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チア男子!!・アニマエール・風が強く吹いている ~チア男女やマラソン部を描いたアニメの相似と相違

『夜は短し歩けよ乙女』『夜明け告げるルーのうた』 ~鬼才・湯浅政明カントクのイマ半と大傑作!
『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』第1期
『ラブライブ!』第1期
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[アニメ] ~全記事見出し一覧


 2019年5月10日(金)から映画『チア男子!!』が上映中記念! とカコつけて……。
 深夜アニメ版『チア男子!!』(16年)とチア女子を描いた深夜アニメ『アニマエール!』(18年)と駅伝マラソン部を描いた『風が強く吹いている(18年)』評をアップ!

チア男子!!・アニマエール・風が強く吹いている ~チア男女やマラソン部を描いたアニメの相似と相違

(文・T.SATO)

チア男子!!

(16年8月8日脱稿)


 「チアダンス」を踊る男子という題材からも、絶対にイロモノのナンチャッテ的なギャグアニメだろう、タイトルからして「笑い」を取りに来てるよネ? ……などと思っていたら、マジメな作りの深夜アニメであった。


 スタッフはラノベ原作の深夜アニメ『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』第1期(13年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20150403/p1)や少女マンガ原作の深夜アニメ『アオハライド』(14年)などの監督で名をなした吉村愛――私見では両作ともに傑作!――。
 脚本も今やベテラン実力派脚本家で、近年では特撮でも坂本浩一カントクと組んだ『白魔女学園』(13年)――コレも傑作!――なども執筆している吉田玲子。


 絵柄は少女マンガ系。よって、少女マンガが原作か? タイトル末尾が「!!」とケーハクであることからライトノベルが原作か? と思いきや……。
 なんと、スクールカースト文学の金字塔『桐島、部活やめるってよ』(10年)――まぁ筆者も映画版(12年)しか観てないですけど――の朝井リョウ原作の小説なのでした!


 ただし少女マンガ絵でも、近年では少女マンガにもよくある(?)、BL(ボーイズ・ラブ)ではないけどBL的な消費も可能な、デッサン骨格しっかり系の男のコたちだけのホモ・ソーシャルな世界が中心で、女の子キャラは基本的に脇役としてしか登場しない――序盤を見ているかぎりでは――。


 単なるイロモノ作品としては終わらせないためか、主人公の可愛いお坊ちゃん系の大学生男子は淡泊で巻き込まれ型のキャラであり、我ら凡俗たる視聴者に近しい存在ではあるけれど、物語が開幕した早々で、柔道一家の落ちこぼれであり、相手を投げ飛ばす際に自身の方が痛そうな顔をしていると、コレまたよく見ている友人に指摘させ、彼を心優しい共感能力に優れた人物として造形してみせて、視聴者の感情移入を誘うあたりの作劇はお見事。
 で、凡人が主人公の作品の典型で(?)、彼の一応の相棒である男子の方が能動的で、彼の方が男子チアリーディング部を能動的に設立していくサマを描いていく。


 そこに集っていく、センスのなさそうなデブの初心者や、ご都合にもバック転なども最初からできる運動神経バツグンのチャラ男、元・男子チア経験者らしきコーチ業のみを希望する青年……。
 といった感じで、集結劇・群像劇としても、物語的には拙いところはない。ないのだが、もう少しコレ見よがしのケレン味やスパイスがほしいような気はする。

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(了)
(初出・オールジャンル同人誌『DEATH-VOLT』VOL.75(16年8月13日発行))


アニマエール!

(18年12月3日脱稿)


 「フレッ! フレッ! 私ー!!」だと、チアガールをモチーフにした今年2018年度の女児向けアニメ『HUG(はぐ)っと! プリキュア』の主役キュアエールになってしまう。


 今季2018年秋の萌え4コマ漫画誌『まんがタイムきらら』系アニメで、高校のチアダンス部が主題。ピンク髪の元気女子が、チアガールを夢見て高校に入学したら、チアダンス部がナイので、新規に部活を立ち上げる以前に、部活新設に必要な最低5人の部員集めからスタートするというモノ。


 近年でも『ラブライブ!』(13年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20150615/p1)や実写映画版『ハルチカ』(17年)などで既視感バリバリどころか、大学の男子チアダンス部(!)を題材にした小説原作(10年。『桐島、部活やめるってよ』と同じ作家による小説)の深夜アニメ化『チア男子!!』(16年)とも同じ導入部だ(汗)。
 まったくのド素人集団ではステップアップやら大会出場にリアリティがなくなるので、経験者なり何らかの才能の持ち主が、イヤイヤながらも放っておけずに参加してしまうのも全作で共通。本作でも一度は夢を断念した経験者の役回りをクールな黒髪ロング女子が務める。


 そのコテコテさにケチを付けるか、それをもう「王道」と捉えてこう作るしかナイと取るかはムズカしい。ヒトそれぞれであろう。個人的には後者の立場であり、あとは料理の仕方で、単なる味気ナイ段取り劇か、密度や血肉が感じられて劇中に吸引される仕上がりになったか、といったところで線を引きたいけど、そこにも個人の主観や好みが入るからなぁ。げに作品評価とはムズカしい。


 チアガールなんて日米共にスクールカースト最上位でオタの敵。TVドラマ『ダンドリ。~Dance Drill』(06年)や同じく実話の映画『チア☆ダン』(17年)にその続編のTVドラマ版(18年)もあったことを思うと、リア充文化のおこぼれにオタらも反発しそうに思うけど、まるっこいデフォルメされた頭身低めの記号的絵柄で、現実との地続き感やリアリズム的な眼差しはウスれ、「現実にはこんなに美少女だったら男が寄ってくるよネ」「女の方も好ましい異性にイロ眼を使うよネ」「ムキーーッッ!(嫉妬・羨望)」的な感慨も湧いてこない(笑)。


 ただし、作品自体の罪ではないしクオリティの話でもなくマーケティングの話になるけど、『きらら』系の18年夏季アニメ『はるかなレシーブ』が、まるっこい記号的な萌えキャラによる他愛ないキャッキャウフフではなく、デッサン骨格しっかりめの頭身高めでいわゆる恵体キャラによるスポ根路線をねらったら、円盤売上は『きらら』系アニメで断トツの爆死。
 そのへんの近年のオタの嗜好も考慮したのか、筋肉を感じさせない平面的なキャラデザで生グサさを中和(?)した『武装少女マキャヴェリズム』(17年)・『刀使ノ巫女(とじのみこ)』(18年)の2大刀剣美少女アニメも爆死したことと併せて――個人的には後者は神懸かった大傑作だと私見するけど(汗)――、体育会系部活女子や戦闘美少女モノは、当今の心優しい(?)『きらら』系読者や萌えオタにはウケないようにも悪寒。

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風が強く吹いている

(18年12月3日脱稿)


 「辞書」作りを題材に、実写映画化(13年)やノイタミナ枠でアニメ化(16年)もされた『舟を編む』)。その原作(09年)は中堅の女流作家・三浦しをんの筆によるものだが、本作もその三浦しをんの小説(06年)を原作にした深夜アニメだ。


 題材は大学箱根駅伝! なのだが、玄関が共同の歴史ある昭和チックなオンボロ木造アパートに住まう異形の学生たちを脅したり宥めすかしたりして、大学マラソン部を復活させようとする導入部となる。
 こう書くと、萌え4コマ原作の同季の深夜アニメ『アニマエール!』と題材的には同じだ。しかし、絵柄がまるっこい記号的な美少女か、デザイン骨格しっかりの筋肉も感じられる8頭身のイケメン青年やムクつけき男子かで、そのテイストはまるで異なって感じられる――くれぐれも云うけど、両者の優劣の話ではないので、念のため――。


 約30年も前(歳がバレる・汗)、第1世代SF作家の筒井康隆センセイがベストセラー小説『文学部只野教授』で、80年代ポストモダン思想や20世紀の現代思想に文学理論の要点などを解説、その中に「ナラティブ」(語り口)なる概念もあったと記憶するけど――同季公開の福井晴敏原作の映画『機動戦士ガンダムNT(ナラティブ)』(18年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20181209/p1)のタイトルも、ココからの引用と思われ?――、まさにその「ナラティブ」。題材・テーマよりも語り口・文体・叙述の方でその作品の質が決まり、同じ材からでも作風・風情・情緒は陰陽いかようにも変わる好例だとも思える。


 男性キャラの8頭身のキャラデザは、女性オタ層を狙ったモノだと云ってしまえば、野郎オタ向け美少女アニメと等価だともいえる。とはいえ、絵柄的にも作品のリアリティの喫水線が自動的に上がるので、一方では許容されるナンちゃって的な努力や精神主義での解決が、他方では許容されなくなるあたりで非対称ではある。
 楽天的な元気が燃料となる『アニマエール!』と、楽天的で強引な副主人公(?)によるマラソン部再建でストーリーは動くも、流されているようで安易に内面を視聴者にも覗かせない主人公(?)青年の姿にフォーカスが結ばれていくような本作――ググってみると、副主人公だと思っていた方が主人公で、主人公だと思っていた方が副主人公でしたけど(笑)――。


