線ではこのエピソードには合っていたとは思うのだ。作り手もバカではナイのだから(汗)、意図的にそのようにもしていたのであろう。
 とはいえ、幼児や子供たちが観た場合に、絵で見てわかる類いの描写ではなかったので、少々理解が困難ではあることだろう。そういった小さな弱点はともかく、後付けの「怪獣百科事典」的な設定では、彼女は地球人と同一の姿をしたヒューマノイド型の宇宙人だったということにしておけばイイだろう(笑)――


 映像作品における「演出」「ディレクション」「方向付け」によっての視聴者に対して情動の誘導!――広い意味では洗脳!(笑)―― 少なくとも本作のシリーズ序盤では、「本編ドラマ」部分よりも「特撮バトル」部分の「演出」の方がイイ意味で主導権を握っているようだ。陰鬱な「ドラマ」を「カタルシス強制発生装置」でもある各話の終盤に配置されている定型的なラスト「バトル」で払拭して昇華してしまっている好例だともいえるだろう!


――とはいえ何事も程度問題ではあって、往年の『ウルトラマンエース』(72年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20070430/p1)の名編である#48「ベロクロンの復讐」(https://katoku99.hatenablog.com/entry/20070402/p1)のように、「シリアスな本編演出」と「ヒロイズム」ではなく「オフザケの方向に行ってしまった特撮演出」とが「水と油」にすぎて観客をシラケさせてしまっては失敗なのである。それをも擁護しようとする一部の狂信者たちのふるまいは、かえって第2期ウルトラ擁護派全体のお株を下げて脚も引っ張るネトウヨやパヨクのような行為でメーワクなのであって(笑)、そういった低次な論法での擁護はやめてほしいなぁ(汗)。
 まぁ、1980年代前半の『宇宙刑事』シリーズの時代あたりまでは、「本編ドラマ」が異色作や泣きの話なのに「アクション部分」はいつもと同じ演出であって、今やJAC社長の金田治アクション監督は脚本を読まずに殺陣(たて・アクション)を付けているだろう!? と思わせるようなことが、むかしは多々あったものだけど(笑)――


 あとは、音楽演出も大きいであろう。これもまた第2・3期ウルトラや平成ウルトラ3部作などの音楽演出に対する批判になってもしまうけど、ピンチのときに「いかにもピンチです!」という楽曲を定型的に流しすぎてしまうと、他社のヒーローものや合体ロボットアニメと比して、そのウルトラヒーローがやや弱く見えてしまったり、殺陣の流れがワンパターンでマンネリに見えすぎてしまう傾向があるからだ。


 そこのところを、爽快な楽曲一発で延々と通してみせているところも大きいとは思うのだ――筆者などもウスウスとそういった音楽演出の欠点を子供心に感じつつも、信者(爆)的に押し黙っていたところを、子供番組卒業期の小学校の同級生たちなどは忖度せずに(笑)、このテの音楽演出のマンネリさゆえに「ウルトラ」作品を小バカにしていた悪夢の光景の記憶が、彼らの意見に一理も二理もあるだけに、トラウマともなっている(汗)――。


マニアの成熟。リアル・シリアスよりエンタメ性重視が当たり前な今日!


 ……などとエラそうにここまでホザいてきた。しかし、「まとめサイト」や「巨大掲示板」に「個人ブログ」などをザザッとググって巡回してみると、「やや重ための本編ドラマを豪快で壮快でカッコいい特撮バトルで一掃して明朗なカタルシスを喚起している!」といったレビューが今の時代はけっこうフツーに……どころか膨大にありますネ。というか、特撮世論の多数派でもありますネ。


 ナンという成熟度合い! イイ歳こいて子供番組を観ている自分をナンとか自己正当化するために、「特撮作品には人間ドラマや社会派テーマがあるんだゾ!」と息巻いていた時代。


 そしてそれから、そのドラマ性やテーマ性の素晴らしさも充分に理解したその上で「でもそれもまた、幼少時の素朴な感慨とは離れたモノであって、幼児は置いてけぼりの本末転倒になる危険性もあるよネ!」などと、そんな風潮を相対化してみせようと長年、四苦八苦していた筆者も含む80年代後半~90年代以降の特撮評論同人ライターたちの労苦も遠くなりにけり……。