 大学近くの古き良き木造アパートということで、同じく小説原作の深夜アニメ『四畳半神話体系』(10年)やその派生映画『夜は短し歩けよ乙女』(17年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20190621/p1)も想起するけど、アチラはモテ非モテに重きを置かない京都大学の小汚い変人インテリ学生たちの自意識過剰で饒舌な内面トークが特徴だとすれば、コチラの小汚い学生たちはボキャ貧の愛すべき筋肉バカではある。ドチラもイケてない系であり、ストリートやクラブに繰り出してナンパしたりされたりといった人種でない点では共通項もあるのだが(笑)。


 とはいえ、本作もそれなりに高射程を狙ってはいるけど、地味でありツカミには弱いとも思う。
 同じ地味でも、コレならば古参出版社で10年越しの「辞書」作りに励む編集部を舞台に、そこに集う地味な若手・中堅・老年の編集者や契約社員にパートや営業、外注ライターや監修の老骨な学者先生たちによる、実に地道で気の遠くなる数万・数十万の語彙カードの作成&整理、原稿取りや、版下作りに校正・校閲や、紙やインクの選定などなどを描いた『舟を編む』の方が――傑作だったとまで評価はしないけど――、個人的にはまだ好感が持てた。


 ただまぁこの評価も筆者の性格に起因するところが大であろう。1日中狭くて薄暗い書庫にこもって他人とほとんど会話せず、シコシコと文献整理&思索に明け暮れるような仕事は、筆者のようなネクラ人種にとっては苦にならずむしろ天職であり天国だ! とすら思えるが、大多数の健全(冷笑)な一般ピープルにとっては、苦痛どころか拷問・虐待ですらあろうから(爆)。
 そんな職には就けない、就けたとして安月給で喰べていけない凡俗な我々は、90年代以降のSF冬の時代にデビューした日本のSF作家の大勢やラノベ作家の一部の兼業日曜作家たちのように、趣味を満喫といかずとも余暇に心の安寧を得るためにも、身過ぎ世過ぎでせめて表面だけでも他人に合わせて会話したり、生きて喰べていくためにも働いて小銭を稼がねばならない……といったような苦悩は、まだモラトリアムにある本作の学生たちや、ジャンル作品における若き主人公たちには無縁の悩みだ(笑)。

アニメ「風が強く吹いている」 Vol.1 DVD 初回生産限定版


(了)
(初出・オールジャンル同人誌『SHOUT!』VOL.73(18年12月29日発行))


[関連記事]

『夜は短し歩けよ乙女』『夜明け告げるルーのうた』(共に17年) ~鬼才・湯浅政明カントクのイマ半と大傑作!

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『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』第1期(13年)

  https://katoku99.hatenablog.com/entry/20150403/p1

騎士竜戦隊リュウソウジャー序盤評

平成スーパー戦隊30年史・序章 ~平成元(1989)年『高速戦隊ターボレンジャー』
『騎士竜戦隊リュウソウジャー』中盤評 ~私的にはスッキリしない理由を腑分けして解析。後半戦に期待!
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[戦隊] ~全記事見出し一覧


合評1 『騎士竜戦隊リュウソウジャー』序盤評


(文・久保達也)
(19年4月27日脱稿)


 同一の世界観でふたつの戦隊が争うという、やや変化球的な異色作としての趣(おもむき)が強かった前作・『快盗戦隊ルパンレンジャーVS(ブイエス)警察戦隊パトレンジャー』(18年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20190401/p1)につづく、「平成」の時代にスタートする最後のスーパー戦隊となった『騎士竜戦隊リュウソウジャー』(19年)は、『恐竜戦隊ジュウレンジャー』(92年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20120220/p1)・『爆竜戦隊アバレンジャー』(03年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20031111/p1)・『獣電戦隊キョウリュウジャー』(13年)を継承した、恐竜をモチーフとする戦隊である。


 今回東映側のプロデューサーを務(つと)める丸山真哉(まるやま・しんや)は、かつてメタルヒーローシリーズ『重甲ビーファイター』(95年・東映 テレビ朝日)のプロデューサー補や、『ビーロボカブタック』(97年・東映 テレビ朝日)のサブプロデューサーを務めた経歴はあるものの、特撮に関(かか)わるのは『燃えろ!! ロボコン』(99年・東映 テレビ朝日)以来、実に20年ぶりのことなのだ。
 前作の『ルパパト』が設定や世界観がかなり変則的だったこともあってか、氏の中では『リュウソウジャー』のコンセプトとして、「王道」を強く打ち出したい、との意向があるようだ。


 『ジュウレンジャー』・『アバレンジャー』・『キョウリュウジャー』のヒーロー&ヒロインのように、恐竜の鋭い牙(キバ)をモチーフにしたギザ模様がボディに描かれているものの、そのマスクは、先頃『仮面ライダージオウ』(18年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20190527/p1)に変身前の主人公を演じた役者がゲスト出演したり、スピンオフのネットドラマ・『RIDER TIME(ライダー・タイム) 仮面ライダー龍騎(りゅうき)』(19年)の配信で再び世間の注目を集めている『仮面ライダー龍騎』(02年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20021109/p1)に登場したライダーたちのように、ゴーグル部分にスリットの入った騎士の仮面がモチーフであり、野性味とスタイリッシュの双方を兼ね備えたリュウソウジャーのカッコよさは、まさに「王道」のヒーローデザインとして完成されている。


 先述した『ジュウレンジャー』の敵・魔女バンドーラの一族が、1億7千万年前に惑星ネメシスに封印されたように、今回の敵となる戦闘民族・ドルイドンは、かつて古代人類・リュウソウ族と争っていたものの、巨大隕石が地球に落下したことで恐竜が絶滅した6500年前に宇宙へと逃亡、それが再び地球に襲来したことで、世界各地の神殿に封印されていた騎士竜たちと、リュウソウ族の末裔(まつえい)であるリュウソウジャーが立ちあがるという設定・世界観も、やはり「王道」の冒険ファンタジーといった趣が強いのだ。
 洞窟(どうくつ)のような神殿の中で、「今からおまえたちが、リュウソウジャーだ!」と、先代のリュウソウジャー=マスターレッド・マスターブルー・マスターピンクが、コウ=リュウソウレッド・メルト=リュウソウブルー・アスナリュウソウピンクに、リュウソウジャーを継承する儀式を描いた第1話の導入部からして、それは如実(にょじつ)に感じられた。
 それにしても、マスターレッドを演じた黄川田将也(きかわだ・まさや)も、マスターブルーを演じた渋江譲二(しぶえ・じょうじ)も、マスターピンクを演じた沢井美優(さわい・みゆう)も、全員が現在ではマニアたちが「黒歴史」にしてしまっている(汗)、実写版の『美少女戦士セーラームーン』(03年・東映 中部日本放送https://katoku99.hatenablog.com/entry/20041105/p1)の出身者であるのは、いったい何の冗談なんでしょうか?(爆)


 第1話では開幕早々、突然現れたドルイドンの戦闘員たちを相手に、先代と現役のリュウソウレッドが共闘するさまが描かれるが、マスターレッドとコウが変身して飛びかかっていくカットに「スーパー戦隊シリーズ」のロゴをかぶせる演出、そして、戦闘員が全滅して燃えあがった炎が、ふたりのリュウソウレッドを囲むかたちで、恐竜の牙を思わせる三角形となるさまを俯瞰(ふかん)してとらえた場面は、最高にカッコよかった!
 ドルイドンに生みだされた怪獣も、第1話に登場したのは『ウルトラマンX(エックス)』(15年)の序盤に出た溶鉄怪獣デマーガを彷彿(ほうふつ)とさせるデザインであり、恐竜をモチーフとする戦隊の相手には実にふさわしいと思えたものだが、満月が浮かぶ夜空を背景に、深い霧の中で、黄色い目を光らせて出現するさまを俯瞰してとらえた演出は、実に神秘性にあふれていた。
 コウと、後述するが本作の一般人のヒロイン・ういを画面手前に配し、彼らに怪獣の長い尾が合成で襲いかかったり、森林のオープンセットを進撃する怪獣を終始あおりでとらえたりと、その巨大感と臨場感は、大ベテランの佛田洋(ぶつだ・ひろし)特撮監督によって絶妙なまでに演出されており、同じ佛田監督でも、いつもの採石場に簡素なセットが組まれていた(汗)『ジュウレンジャー』の時代とは、まさに隔世(かくせい)の感がある――あのころのスーパー戦隊が、テレビ朝日にとって「お荷物」とされていたことを思えば、『ジュウレンジャー』は予算的にはかなり厳しかったと思われるのだ――。


 第1話のクライマックスで、キシリュウオー「スリーナイツ」――直訳すると3人の騎士!――は、かつて人類がドルイドンに対抗するためにつくった最終兵器=騎士竜のティラミーゴ・トリケーン・アンキローゼが、最初から合体した巨大ロボットとして、背景に炎と噴煙をあげて登場。
 CGではなく、スーツアクターが演じる着ぐるみがオープンセットを疾走(しっそう)し、ジャンプして怪獣を飛び越え、崖(がけ)から飛び上がってキックをかましたり、高速ですべりこんで剣で斬りこんだりと、キシリュウオースリーナイツは実にアクロバティックな動きを見せてくれたが、演じる藤田洋平は前作の『ルパパト』では敵組織・ギャングラーの幹部だったデストラ・マッジョを演じており、その差別化した演技にも、今回は「王道」で行こう! との氏の意識が充分に伝わってくるのだ。
 また、第2話では巨大メカ抜きで、等身大のリュウソウレッドとリュウソウブルーが宙を華麗に舞いながら、巨大怪人と都心のビル街で戦うさまが、実景に合成された怪人を俯瞰してとらえたカットを多用して描かれており、画面手前を逃げる人間たちの奥のガラス窓に怪人を合成し、そこに怪人に吹っ飛ばされたリュウソウブルーが、窓を破ってつっこんでくる臨場感もさることながら、キシリュウオーと怪人が戦うカットで、その奥にあるビルが湾曲して見える(!)という、人間の目線に生じる錯覚を、カメラで完全再現してしまった演出には仰天(ぎょうてん)したものだった。


 パイロットとなる第1話&第2話を演出したのは、近年の仮面ライダーでめざましい活躍を見せるも、スーパー戦隊への参加は今回が初となる上堀内佳寿也(かみほりうち・かずや)監督だ。
 上堀内監督といえば、ライダーでは比較的アバンギャルドな演出をやりたがる傾向が強かったが、今回は極力そうした演出をおさえ、ひたすら「王道」に徹していたのは実に好印象であった。


市井のゲスト主役の懊悩が敵怪人を産み出す設定起因で、作風にやや陰鬱な空気もあるやも……


 そんな「王道」イメージで開幕した『リュウソウジャー』だったのだが、第3話以降、個人的にはどうにも違和感があるような……
 今回の敵となるドルイドンは、人間のマイナス感情を利用してマイナソーなる怪獣・怪人を生みだすが、これは『仮面ライダー電王』(07年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20080217/p1)や『仮面ライダーW(ダブル)』(09年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20100809/p1)、『仮面ライダーフォーゼ』(11年)や『仮面ライダーウィザード』(12年)など、近年では仮面ライダー、古いところでは『ウルトラマン80(エイティ)』(80年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/19971121/p1)に見られた設定と同様のものである、って、ヒーローアニメ『SSSS.GRIDMAN(グリッドマン)』(18年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20190529/p1)もそうでしたね(笑)。
 まぁ、「平成」仮面ライダーの場合は変化球であるのがあたりまえで、それがむしろ「王道」と化している感もあり(笑)、『SSSS.GRIDMAN』は深夜アニメだったから不問としておくが、こうした設定は本来「王道」ヒーロー作品であるスーパー戦隊とは、ビミョ~に相性が良くないように思えるのだ。


 第2話のゲストとして登場した、フェンシングの試合で優勝したいと思う男が、ライバルが消えればいいと願うのはそれほどでもなかった。
 だが、小学生のころ以来、自宅に友人を連れてきたことがなく、アマゾンの奥地の探検と偽(いつわ)って自らが出演する、富士の樹海(じゅかい)で撮影した動画を、ネットで配信して悦に入るような、ほとんど(ひとり)ボッチアニメの主人公みたいな、先述したういが、何をやっても中途半端(はんぱ)だからと、怪人を消滅させるために、崖から身を投げようとする、なんてのを、序盤の第3話でいきなりやるのはどうなのかと(笑)。
 この第3話の冒頭では、相棒となる騎士竜・トリケーンが心を開いてくれないことにメルトが悩む描写があったが、その後両者の間に特にドラマは描かれず、クライマックスでメルトが「頼む」と云った途端にトリケーンが共闘したのがかなり唐突だっただけに、それならういのドラマはもっとあとの回にして、この回ではメルトこそを、もっと掘り下げて描くべきではなかったか?


 つづく第4話のゲストの、仕事で忙しくて子供と遊べない父親とか、第5話で何の前振りもなく、いきなりトウ=リュウソウグリーンの旧知の存在として登場した(笑)、捨て犬や捨て猫を保護する少女など、ういも含め、彼らを取り巻く背景には、どうにも重さや暗さがつきまとう印象が強いものがある。
 それでも近年の戦隊のように、大半の怪人がお笑い系で、ベラベラとしゃべりまくるのであれば、その印象もかなり払拭(ふっしょく)されるかと思えるのだが、なんせ今回の怪人たちはゲストのマイナスエネルギーから生まれているだけに、「いちば~ん!」とか「観~ろ~!」とか「ワンワン!」(笑)など、ゲストの最も強い想いしか口にしないのだ。


敵軍団のスケール感欠如・戦隊レッドの熱血度の低さ。王道ねらいのようで微妙に王道ではない!?


 今回メインライターを務める山岡潤平(やまおか・じゅんぺい)は、アイドルグループ・AKB48(エーケービー・フォーティエイト)が主演した深夜ドラマ『マジすか学園』(10年・テレビ東京)と『AKBホラーナイト アドレナリンの夜』(15年・テレビ朝日)、集英社週刊ヤングジャンプ』に連載された学園マンガを原作とした深夜ドラマ『仮面ティーチャー』(13年・日本テレビ)などの脚本を務めてきたが、氏の経歴をザッと見た限り、世間で大きな話題となったヒット作にはさして関わってはおらず、先述したように、そのジャンルがかなり偏(かたよ)っている印象が強いものがある。
 アニメやゲームの脚本も未経験であるだけに、いきなり「王道」のスーパー戦隊を任(まか)されたことでまだ手探(さぐ)りの状態なのかもしれないが、だからこそ、第3話&第4話の中澤祥次郎(なかざわ・しょうじろう)監督とか、第5話&第6話の渡辺勝也(わたなべ・かつや)監督とか、大ベテランとして「王道とはこうあるべき!」と、もっとガンガン口出ししてくれよ、と思えるのだが(笑)。


 第6話までの時点で、ドルイドンの幹部としてタンクジョウ、毎回マイナソーを生みだすコミカルなキャラとしてクレオンが登場する以外、ドルイドンのキャラとしては戦闘員しか出ておらず、彼らの上に首領的な巨悪が存在する、といった背景の描写もないために、ドルイドンの悪の組織としての巨大さがいまひとつ伝わってこないのも、「王道」のヒーロー作品としては難点ではなかろうか?
 アジト的な秘密基地のセットすらも用意されておらず、タンクジョウとクレオンが野宿生活(笑)しているようにしか見えないのが、その最大の象徴かと。


 そもそもリュウソウジャーのリーダーであるコウ自体、「王道」を打ち出している割には比較的軽さのめだつ、熱血度が低いキャラなのだが、スポンサーのプリマハムが発売している『リュウソウジャーソーセージ』のCMでは、コウのセリフ回しがやたらと激アツであり、本編のキャラとは完全に別人に見えてしまっている(爆)。
 まぁ、特撮オタのOLが主人公のドラマ『トクサツガガガ』(19年・NHK・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20190530/p1)でも、劇中劇として描かれた、架空のスーパー戦隊の番組の中盤から登場した銀色の追加戦士が、アトラクションショーでは番組とは全然キャラが違っていた(笑)ように、まだキャラが固まらないうちにCMをつくってしまったことに起因する違和感なのだが、『リュウソウジャー』を「王道」にするなら、コウのキャラは『リュウソウジャーソーセージ』に合わせるべきではないのかと(大爆)。


 ただ、第6話で怪人の毒に侵(おか)された弟のトワを救ってくれたコウに、兄のバンバ=リュウソウブラックが感謝はしたものの、「仲間とは思っていない」として、トワとともに再びコウたちと別行動をとるようになったのは、いくら「子供番組」とはいえ、序盤で対立したキャラがすぐに「みんななかよし」(笑)になる傾向が従来のスーパー戦隊では強かったのに対し、これには前作の『ルパパト』の良さを継承した印象も感じられ、登場キャラのさまざまな思惑が交錯する「群像劇」としては、今後の展開に期待してもよいのかもしれない。


稚気満々な変身演出! 明朗な恐竜ロボット特撮演出から、今後に期待したいこと!