 これはもちろん、筆者ごときの泡沫の努力の成果ではなかっただろう(汗)。結局のところ、特撮同人ライターの努力はムダだったとはいわずとも、ほぼ影響力は皆無であった(笑)。特定のオピニオンリーダーがいた! などといったことでもなく、時代を経ていくうちに特撮マニア諸氏もまた約20年にもわたった某巨大掲示板などでの言説や論戦の積み重ねで、じょじょにそのような変遷を遂げるに至って、作り手たちもまたそのような「シリアス至上」ではなく「エンタメ性」至上の理念で、番組製作やその作劇を考えるようになっていった……といったところが事の真相だろうとは思うのだ。


 ロートルな特撮評論同人オタクとしては、現実の方が追いついたどころか、現実の方が先に行ってしまって、置いていかれてしまったような気にもなっている(笑)。今後の身の振り方としては、現状のイイ意味での追認的な言語化・言説化くらいしかヤルことがナイような気もしてくるのだけれど……(汗)。


 いや待て! 本邦特撮ジャンル作品を、アメコミ洋画『アベンジャーズ』(https://katoku99.hatenablog.com/entry/20190617/p1)や来年2020年公開予定の『ゴジラvsキングコング』のような、複数の「作品世界」を連結&シリーズ化していく路線はまだまだうまく行っていないどころか、迷走さえしており、日暮れて道遠しなのだ。ここが残された最後の尽きないフロンティア・物語的な鉱脈だとも見定めて、そういったことが実現するメリットを声高らかに主張していくこととしようではないか!?


 その意味でも、『タイガ』#1冒頭の7大ウルトラマンによる宇宙バトルと係り結びとなるような、壮大なる最終展開を本作には望みたいものだ!


「ウルフェス」に新造スーツのジョーニアス登場! 本編への逆採用を!


 『ウルトラマンX(エックス)』(15年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20200405/p1)では、クールの変わり目のシリーズ中盤回では3部作で、前作のヒーローであるウルトラマンギンガとウルトラマンビクトリーが客演してみせていた。
 なので、本作『タイガ』のシリーズ中盤でも、本作の3人目のウルトラマンであるウルトラマンフーマと同じくO50出自のウルトラマンロッソ&ウルトラマンブルが助っ人参戦するようなエピソードも作ってほしい! 本作の2人目のウルトラマンタイタスと同じくU40出自のウルトラマンジョーニアスが助っ人参戦するようなエピソードも作ってほしい!


 毎夏開催されているイベント『ウルトラマン フェスティバル2019』のアトラクショーでは、ウルトラマンジョーニアスの超スマートでハンサムな顔面&スタイル抜群の着ぐるみが新造されて助っ人参戦! 観客たちを感動のルツボに叩き込んでもいるのだから!


――この新造着ぐるみは『ウルトラマン ニュージェネレーションクロニクル』最終回には登場しなかったことから、アトラク部門の円谷プロ直属のアクションチーム「キャスタッフ」側の今年度の予算でそちらの好き者スタッフが新造させたモノだろうと憶測しているけど(?)、TVシリーズの映像本編でも逆採用してほしいなぁ!――


 ヘンに「人間ドラマ」主導や「レギュラー登場人物」主導で、本作『タイガ』のストーリーや最終回後の続編「劇場版」のストーリーなどを構築しないで、もっと「イベント性」主導でそちら方面から逆算して作劇してみせるくらいの意気込みで、『タイガ』のストーリーやシリーズ構成を構築していってほしいものである!


 とりあえず、ウルトラマンジョーニアスの登場が実現した暁には、ギャラ面では厳しそうだけど、原典通りにベテラン俳優・伊武雅刀(いぶ・まさとう)氏にそのボイスをアテてほしい!(笑)


 実はちょうど10年前の2009年にも、CSファミリー劇場にて『ザ☆ウルトラマン』の毎週の放映が開始されるにあたっての宣伝番組『ザ☆ウルトラマンのすべて』にて、TVガイド誌などの各種出版物でも伊武雅刀氏がゲストだと表記されたことがあったのだ!


――『ザ☆ウルトラマンのすべて』とは、同局での昭和ウルトラシリーズの毎週放送と連動していた『ウルトラ情報局』の出張版である。各作ごとの『~のすべて』のゲストには該当作品の主人公を演じた役者さんが登場! この流れの熱気が昭和ウルトラの直系続編『ウルトラマンメビウス』(06年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20070506/p1)の一源流にもなっていたとも私見する! ……実際にはスケジュールが合わなかったのか伊武雅刀は同番組には出演されずに、同作の科学警備隊の2代目隊長・ゴンドウキャップを演じた大ベテラン声優・柴田秀勝が出演しておられた――


 この勢いで、ついでに実写の映画版「ウルトラマン」作品の新作などにも伊武雅刀にワンポイントだけでもイイのでゲスト出演してもらい、スポーツ新聞あたりに騒いでもらうことで、TVのワイドショーでも新聞つまみ読みコーナーなどで取り上げてもらうことで話題性も高めてもらう! ついでに、ジョーニアスと合体していた地球人の青年であった科学警備隊のヒカリ超一郎隊員を演じていたベテラン声優・富山敬(とみやま・けい)があの時点でも故人であったので、古代ギリシャ風の貫頭衣を着けていた人間体のジョーニアス本人として地球に来訪して、ウルトラマンジョーへと変身してほしいと思ってからでも幾星霜!



 レギュラー登場人物たちの「人間ドラマ」としての集大成とかは別にイイので(爆)、本作の来春の続編劇場版では「ウルトラマン フェスティバル2019」を見習って、まずは映画『仮面ライダー平成ジェネレーションズ』シリーズ(https://katoku99.hatenablog.com/entry/20171229/p1)(https://katoku99.hatenablog.com/entry/20190128/p1)のようなイベント性・お祭り性重視の総力戦体制で行ってほしいものである!


(「ウルトラマンフェスティバル」情報提供:佐藤弘之・清水忠彦)


(了)
(初出・特撮同人誌『仮面特攻隊2020年準備号』(19年8月10日発行)~『仮面特攻隊2020年号』(19年12月28日発行)所収『ウルトラマンタイガ』序盤合評7より抜粋)


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劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer ~平成ライダー・平成時代・歴史それ自体を相対化しつつも、番外ライダーまで含めて全肯定!

『仮面ライダージオウ』序盤評 ~時間・歴史・時計。モチーフの徹底!
『仮面ライダージオウ』前半評 ~未来ライダー&過去ライダー続々登場!
『仮面ライダージオウ』最終回・総括 ~先輩続々変身のシリーズ後半・並行宇宙間の自世界ファーストな真相・平成ライダー集大成も達成!
『仮面ライダー平成ジェネレーションズFOREVER』 ~並行世界・時間跳躍・現実と虚構を重ねるメタフィクション、全部乗せ!
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映画『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer(オーヴァー・クォーツァー)』

東映系・2019年7月26日(金)公開)

平成ライダー・平成時代・歴史それ自体を相対化しつつも、番外ライダーまで含めて全肯定!

(文・久保達也)
(2019年7月27日脱稿)

*「平成」仮面ライダーの総決算!


 これまで毎年夏休みの時期に公開されてきた「平成」仮面ライダー映画の慣例に従い、本作も『仮面ライダージオウ』(18年)の「真の最終回」として位置づけられている。
 だがそれだけではない。「平成」最後の仮面ライダー・『ジオウ』の「最終回」は、20年にもおよぶ歴史を誇る「平成」仮面ライダーシリーズ自体の「最終回」でもあるのだ。