 あとリュウソウジャーの変身場面における、彼らの足下(あしもと)で小さな騎士の姿をした多数のリュウソウルが、「ワッセイワッセイ!」と踊りまくる描写が、中年オヤジの観点からすれば、もうひたすらかわいく見えてしかたがない(笑)。


 もっとも騎士竜たちが、00年代のスーパー戦隊の中では「王道」の色が強かった『炎神(えんじん)戦隊ゴーオンジャー』(08年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20080905/p1)の相棒として登場した、乗りものと動物の特性を兼ね備えた機械生命体・炎神たちのように、にぎやかにしゃべくりまくってくれるなら、そのかわいらしさに子供たちが惹(ひ)きつけられるのみならず、それらの声を演じる声優たちのファンをも、新たな視聴層として開拓できるかと思えるのだが。
 これは先述した『仮面ライダー電王』で、主人公の野上良太郎(のがみ・りょうたろう)=仮面ライダー電王に憑依(ひょうい)していた正義側のイマジン(怪人)たちの描写で爆発的な効果をあげたものだが、戦隊にしろライダーにしろ、近年はそうした演出が見られないのは、実にもったいないように思えてならないものがある。


 なので、中盤からでもいいから、リュウソウジャーとの結束(けっそく)をいっそう強くしたことで、騎士竜たちが人間の言葉を話せるようにできないものかと。
 『リュウソウジャー』で変身やさまざまな武器として使用されるアイテムがリュウ「ソウル」(魂・たましい)と命名されているように、『ゴーオンジャー』で描かれた同様のアイテムも炎神「ソウル」と呼ばれていたのだし、当初3人で結成された戦隊に緑と黒の戦士が加わるのも、まんま『ゴーオンジャー』と同じなのだから(笑)。


 まぁ、古い世代としては、リュウソウ族の長老を演じているのが、『帰ってきたウルトラマン』(71年)で主人公の郷秀樹(ごう・ひでき)=ウルトラマンジャックを演じた団時朗(だん・じろう)というだけで、視聴意欲がマンマンであることには違いないのだけれど。
 第5話のクライマックスでは、デカい夕陽を背景に、リュウソウブラックの相棒・ミルニードルがキシリュウオーに合体した、キシリュウオーミルニードルとタンクジョウが対戦したが、世代的に佛田特撮監督も、団氏の出演で『帰ってきた』でよく描かれた、「夕焼け特撮」を再現したくてたまらなくなったのではないのかと(笑)。


(了)


合評2 『騎士竜戦隊リュウソウジャー』序盤評

(文・犬原 人)


 全体的にドラマがチャカチャカしているような気もするが、何をどう説明すべきなのかわかっている、ツボを押さえた脚本のせいで、すんなり作品世界に入っていけたような気がした。だからといって自分の好みかと言えば、実のところはそうでもないのだが。


 それでも長老(おお団時朗!)、マスターレッド(黄川田将也!)など、往年の特撮スターが客演しながら、マイナソー(ウルトラマンルーブに絡めた方がよかったようなデザインだった )に殺されるという形で無理やり世代交代を強いられる……という第1話は、『仮面ライダーV3』(1973・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20140901/p1)を見たようでもあり。


 この『星獣戦隊ギンガマン』(1998・https://katoku99.hatenablog.com/entry/19981229/p1)か『忍風戦隊ハリケンジャー』(2002・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20021110/p1)な、「世間から隔絶された」彼らに素人ユーチューバーが絡むのは当代風なんかな。彼女に絡む親族の叔父さんがフライドチキン男(吹越 満from『有言実行三姉妹シュシュトリアン』(1993))なので、芝居の方に心配はしていないのだが。


 人間のマイナス感情を糧に、エサとなる人間が消耗するまで暴れ回るというマイナソーの設定は『SSSS.GRIDMAN』(2018)というより『プリキュア』っぽいか? という気もするが、うっかり生物なり宇宙人なり異民族を設定すると抗議が来るので設定された、「精神的人外」なような気もする。


 リュウソウジャーのデザインはグッド。恐竜と騎士の甲冑を組み合わせた顔の出来は及第点だが、子供には描きにくそう。


 とりあえず今年は、気が滅入った時は「ケボーン!」と叫ぶようにしよう。「死ぬ気弾」を浴びたつもりで(そりゃ『リボーン』だ!……笑)。


(了)


合評3 長老「だって、うちケバブ屋だもん!」

(文・戸島竹三)


 レギュラーに団時朗、『ウルトラマン80(エイティ)』(80)のような怪獣の成り立ち(人間の負の感情が原因)と、円谷感満載の序盤に驚く(1話の怪獣もモロ、『ウルトラ』だし)。五人の中では、ソーセージCMの演技も異様に熱いレッドがダントツの存在感。吹越満はもう少し出番がほしい(掛け持ち出演が続くうちは無理か)。


(了)


合評4 『騎士竜戦隊リュウソウジャー』序盤評 ~初期感想。一話から三話を視聴

(文・フラユシュ)

一話。

 どちらかというと怪獣物+『星獣戦隊ギンガマン』(98年)を恐竜に置き換えたリメイク的内容。
 『ゲゲゲの鬼太郎』(18年)一話でもユーチューバー出ていたが、こちらはレギュラーか。実写でハンマーで記憶消すネタは生々しのでやめた方がいいような。

二話。

 フェンシング選手絡めた家族話。先代のこともう少し引きずるか仲間さがしかと思いきや、既に通常話。
 今回も基本おバカレッドか。まだレギュラー全員ぎこちない印象。SNSよりも子供の目撃というのがなんと言ったらいいのか……。
 で、今回ティラノサウルスメカはお笑い枠なのか? どちらかというと等身大戦闘より巨大戦闘メインのシリーズか?

三話。

 怪人説明回。で、残り二人のリュウソウジャー登場で兄弟なんだね。だが、合理的に今回の怪人の発生源の人間を殺す合理主義者か。黒の兄貴は無口のためまだキャラ読めないが緑はそうか。


 子供番組などでも長いこと描かれてきた「被害をこうむる『多数』を救うために『少数』を犠牲にする合理主義」テーマは、一部でのネット論争によると倫理学の思考実験で有名な「トロッコ問題」から来ているらしい。これはフィリッパ・フットが提起し、ジュディス・ジャーヴィス・トムソン、ピーター・アンガーなどが考察を行った。人間がどのように道徳的ジレンマを解決するかの手がかりとなると考えられており、道徳心理学・神経倫理学では重要な論題として扱われているそうだ。
 マイケル・サンデル教授の講義をまとめた書籍「これからの『正義』の話をしよう」(10年)内の記事に、この思考実験の講義があるらしいが、ジャンル作品ではわりとむかしからあるテーマなので「トロッコ問題」を扱ったクリエイターが、この書籍を全員読んでいるわけではあるまい。文庫版の発売は2011年だし。この論をサンデルが再拡散したのは2009年くらいだとの説をネットにて拾う。再拡散ということはそれ以前にもあったらしい。


 ちなみにこの問題を扱った作品をジャンル作品で初めて見たのは、記憶だけで書いているので間違いあるかもしれないが、旧『魔法使いサリー』(66年)での機関車のエピソードで、三浦綾子の実話を元にしたキリスト教神父がその身を犠牲にして機関車とその乗客を救う小説『塩狩峠』(66年・73年に松竹にて映画化)をモデルにした話であった。
 まぁその話では機関車の保存問題が主で、命の重さのテーマにはあまり重きを描いていなかったと思うが。提起はしたが答えは見た視聴者にゆだねるという感じで。おそらく脚本を担当した人がその小説を読んでネタにしたのであろうか。誤認があればオフセット印刷版までには書き足します。


(参考)
https://ja.wikipedia.org/wiki/ 塩狩峠_(小説)
 おそらくこのブームから持ってきたんだろうが、エンディング主題歌のなれあい見るかぎり、あまり尾を引く設定ではないと思う。緑がそのことを知っているということは、既にそのために人間を殺してるとしたらハードだが、今時の作品でそこまでやることはないだろう。四話以降は未視聴なのでコメントは控えますが。


(了)


合評5 『騎士竜戦隊リュウソウジャー』序盤評 ~ケボーン!! ってなに?!

(文・J.SATAKE)


 日本の放送文化の質的向上を願い、放送批評懇談会が顕彰するギャラクシー賞。その月間賞を特撮の枠をこえた見応えある人間ドラマであると、スーパー戦隊シリーズ『快盗戦隊ルパンレンジャーVS警察戦隊パトレンジャー』(18)が受賞!! 我々ファンからしてみれば、その魅力の一端が未見の方々に伝わる機会となったことに喜びを禁じ得ない。


 特撮作品において、人物造形とそこから生まれるドラマの充実は親世代に訴求することになるわけだが、今回スタートした第43作『騎士竜戦隊リュウソウジャー』(19)はメイン視聴者である子供たちに向けて、ヒーローの魅力・仲間と協力するチームの力・変身と合体ロボットの爽快なバトルアクションというスーパー戦隊の特色をストレートに展開する作品となるようだ。
 チーフプロデューサーは丸山真哉氏。脚本はテレビ朝日東映が製作した刑事ドラマ『遺留捜査』(17)などを手がけている山岡潤平氏。シリーズの方向性をリードする第1・2話を監督したのは、平成仮面ライダーで人物の心理を独自の画で表現し、バトルアクションもアップとスローモーションを効果的に使ったシーンを展開した上堀内佳寿也氏。新たにスーパー戦隊を担当するスタッフは、どのような王道を目指すのかが打ち出された初期編となった。


戦闘民族ドルイドン軍団! 6500万年ぶりに宇宙から襲来!


 人里離れた樹海を舞台に、戦いを繰り広げるふたつの種族。その身に城を構えたかのような巨体の魔人=タンクジョウと毒々しいキノコが機械の鎧をまとった魔人=クレオンは、銀色の鎧に身を包んだ戦闘員=ドルン兵を従え侵略を開始した。
 彼らは戦闘民族ドルイドン。6500万年前にも戦端を開いたが、地球に巨大隕石が落下したため侵略をあきらめ宇宙をさまよった。だが宇宙の過酷な環境によって、人間の生命エネルギーと負の感情をかけあわせて成長するモンスター・マイナソーを生み出す能力が発現。これをもって再び地球の支配者にならんと舞い戻ってきたのだ!


 敵は容赦なく人類と地球を狙う戦闘民族。頑丈な体躯で大剣を振るうタンクジョウは地球のマグマから力を奪い火球攻撃で騎士竜戦隊を苦しめる。


 仕事に忙殺され子供と遊んであげる時間をつくってやれない、人間の勝手な都合でペットの命を簡単に奪ってゆく……。人が毎日の暮らしで多かれ少なかれ抱いてしまう負の感情。そこから生命エネルギーを抽出しマイナソーを成長させるのがクレオンの役目だ。


 揺るぎなく倒すべき巨悪として存在することで人類と地球を守るヒーローとの対比が浮き彫りとなる。初登場シーンではタンクジョウとクレオンのほかにも幾体かのシルエットが並び立っていた。これから登場する彼らも強敵揃いのドルイドン軍団であることを期待しよう。


古代人類リュウソウ族! 因縁の敵に対し、長老や先代の遺志も継いで戦隊へ変身!


 ドルイドンに対抗し戦いを続けたのは古代人類リュウソウ族。彼らは恐竜のもつ絶大な力を借りて戦い抜いてきたのだ。隕石落下によってドルイドンは撤退、恐竜は絶滅したがリュウソウ族は最終決戦に備えて武装した恐竜=騎士竜を神殿に封印し、現代に至るまで人知れず騎士道を貫き続けていた……。
 次なる戦いに向けて世代を引き継いできたリュウソウ族だが、タンクジョウ&クレオン率いる兵団と巨大獣となったマイナソーの脅威にさらされる三人の騎士。マスターレッド(演・黄川田将也氏)マスターブルー(演・渋谷讓二氏)マスターピンク(演・沢井美優氏)は、激しい戦いのなかでその身を挺して弟子の命を守り、騎士の使命と精神を示して絶命する! 黄川田氏は『仮面ライダーTHE FIRST』(05・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20060316/p1)本郷猛として主演したが、実写版『美少女戦士セーラームーン』(03)タキシード仮面の渋江氏と主人公・月野うさぎの沢井氏とともに古幡元基としても出演している。


 師弟関係は世代交代の象徴。本作の物語としてはもちろんだが、東映特撮に出演した俳優として新しい世代へ歴史をつないでゆく様をも感じ取ることができ、主人公たちへの感情移入度がより高まる。
 リュウソウ族を束ねる長老を演じるのは団 時朗氏。騎士竜の伝説を語る重厚さや、掟に厳しいところから典型的な長老かと思われたが、リュウソウ族の里が崩壊後は移動車両のケバブ屋のおやじさんとして再登場! 硬軟取り混ぜてコウたちをサポートするバイプレイヤーとして活躍してくれそうだ。 


 マスターレッドの意思を受け継ぎ騎士となったコウは「勇猛の騎士」=リュウソウレッド。長めの髪をカッチリ分けた王子スタイルの彼だが、好奇心旺盛で考えるよりまず行動するアクティブキャラだ。
 青い髪がひときわ目を引くメルトは「叡智の騎士」=リュウソウブルー。慎重に敵を観察し戦略を提案するクールキャラだ。
 コウやメルトとは幼なじみのアスナは「剛健の騎士」=リュウソウピンク。小柄な女子でありながら怪力の持ち主という定番の設定だが、仲間を信じる強い意志を持ったキャラも付加されている。


 修行なかばでドルイドンとの戦いに入った彼ら。マスターの死に直面し、強敵・タンクジョウへの憎しみを隠せない。敵怪人・マイナソー発生の理由である人の心に寄り添い、撃退するために伝説の騎士竜が眠る神殿を発見しようと東奔西走! 次々と迫る局面をくぐり抜け騎士として成長してゆく様を追うことで、ヒーローの存在意義を示す。


別働戦隊も登場! 根源のゲスト庶民を抹消すれば敵怪人も抹殺可能!?


 三人より先んじてリュウソウ族の里を離れ、騎士として修行を積んでいた二人がいた。
 短い茶髪と強い自信からついつい挑発的な口調となるトワは「疾風の騎士」=リュウソウグリーン。その一方で動物に優しく接する一面もある。
 トワの兄であり、オールバックにキッチリきめた髪型から義理堅さが滲むバンバは「威風の騎士」=リュウソウブラック。修行で身につけたのか、堅実な戦い方が合理主義であることを伺わせる。


 立場の異なる騎士の出会いがヒーローの意義・精神を問い直す。
 いまだつたない技量のコウたちを軽視するトワとバンバ。二人はマイナソー成長の原因である、生命を奪われる人物を亡き者とすれば良いと剣を振り上げる! しかしコウたちはその人の悩みに寄り添い、助けたいと手を差し伸べる……。
 バンバが言う「小を殺し大を救う」、これが現実的な救済の道でありひとつの回答だ。だがコウたちはギリギリまで努力し、地球に生きる生命を守ろうとする。ヒーローに求められる技量と精神。どちらも充実しなければ理想は実現しない、それを複数のチームで補い合うのがスーパー戦隊シリーズの意義と精神なのだ。


 勝ち負けにこだわりコウと競い合うトワだったが、全てを救いたいというコウたちの理想に伝説の騎士竜たちが応えて復活した事実を知り、反発していた自分たちも仲間だと必死に戦う姿にその心を開いてゆく……。
 バンバもコウたちの戦い方を認められなかったが、弟・トワの命の危機に接し、最後までコウとメルトの勝利を信じて待つという同じ病床のアスナの心からの言葉に、その剣を下げるしかなかった。――バンバには他にも合理主義にならざるを得ない事情があるようだが、それはまた後のようだ――


 ひとりの力は小さくとも、それを合わせれば大きな力となる。そこへ至るには意見がぶつかることもあるが、高い理想を求めて努力する心を持ち続けよう! 現実は厳しいけれどヒーローにも日常にも大切な精神を真っ直ぐ掲げることができるのが、このジャンルの特権だ。 


戦隊が寄宿する変人学者の父娘! なんと娘は引きこもりなユーチューバー!?


 コウたちを人間の世界に導くのは、地球の謎に迫る(?!)動画サイト「ういちゃんねる」をアップするため各地へひとりで足をのばす龍井うい。偶然リュウソウ族の里へ迷い込んでしまった彼女。ドルイドンとの戦いに巻き込まれたことでコウたちと関係を深めるが、引きこもりの時期を過ごしたこともある「人嫌いだけど繋がりたい」少女なのだ。
 そんなういを優しく見守るのが父・尚久(演・吹越 満氏)だ。これまで発見されていない恐竜の存在を信じ続け、学会から見放されてもフィールドワークを地道に続ける彼のひたむきさが娘・ういの心を救っている。
 この研究が各地の神殿に眠る騎士竜につながると、ういはコウたちを自宅兼研究室へ居候させる。そんな無茶も受け入れ、ういをよろしくと願い出る尚久。
 派手でドラマチックな親子関係ではないが、思いやりで互いを支える様子が見えてくる良いシーンであった。ベテラン・吹越氏の飄々とした物腰はシリアスにもコメディにもハマり、誰彼なく豆乳をすすめる小ネタキャラも着々と進行させる見事な役者さんだ。


戦隊のデザインモチーフ・変身ブレス・各種アイテム・音声ガイド・プレイバリュー!


 騎士竜戦隊のヒーローデザインは「牙のギザギザ」と「騎士の鎧」がポイント。変身ブレスレットであるリュウソウチェンジャーは恐竜の頭部に騎士のフェイスガードを組み合わせたもの。そこにリュウソウルと呼ばれる、小型の恐竜ヘッドパーツをセットすることで騎士竜のパワーがチャージされリュウソウジャーへ変身するのだ! このリュウソウルはワンタッチで恐竜ヘッドのソウルモードと、剣と盾を持った鎧騎士・ナイトモードへ変身するアイテム。画の見どころは、コウたちの周りに小さな鎧騎士たちが現れ戦意を鼓舞する踊りをするところ。変身待機音も笛と太鼓でプリミティブなイメージを補強する!