 本作で悪役として登場する「歴史の管理者」を名乗る謎の軍服集団・クォーツァーは仮面ライダーをはじめ、「平成」生まれのすべてのものをこの世から消滅させ、「平成」の30年間の歴史を最初からつくり直そうとする。
 クライマックスで「平成」生まれの若者たちばかりが空に吸い上げられる中、2012年=平成24年生まれの東京スカイツリーが宙を舞いながら破壊されるのに、1958年=昭和33年に建造された東京タワーは無事(爆)な描写には、個人的に「平成」の時代に対して圧倒的に悪印象が強い筆者としては、おもわずクォーツァーに賛同しそうになったものだ。
 だが、本当にいろいろあった「平成」の「負」の側面をすべて消し去り、「正」ばかりの歴史で統一しようとする「歴史の管理者」を最後の悪役としたのは、設定や世界観、そして、そこに登場してきたヒーローやヒロイン、悪役や周辺キャラに至るまで、「正義」は人の数だけ存在するのだとして、さまざまな人物像を多面的に描き、多様な価値観をたがいに認めあうことの重要性を訴えてきた「平成」仮面ライダーの「最終回」として、当然の帰結といえるだろう。


*『仮面ライダードライブ』世界消滅の危機を追って戦国時代へ!


 クォーツァーが「平成」をやり直す前段として、本作の前半では『仮面ライダードライブ』(14年)の世界の消滅の危機が描かれる。
 周知のとおり、『ドライブ』で主人公の泊進ノ介(とまり・しんのすけ)=仮面ライダードライブを演じた竹内涼真(たけうち・りょうま)は、『ドライブ』以降あまりに多忙となっているために残念ながら今回も欠席だが、『ドライブ』の2号ライダー・詩島剛(しじま・ごう)=仮面ライダーマッハを演じた稲葉友(いなば・ゆう)と、クリム・スタインベルト=ベルトさんを演じたクリス・ペプラーがゲスト出演している。


 そのベルトさんを抹殺(まっさつ)することでクォーツァーは『ドライブ』の歴史を消滅させようとするのだが、クォーツァーは『ドライブ』の時代・2014年=平成26年ではなく、1575年=天正(てんしょう)3年に現在の愛知県新城市(あいちけん・しんしろし)で繰りひろげられた、織田信長(おだ・のぶなが)&徳川家康(とくがわ・いえやす)の連合軍と武田勝頼(たけだ・かつより)の軍勢による合戦(かっせん)・長篠(ながしの)の戦いに乱入するのだ。
 現在は徳川美術館に所蔵されている、この長篠の戦いの屏風(びょうぶ)絵の中の信長が、ナゼか『ジオウ』の2号ライダー=仮面ライダーゲイツの姿に差し替わるのみならず、ゲイツが時間移動する際に使う巨大ロボット・タイムマジーンまでもが屏風絵に描かれている(笑)ことが冒頭で報じられる。


 実は本作にはクリムの祖先として、オランダの商人を父とする少女=クララ・スタインベルトが登場、そのクララを抹殺しようとする過程でクォーツァーは長篠の戦いに乱入するのだが、クララに恋い焦(こ)がれる信長は、クォーツァーを追ってこの時代にやってきたゲイツを影武者に仕立てあげ、戦いを放り出して(笑)クララの旅に同行する。
 本作では信長は自身を「第六天魔王」と自称したほどの、そして我々が信長にイメージする戦国武将とはあまりにかけ離れた、終始なさけないツラ構えのさえない男とされているのだが、これこそ「平成」ライダーが従来描いてきた多面的な人物描写を象徴するものだろう。
 そして、これまで「魔王」とされてきた信長をあえてなさけない姿で描いたのは、『ジオウ』の男子高校生主人公・常盤(ときわ)ソウゴ=仮面ライダージオウを信長と重ね合わせることで、ソウゴに秘められていた「魔王」になる可能性を後半でひっくり返すための、『ジオウ』のメインライター・下山健人(しもやま・けんと)による、実に緻密(ちみつ)な構成でもあるのだ。


*「平成」の「闇」ライダーたちの大逆襲!


 ソウゴ・ゲイツ・神秘系の美少女=ツクヨミは実際の信長の姿に触れたことで、我々が歴史上の信長に感じる「魔王」としてのイメージは、実はつくられたものだったのではないのか? との疑問をもつ。
 西暦2068年の世界で「魔王」として君臨するとされていたソウゴを抹殺するために、2018年の世界にやってきたゲイツツクヨミが目にしたソウゴもまた、実際には誰よりも心優しい、深い思いやりの心を持つ少年だったのだから、これは俄然(がぜん)説得力を帯びることとなるのだ。
 そして、これまでソウゴに仕(つか)えてきた未来から来たネタキャラ(笑)青年・ウォズは、ソウゴを「魔王」として擁立(ようりつ)しようとしていたのではなく、実はソウゴを本来の「魔王」の替え玉にするために暗躍していたという、恐るべき事実が明らかになる!
 ウォズが本来の「魔王」に擁立しようとしていたクォーツァーのリーダー・常盤SOUGO(ソウゴ)=仮面ライダーバールクスを演じたのは、大の仮面ライダーファンとして知られ、『仮面ライダー555(ファイズ)』(03年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20031102/p1)の主題歌歌唱や、映画『仮面ライダー THE FIRST(ザ・ファースト)』(05年・東映https://katoku99.hatenablog.com/entry/20060316/p1)の敵組織・ショッカーの幹部役、そして『ジオウ』の主題歌・『Over “Quartzer”』をShuta Sueyoshi(シュウタ・スエヨシ)とともに歌唱するボーカルグループ・DA PUMP(ダ・パンプ)のリーダー・ISSA(イッサ)だが、氏以外のDA PUMPのメンバーもクォーツァーの団員を演じており、本職でもないのに軍服姿でソウゴにニラみをきかせる表情演技は結構サマになっていた。


 このSOUGOが変身する仮面ライダーバールクスは、1988年=昭和63年10月に放映が開始されるも、その3ヶ月後の1989年1月7日に昭和天皇崩御(ほうぎょ)で改元となったことで、放映期間としては実際には「平成」の方が長くなった『仮面ライダーBLACK RX(ブラック・アールエックス)』(88年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20001016/p1)の主人公ライダーのアナグラムであり、RXの武器・リボルケインという名前の長剣を使うのみならず、すでに「昭和」の時代にヒーローのタイプチェンジを披露していた(!)『RX』のロボライダー&バイオライダーのライドウォッチも駆使する、黒を基調とした武将的デザインのライダーなのだ。
 また『獣電戦隊キョウリュウジャー』(13年)や『動物戦隊ジュウオウジャー』(16年)のエンディングのダンスを担当するなど、振付師として広く知られるアフロヘアのパパイヤ鈴木が演じたクォーツァーの幹部・カゲンが変身する仮面ライダーゾンジスは、オリジナルビデオ作品『真(シン)・仮面ライダー』(92年・バンダイビジュアル)、映画『仮面ライダーZO(ゼット・オー)』(93年・東映https://katoku99.hatenablog.com/entry/20001015/p2)、映画『仮面ライダーJ(ジェイ)』(94年・東映)の主人公ライダーの名前をあわせたものであり――SIN+ZO+J=ZONJIS(笑)――、ZOやJのような、緑色でクラッシャー部分が大きくめだつマスクを元ネタとしたデザインがその象徴として機能している。
 さらに『キョウリュウジャー』でイアン・ヨークランド=キョウリュウブラックを演じた斉藤秀翼(さいとう・しゅうすけ)が演じるクォーツァーの幹部・ジョウゲンが変身する仮面ライダーザモナスは、ネットムービーとして配信された『仮面ライダーアマゾンズ』(シーズン1・16年 シーズン2・17年)のアナグラムのみならず、そこに登場するアマゾンオメガ・アマゾンアルファ・アマゾンネオ・アマゾンシグマを合体させたようなデザインなのだ。
 つまり、クォーツァーの幹部が変身するライダーはれっきとした「平成」ライダーなのに、その正史として扱ってもらえず、なかば「黒(くろ)歴史」とされてしまっているライダーたちの怨念(おんねん)の結晶(笑)であるかのように描かれており、そのライダーたちが「平成」ライダーの歴史をつくり変えようとするのは、ブラックジョークとしては実に秀逸(しゅういつ)であるといえるだろう。


*「平成」仮面ライダー、全員集合!!