 「ワッセイ、ワッセイ! ソウ、ソウ、ソウ、ワッセイ、ワッセイ! ソレ、ソレ、ソレ、ソレ!! リュウSO COOL!」
 「俺たちの騎士道、見せてやるぜ!」


 ヒーロースーツのデザインも騎士のフェイスガードをつけた恐竜をヘルメットに落とし込み、首元中央から大きく牙をデザインしたものだ。腰ベルトのバックルは卵型のリュウソウルホルダーで、様々なタイプのリュウソウルがここから取り出される。


 リュウソウジャーのメイン武器は長剣・リュウソウケン。鍔にあたる部分に金色の恐竜がデザインされており、その口が開きリュウソウルをセット。グリップで口がガブガブすることでパワーチャージ!


 「リュウ! ソウ! そう! そう! この感じ!!」


 剣を持つ右腕から肩にかけて鎧が装着されて、様々な特殊能力を発揮することができるようになるのだ。


 ・強大な力を発揮できるツヨソウル
 ・長い鞭が伸びて攻守に使えるノビソウル
 ・瞬発力を高め高速移動ができるハヤソウル
 ・石のような堅さでその身を守るカタソウル
 ・鉄球を装備し重力を操るオモソウル


 リュウソウルは変身前でも使用でき、遙か遠くを見聞きしたり、相手に本当のことを言わせたりなど魔法のような効果もある。一方、臭い匂いをまき散らすクサソウルや、地面を磨いて敵の足を滑らせる ソウルなど使い方を間違えると正に「スベって」しまうオモシロ系もあり、玩具展開において定番となったコレクションアイテムのバラエティ化に一役買っている。


 変身アイテムの音声ガイダンスは関 智一氏が担当。『海賊戦隊ゴーカイジャー』(11)での威勢良いガイダンス以来、その特撮愛溢れる声の演技でワル中のワルから愛嬌ある怪人を演じ分け、『仮面ライダー』(71)ショッカー首領の納谷悟朗氏の声質を見事に再現するなど、現在特撮声優として欠かせない存在となっている。本作のリュウソウルはカッコ良さを追求した声はもちろんだが、クサソウルやプクソウルなどギャグ調のアイテムは思いっきりおふざけ声を披露しており、そのギャップも大きな魅力のひとつとなっている。
 『獣電戦隊キョウリュウジャー』(13)での千葉 繁氏の振り切った叫び声とサンバミュージックもかなりのインパクトを残し賛否両論であったが、それに習ったかのような本作も筆者は大賛成だ。どうせやるなら振り幅は大きく! おもちゃ箱をひっくり返したかのような賑やかさもスーパー戦隊ならではの作品カラーなのだから。


巨大獣vs等身大ヒーロー・恐竜ロボ複数・合体して戦隊巨大ロボ! 本作の特撮演出!


 巨大化したマイナソーにその身ひとつで立ち向かってゆくリュウソウジャーたち。昨年拡張された都市セットを舞台にして巨大獣と等身大ヒーローの戦いが繰り広げられる!!
 ビルの窓からのぞむマイナソーの威容に恐れおののく人々。その巨体に飛びかかり周りを巡って攻撃を続けるリュウソウジャー! 以前なら一方向からのアングルで捉えるしかなかった巨大獣とのバトルだが、ヒーローが激しく移動する様子をカメラが追い続ける画をセットとスーツアクター・CGを複合でデジタル合成することでアクティブでダイナミックなシーンとして見せることができるようになった。
 巨大獣の力と恐ろしさを示し、それに対抗しうる力=伝説の騎士竜の存在・必要性を訴える。しかし騎士竜たちにも意思があり、リュウソウジャーの騎士としての決意を見極めて動き出す「パートナー」としてキャラクターを際立たせる。


 これまでに何度もモチーフとして採用されてきた恐竜。本作では武装した恐竜=騎士竜ということで生物の曲線を活かしつつ、メカ二カルな武装パーツを取り込んだデザインとなっている。
 リュウソウレッドの騎士竜はティラミーゴ。一番の人気恐竜・ティラノサウルスをモチーフに銀色の鎧パーツと、小型のキャノン砲・ドリルを装備しているのが特徴だ。大きな口の噛みつきとテイルアタックが主な攻撃だが、ティラミーゴ単体でロボット形態へ変形することも注目ポイントだ。リュウソウレッドがリュウソウルを投擲するとグングン巨大化! ソウルモードの裏側にはロボ形態の頭部が隠されていたのだ! 胸部にティラミーゴの頭部がセットされた巨大ロボ・キシリュウオーの完成!!
 ブルーの騎士竜はトリケーントリケラトプスの角が長大な剣となっており、手足がかなり小型化されたデザインだ。
 ピンクの騎士竜はアンキローゼ。アンキロサウルスの尻尾が大きなハンマーとなり、トリケーンと統一されたサイズでデザインされている。


 トリケーンとアンキローゼはキシリュウオーの武装パーツとしても運用される。このタイプがキシリュウオースリーナイツだ! 騎士竜たちの様々な部位に共通の突起が装備されており、そこに黒色のジョイントを組み合わせることで、分離したトリケーンの剣やアンキローゼのハンマー、ティラミーゴのテイルさらには頭部までも! キシリュウオーの腕や脚部・肩などに接続して攻撃に使用することができるのだ!!
 ジョイントチェンジと呼ばれるこのシステム、各部の突起を良く見るとなつかしの組み立てブロックではないか! 突起と箱が密着する独自の「渋み」で着脱が自由自在のブロック。テレビシリーズに登場した武装のほかにもオリジナルの組み合わせで様々な武装・合体を楽しむことができる玩具となっているのだ。


 キシリュウオーのバトルアクションはスーツアクターによる激しいライブアクションの迫力が最大の魅力! 直線的な箱組のロボットに比べ、キシリュウオーはメリハリの効いた細身のデザイン。腕・脚部もスリム、さらに腹から腰部も動きやすいシンプルなラインなので膝を高くあげて走ることができるのだ! 下からあおるカメラアングルで土煙を巻き上げながら疾走するキシリュウオーの画はダイナミック! 腰を大きくひねることも可能なため、得物を振り回すアクションも映える。


 グリーンの騎士竜はタイガランス。本作オリジナルの恐竜・タイガーサウルスはほとんど虎! 牙と尻尾をランスで武装している。
 ブラックの騎士竜はミルニードル。これもオリジナル恐竜・ニードルサウルスはほぼハリネズミ! 広い背をスパイクニードルで武装している。
 彼らもティラミーゴとジョイントチェンジすることができ、さらにレッドリュウソウルの代わりにブルー・ピンク・グリーン・ブラックリュウソウルを組み替えでヘッドチェンジすることでキシリュウオートリケーン・キシリュウオーアンキローゼ・キシリュウオータイガランス・キシリュウオーミルニードルへとバリエーション展開する。これらは後の戦いではっきりと差別化する演出を期待したい。


 そして全ての騎士竜を武装したキシリュウオーファイブナイツに合体! 五人の騎士の意思がひとつとなったこの姿で強敵・タンクジョウと対決する。


 ときに厳しくときに優しく、騎士の道へ導いてくれた師匠・マスターレッドの命を奪ったタンクジョウ。その憎しみ・怒りにまかせて無謀な戦いへ突き進むコウ! マイナソーの毒によってトワ・バンバ・アスナが動けなくなるなか、作戦参謀でもあるメルトも倒れ伏す。このまま全員が敗北すれば誰が地球の生命を守るのか? 必死でマイナソーの牙を奪い解毒剤を生み出したことで、コウは悟る。
 ヒーローは個人の憎しみで戦うのではない。過去に目を向けるのではなく、未来に向かって(自らを含めた)ひとつでも多くの生命を救うための戦いをしなくてはならないのだ。コウの理想に共感してキシリュウオーの五体合体を完成させた騎士竜戦隊! 
 地球のマグマパワーを吸収したタンクジョウを地上で撃破しては周囲の市街地を壊滅させてしまう……身体を風船のように膨らませるプクプクソウルでタンクジョウを大空高く舞い上げて、全てのパワーを斬撃に込めたキシリュウオーファイブナイツの最強必殺技=ファイブナイツアルティメットスラッシュが強敵を葬り去った!!