 クライマックスではこれらの「黒歴史」ライダーたちと、ソウゴを中心に歴代「平成」仮面ライダー20人が横一列に並び立つ(!)中で変身をとげるジオウの最強形態・仮面ライダーグランドジオウが歴代ライダーたちを次々に召還するのみならず、詳述は避けるがウォズの心の変遷(へんせん)によって歴代ライダーの力が元の持ち主へと戻るオチとなっているのは、「平成」ライダーの最終回として実にきれいにまとめられている。
 しかも今回のクライマックスバトルでは、「平成」の時代に20年に渡って放映されてきた日曜朝のテレビシリーズに登場した仮面ライダー以外にも、ネットムービーやバラエティ番組、コミックなどのさまざまな媒体(ばいたい)で描かれてきた「平成」ライダーが集結し、グランドジオウが召還する正史の仮面ライダーたちと夢の競演を繰りひろげるのだが、果たして何が登場するかは観てのお楽しみ! ということにしておく。
 ちなみに先述した『仮面ライダーBLACK RX』と同時期に某(ぼう)バラエティ番組の枠内で描かれ、『RX』の東映側のプロデューサー・吉川進氏を「昨今のスーパーヒーローのギャグ化は、ヒーローの否定につながります。それにより数多くのヒーローが消滅していったことを銘記すべきです。高倉健クリント・イーストウッドと、「とんねるず」は同居できないのです」(「てれびくんデラックス 仮面ライダーBLACK・RX超全集」(89年8月10日・第1刷発行・ASIN:B00JTTHGT6))と、それこそ「ぶっとばすぞぉ~!」とばかりに否定的に語らせてしまった(爆)、あのとんでもないキャラまでもがソウゴを勇気づけるメッセージを放つ重要な役回りで登場しているのだ。


 まさに「平成」仮面ライダーの総決算として、百花繚乱(ひゃっかりょうらん)な顔ぶれが実現することとなったのは、「平成」ライダーのパイロット=第1話&第2話を定番で演出しながらも、意外や意外、劇場版は映画『仮面ライダー×仮面ライダー 鎧武(ガイム)&ウィザード 天下分け目の戦国MOVIE(ムービー)大合戦』(13年・東映)以来、久しく演出していなかった田崎竜太監督の手腕によるところが大きいだろう。
 なお、この『戦国MOVIE大合戦』は、『仮面ライダー鎧武』(13年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20140303/p1)で「平成」仮面ライダーシリーズが15作品となったことを記念して製作されたものであり、戦国時代ならぬ戦極(せんごく)時代を舞台とし、織田信長をモチーフにしたノブナガ、徳川家康がモチーフのイエヤス、豊臣秀吉(とよとみ・ひでよし)がモチーフのヒデヨシなどのオリジナルの武将が登場したり、歴代「平成」ライダーのレギュラー俳優がお楽しみゲストとして多数出演するなど、製作の経緯や設定・世界観、演出に至るまで、今回の劇場版『ジオウ』ときわめて相似(そうじ)する作品だった。
 それを彷彿(ほうふつ)とさせたほどに、「平成」ライダーの総決算として充実した仕上がりになった本作だが、正史の仮面ライダーばかりではなく、「黒歴史」扱いされたライダーや「番外編」のライダーたちまでもがズラリとせいぞろいすることとなったのは、決して映画ならではの絢爛(けんらん)豪華な雰囲気を醸(かも)しだすばかりではなく、これまで「平成」ライダーが20年にも渡って描いてきた最大のテーマを総決算させるためでもあったのだ。


*「平成」ライダー最大の必殺技とは何か!?