『騎士竜戦隊リュウソウジャー』序盤総括


 コウたちの戦い方を完全に認めたわけではないが、トワの生命を救ってくれたことに頭を下げるバンバ。わだかまりは消えていないが、今後はトワがコウたちとの間を取り持ってくれるだろう。
 第一のライバル・タンクジョウとの戦いを通じて、騎士竜戦隊のヒーローとしての立ち位置を明確にしてきた初期編。ただ理想だけを見せるのではなく、現実を受け入れつつそのうえで理想に向かってゆくことが自身のみならず世界を変えてゆく……様々な情報を受け取ることができる現代。近道を選ぶことは容易いけれども、泥臭くも地道な努力が報われ人の和がひろがることが尊い
 ヒーローの葛藤を複数のキャラに振り分け、バトルアクションにのせて描いてゆく。それが重くなりすぎず熱いドラマへと昇華させるのが、本作の魅力であろう。


 本作はエンディング曲が復活! サンバ調のリズムに乗って、素顔と変身後のメンバー・さらに騎士竜たちも、舞台のかきわり風イラストやビルの屋上・野原など様々な場所で楽しく歌い踊る! 曲調・コンセプトは『キョウリュウジャー』と同じだが、明るく楽しい作風にはこうしたエンディングがベストマッチであろう。


 真正面からの直球勝負で王道のスーパー戦隊を目指す『リュウソウジャー』。これからの展開も注目してゆきたい。


(了)
(初出・特撮同人誌『仮面特攻隊2019年GW号』(19年4月29日発行)所収『騎士竜戦隊リュウソウジャー』序盤合評1~5より抜粋)


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ゴジラ評論60年史 ~50・60・70・80・90・00年代! 二転三転したゴジラ言説の変遷史

『シン・ゴジラ』 ~震災・原発・安保法制! そも反戦反核作品か!? 世界情勢・理想の外交・徳義国家ニッポン!
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 2019年5月31日(金)から洋画『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』が公開記念! とカコつけて……。「ゴジラ評論60年史」をアップ!


ゴジラ』評論60年史 ~50・60・70・80・90・00年代! 二転三転したゴジラ言説の変遷史!

(文・久保達也)
(2014年7月12日脱稿)

2014年 ~『ゴジラ』第1作リバイバル公開


 14年7月25日公開のハリウッド版『ゴジラ』宣伝の一環としての意味合いが強いのだが、『ゴジラ』第1作(54年・東宝)の4Kスキャン・デジタルリマスター版が、14年6月9日から2週間の期間限定で公開された。


 実は正直、画質も音質もどこが向上しているのか、個人的にはまったく気づかず、こんな「違いがわからない男」ではマニアとしては失格か、と思ったりもする(汗)。むしろそうした部分ではなく、これまで再三鑑賞してきたにもかかわらず、今回初めて気づいた演出・描写があったりしたのである。


ゴジラ上陸の被害に遭った大戸島の住民たちが国会で陳情する場面で、故・志村喬(しむら・たかし)演じる山根博士が見解を述べる際、最初スーツからハミ出していたネクタイを、話しながら上着の中に突っこむ描写があること。
 生物学者たるもの、やはり日頃は身なりに無頓着(むとんちゃく)であるということが、こうしたさりげない演出で端的に表現されているようにも思える。
 マニアがいうところの、故・本多猪四郎(ほんだ・いしろう)監督の怪獣映画では、登場人物たちの「日常」がキチンと描かれている、という点は、まさにこうしたものを指しているのであろう。


ゴジラが国会議事堂を破壊する場面に続き、燃え上がる東京の街を背景にゴジラが進撃するのをロングでとらえたカットの中で、ナゼか破壊されたハズの国会議事堂が無事な姿で映っている(笑)。
 これはおもいっきりの編集ミスかと思われるのだけど、これまで星の数ほど出された『ゴジラ』関連書籍の中で、筆者が知るかぎりでは、これについて指摘したものは皆無だったかと思えるのだが。


ゴジラ東京上陸や品川襲撃の場面など、巨大感を表現する手段として、ゴジラをあおりで撮影したカットが散見されるが、路面電車の架線ごしにゴジラをとらえたカットがあること。
 都電荒川線は現在でも走っているが、それ以外の東京都内の路面電車は67年に全廃されており、ほかの東宝特撮映画では見られない描写ということもあるのだが、画面に奥行きが感じられる味わい深い特撮演出となっている。


●個人的には、山根博士の娘で本編ヒロインの恵美子を演じる故・河内桃子(こうち・ももこ)に、「昭和」の女優が「昭和」の女性――ただし、高度経済成長期以前――を演じている、と痛感し、こうした「絶滅危惧種」に想いを馳(は)せる筆者的にはたまらないものがあったとか(笑)。
 ただし、これはあくまで「個人的趣味」の範疇(はんちゅう)にとどめておくべきものであり、「昭和」の女優&女性が「平成」のそれよりも優れている、などと断言してはならない性質のものである。これは「特撮」評論でも同じことがいえるのではなかろうか?


 あと、観客の反応で驚かされたことがある。


ゴジラ東京襲撃の場面にかぶる、


アナウンサー「テレビをご覧の皆さん、これは劇でも、映画でもありません! いま我々の目の前で起きている、現実の出来事なのです!」


なるアナウンサーの実況。


●そして、ゴジラテレビ塔を破壊する場面で、


アナウンサー「右手を塔にかけました! ものすごい力です! いよいよ最後! さようなら皆さん! さようなら!」


と、実況したアナウンサーやカメラマンたちが、テレビ塔ごと地上に落下していく場面。


 これらに対しては、80年代から90年代初めのリバイバル公開では、必ず観客から「笑い」が起きていたものであった。現在のようにはジャンル作品がまだ「市民権」を得られてはいなかったこの時代は、80年代が若者たちの間で躁病的な「軽薄短小」のお笑い文化が隆盛を極めた時代であったこともあってか、コアな特撮マニアはともかく文化的なものに多少は関心があってもサブカルチャーの一環としてリバイバル公開を観に来るようなヤング層にとっては、怪獣映画そのものが「お笑い」の対象であったのだが、それをまさしく象徴するような現象であったと、今は思えてならないものがある。
 それが今回は老若男女(ろうにゃくなんにょ)問わず、観客の層は幅広かったが、これらの場面に対し、誰ひとりとして笑い声を上げる者はいなかったのである。2011年3月11日に起きた東日本大震災津波からの避難に伴う人間模様などを経(へ)ていることもあるかもしれないが、ゴジラの世間における位置づけ、そして観客の意識というものが、時代とともに確実に変化し続けている、とも読みとれるのではなかろうか?


 そうなのである。2014年に誕生から60年、まさに「還暦」を迎えたゴジラだが、その60年というあまりに長い歴史の中で、ゴジラに対する評価の基準もまた、目まぐるしく二転三転の変遷(へんせん)を遂げてきたのである。


1954年 ~『ゴジラ』第1作封切時の評価


 今は亡き朝日ソノラマ――07年に朝日新聞社に吸収合併――が78年5月1日に『ファンタスティックコレクション』No.5として刊行した『特撮映像の巨星 ゴジラ』(ASIN:B00CBS4EXI)の巻頭文「刊行によせて」において、昭和から平成に至るゴジラシリーズをプロデュースしてきた東宝の故・田中友幸(たなか・ともゆき)は、『ゴジラ』第1作の公開当時の評判について、以下のように述懐(じゅっかい)している。



「当時の評判はあまり芳(かんば)しくはなく、“ゲテもの”扱いされたものですが、ただひとり、作家の三島由紀夫(みしま・ゆきお)氏が“文明批判の力を持った映画だ”と、高く評価して下さったのを記憶しております」



――故・三島はその後も初期東宝特撮映画をよく観ており、当時の文壇仲間に宛てた書簡の中で、それらについての感想を述べている。いわば特撮「マニア」の先駆けともいえる人物だったか、と思えてならないものがある――


 なお、『ゴジラ』公開翌日の54年11月4日付『毎日新聞』夕刊に掲載された、「ちょっとスゴイ!? 放射能の怪獣『ゴジラ』(東宝)」と題した映画評では、特撮の出来に関しては概(おおむ)ね好意的に評価している一方で、本編部分に関しては以下のように記述している。



志村喬の学者以下人間の方のお話がついているがこっちはあまりうまくない。最後にナントカいう新発明の一物をもって若い学者が海底に潜っていき、ゴジラが一休みしているところにぶっつけるところなんか、やたらに決死隊みたいでかえってナンセンスである。人物はどれもセンチメンタルでミミっちく、人臭くてゴジラ氏の感じとちぐはぐだ。何となく科学的で、何となく学者らしいという程度でいいわけだが、その程度の人間を出すのにも日ごろの教養ということになりそうだ。この点外国製はやはりもっともらしい。(O)」



 これは80年代にウルトラシリーズの同人『ペガッサ・シティ』でご活躍されていた籾山幸士(もみやま・こうじ)氏が、82年11月25日に発行した同人誌『特撮資料再録集』に掲載されていたものである。
 同じく籾山氏の同人誌『東宝特撮映画新聞広告集』(発行日不詳)には、出典未記入だが(54年11月3日付『朝日新聞』夕刊)、「新映画」なるコラムにおいて、「企画だけの面白さ 『ゴジラ』(東宝)」と題し、以下のように論評した記事が掲載されている。