 クライマックスバトルの直前、SOUGOは「平成」の時代を石ころばかりがめだつデコボコ道みたいな「醜(みにく)い」時代だったと定義し、我々はそれをきれいに舗装(ほそう)してやるのだと語るが、これに対し、ソウゴは「デコボコ道で何が悪い!」と云い放つ。
 確かに「平成」仮面ライダーは設定も世界観も主人公像も見事なまでにバラバラであり、作品ごとにファンの好みも大きくわかれてきた。筆者も大好きな作品もあれば、正直どうしてもハマれなかったり、許容したくない作品もあったものだ。
 ただ、自身の「仮面ライダー観」を声高(こわだか)に叫び、それにそぐわない作品を仮面ライダーとして認めようとしないのは、「平成」ライダーが20年にも渡って多様な価値観を訴えてきたにもかかわらず、それを認めようとはせず、反対勢力や少数意見を「敵」として徹底的にたたきつぶし、画一(かくいつ)的な価値観を押しつけるような輩(やから)が跋扈(ばっこ)することで、生きづらさを感じる人々が続出している近年の風潮(ふうちょう)に通じるものではないのだろうか!?


 先述した『仮面ライダー鎧武』の2号ライダー・駆紋戒斗(くもん・かいと)=仮面ライダーバロンは、「弱者が踏みにじられない世界」を実現させるために、最終展開で現在の世界を滅ぼそうとしたが、放映された2013年=平成25年の時点で、製作側はすでにその風潮を肌で感じていたのだろう。
 だが、現実世界が『鎧武』の放映当時以上に多様な価値観が否定される傾向が強まりを見せていることに危機感をおぼえたスタッフは、多種多様に描かれてきた「平成」仮面ライダーを総登場させることで、世の中にはさまざまな人間・考え方が存在し、それらはすべて尊重されねばならないというきわめてあたりまえのことを、あらためて訴えるべき必要性に迫られたのではなかろうか?
 ソウゴがSOUGOに放った「みんなバラバラであたりまえ」こそ、この20年間の「平成」ライダーの総決算なのだ。
 そして創作物ではない以上、「人生が醜いのもあたりまえ」とのソウゴのメッセージは、「平成」ライダー最大の必殺技ではないのだろうか? 


*新時代の仮面ライダーが継承すべきものとは?


 『ジオウ』の後番組であり、2019年5月1日の改元以降、初の仮面ライダーとなる『仮面ライダーゼロワン』(19年)の主人公ライダーのお披露目は、今回は冒頭と本編終了後のラストにて行われた。
 2019年7月17日に開催された『ゼロワン』の新番組制作発表会でも高々と喧伝(けんでん)されたように、今回の劇場版でも早速新元号・「令和」が何度も語られている。
 そして2019年末に公開される『ゼロワン』の劇場版は、映画『仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション』(19年・東映)と名づけられた。
 だが、仮面ライダーは「平成」で描かれてきたように、今後も多様な価値観を訴えつづけることで、「令和」=「和を命じる」=同調圧力には決して屈することなく、それと戦う姿勢を貫(つらぬ)いていくことだろう。


 近年では映画の封切を金曜日とすることで興行をロケットスタートさせる戦略があたりまえとなっているが、今回の劇場版は仮面ライダー映画としてはこれが初めての試みとなった。
 実は筆者が毎回ライダー映画を鑑賞している静岡県静岡市のシネシティザートは、これまでライダー映画を完全な子供向けのプログラムとして位置づけてきたことから、夜の上映回がいっさい設定されなかったために、仕事帰りに観るのが不可能だったのだが、今回は初めてそれが実現することとなったのだ。
 ライダーオタの男性と家族連れが圧倒的な昼間の上映とは異なり、スーツ姿のサラリーマンたち、ひとりで観に来た若い女性、ヤンキーっぽい連中など、さまざまな層が劇場に押し寄せていたものだ。
 そうした観に来てくれるハズの層をずっと切り捨ててきたのだと、シネシティザートの浅はかさをあらためて実感させられたものだが、仮面ライダーがそんなにも幅広い層に受け入れられるのは、さまざまな人物像・価値観を決して否定することなく、そのすべてを尊重しているからではないのだろうか?


2019.7.27.
(了)
(初出・特撮同人誌『仮面特攻隊2020年準備号』(19年8月10日発行)所収『劇場版 仮面ライダージオウ』合評より抜粋)


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