「とくに、ゴジラという怪獣が余り活躍せず、「性格」といったものがないのがおもしろさを弱めた。『キング・コング』(33年・アメリカ)の時代と比べても、なんとかなりそうなものであったし、『放射能X(エックス)』(53年・アメリカ)のアリのような強烈さに及ぶべくもない。ただ、企画だけのおもしろさはあり、一般受けはするだろう。宝田明(たからだ・あきら)と河内桃子の二人の青年と娘の恋愛が、なにか本筋から浮いているが、これは構成上の失敗だった」



 これらを見るかぎり、当時の『ゴジラ』に対するマスコミの評価は、先に挙げた田中の「ゲテもの扱いされた」という証言とは、若干(じゃっかん)ニュアンスが異なるような印象がうかがえる。怪獣=ゲテもの=くだらない、などという分析やロジックはなしにレッテルを貼るだけの最初から見くだした紋切り型では決してなかったのである。


 むしろ、ゴジラの登場場面の少なさや、そのキャラクター性の弱さ、いささかセンチメンタルな本編演出など、『ゴジラ』を「特撮映画」として観た場合に、不満が残る点について、あまりに「的確」に指摘されていたのではないのかと、現在の視点からしても思えるほどなのである。


1950~60年代 ~各界の批評家が語った傾聴すべきプレ特撮評論


 実際「新映画」では『ゴジラ』を酷評する一方、映画『空の大怪獣ラドン』(56年・東宝)については「迫力もあり面白い」と題し、以下のように絶賛している。



「『ゴジラ』と同じような設定なのだが、今度の方が大分(だいぶ)迫力があり技術の進歩が見られる。話にこだわらないで見ていると、相当におもしろい。特殊技術の撮影に心魂を打ち込んでいる円谷英二つぶらや・えいじ)の努力を認めたい。九州北部の大都市が、ラドンの飛ぶ勢いで、メチャメチャに破壊されるところは、特に見ものだ。自動車や電車がオモチャのように(実際にもオモチャを撮影したのだが)飛ぶところは、理屈抜きに痛快でおもしろい。本ものの部分とトリックの部分の見わけも、なかなかつきにくいところもある。三、四年前はアメリカの空想映画と比べて、はるかに劣っていた日本映画も、この作品あたりではかなりのところまで来た。色の調子も悪くない」



 「ゲテもの扱い」どころか、まさに「『特撮』評論」とはこうあるべき! と、現在でも立派に通用する視点をもって書かれた「名文」であるように筆者には思えるのだが。


 実は『ラドン』については、飛んで70年代前半には映画雑誌『キネマ旬報(じゅんぽう)』(キネマ旬報社)で、今で云うジャンル系映画のレビューを一手に引き受けていた感のある映画評論家の故・石上三登志(いしがみ・みつとし)も、『キネマ旬報1973年11月20日増刊 日本映画作品全集』(キネマ旬報社・73年11月20日発行・ASIN:B00LWS6OEU)で「わが国のSF映画中、ベスト・ワンにおくべき秀作」として、以下のように高く評価している。



ラドン登場に至るまでの様々な伏線がサスペンスを盛り上げ、演出・本多猪四郎としては最良の出来である。さらにクライマックスは、終始ロング・ショットでとらえ、大スペクタクルの中に、見事な悲壮美さえ描き出しており、これは特撮担当の円谷英二の功績だろう。ここには、怪獣映画を単なる子供だましとは考えず、少なくとも怪獣そのものに“生命”を与えようとする、本来のドラマ作りがあった」



――さらに後年のことだが、年末の復活『ゴジラ』公開が迫る84年夏にも、



「数年前(ゴジラ復活と騒がれ出す前)までは東宝特撮、怪獣映画の中では「ラドン」が最高傑作だというのが最も一般的な意見で、私も「ラドン」を最高傑作だと固く思っていた(今でもそう思っている)一人です。ところが最近は、皆が口を揃えて「ゴジラ」が最高傑作で、後の作品はどれも「ゴジラ」を超えてはいないなどと言うではありませんか」



といった意見が『宇宙船』Vol.19(84年8月号)の読者投稿欄にも掲載されている――



 その一方、封切当時の『キネマ旬報』57年1月下旬号(№167)(ASIN:B01L5OBUNA)で文芸評論家の故・荒正人(あら・まさひと)は、



「空想科学映画の本質は、スペクタクル映画を越えて、文明批判を行う点にあるのではないか。その点で、『ラドン』は反省の余地を残している」



と書いており、マニア第1世代よりも上の世代も、決して一枚岩ではなかったことがうかがえよう。


 さらに『キネマ旬報』61年9月上旬号(№293)では映画『モスラ』(61年・東宝)について、哲学科の大学教員(のちに教授)でもあった故・福田定良が以下のように好意的な評価をしている。



「今度の作品は全体の感じが何となく童話的なので、わざとらしく見えるところも御愛嬌(ごあいきょう)になっている場合がある。子供たちが適当にこわがったり、げらげら笑ったりしていたところを見ると、おとぎ話的スタイルはこの作品にふさわしいとも言えそうである」



 筆者はこの『モスラ』を契機に、東宝特撮映画が当時の東宝のキャッチフレーズであった「明るく楽しい東宝映画」へと、文字通りに変貌(へんぼう)を遂げていった、との印象を強く感じている。子供が「適当に」こわがり、「笑って」観ていられるという、「怪獣ファンタジー」の路線すらも、当時の『キネマ旬報』では、すでに肯定(こうてい)する声が見られたのである。


1960~70年代 ~黎明期のSF陣営が否定した怪獣映画


 だが、50~60年代においては、やはりそうした声は少数派だったようである。



「怪獣があばれまわっているぶんにはこの種の作品として結構たのしめるのであるが、困ったことに脚本家と監督者はいとも現実的なみみっちい場面をもちこみ、小市民映画みたいなぼそぼそとした演出をえんえんとはさみ、なんだか深刻な理屈まで加えて普通の劇映画も及ばぬくらい人物を懊悩(おうのう)させる。
 そのために全体がひどくちぐはぐになり、空想を空想としてたのしめず、うす暗いいやな後味がのこる。もちろんこの怪獣によって水爆時代に対するレジスタンスをこころみようという意図があったにちがいない。が、それはいささか欲張りすぎだし失敗である」



 『キネマ旬報』54年12月上旬号(№106)で、SF・ホラー映画も批評してきた映画評論家の故・双葉十三郎(ふたば・じゅうざぶろう)によって書かれた『ゴジラ』第1作に対する批評である。『毎日新聞』や「新映画」と論旨は同じであり、『ゴジラの逆襲』(55年・東宝)の娯楽性の方を高く評価した氏は、それはそれで筋が通っている――マニア第1世代の故・竹内博は「双葉十三郎に至っては論外で、大伴昌司の爪の垢でも飲むがよい」と『円谷英二の映像世界』(実業之日本社・83年12月10日発行・ASIN:B000J79QN6→01年に増補版・ISBN:4408394742)で猛反発していたが――。


 70年代から現在に至るまでの特撮論壇において、『ゴジラ』第1作を最も『ゴジラ』たらしめているとされている要素、つまり怪獣映画を単なる「ゲテもの」にさせないために付加された部分が、公開当時は完全に「否定」されていたのである!


 だが、だからといって、テーマ性よりもエンターテイメント性を追求するようになったその後の東宝怪獣映画が「肯定」されるようになったかと思えば、決してそういうワケでもないのである。


 明治・大正・昭和初年代の戦前生まれの評論家がまだ多数を占めていた当時の『キネマ旬報』で、70年前後からは「SF」ジャンルに思い入れる世代の評論家が台頭してくる。



「怪獣映画は本来はSF映画の一テーマにすぎないのだが、わが国では独立して論じてもよいほどの特異な存在となる」



と、「前世代」の「SF」プロパーに属する石上(昭和10年代生まれ)が定義したように、「怪獣映画」は「SF映画」よりも一段低いものとする論調が登場したのである。


 「SF」も当時の日本においては新興のジャンルであり、まだ「市民権」を得ていなかった「SF映画」というジャンルを日本に成立させようという使命感にかられて、彼らも伝道活動にいそしんでいたのであろう。だが、「SF」プロパーの「前世代」の人々は、『ゴジラ』第1作にかぎらず「怪獣映画」の存在そのものを、「SF」というモノサシだけで図(はか)って「否定」的に捉えて斬り捨てようとしていたのである。



「63年の『キングコング対ゴジラ』――引用者註:62年の誤りである(笑)――あたりから、この種の作品は“人間不在”の巨獣トーナメント的傾向をたどりはじめ、次第に年少者のみを対象とし、“怪獣映画”なる名称を定着。以後それは他社に飛び火し、大映の『大怪獣ガメラ』(65年)、東映の『怪竜大決戦』(66年)、松竹の『宇宙大怪獣ギララ』(67年)、日活の『大巨獣ガッパ』(67年)が誕生。これらはすべて、66年の『ウルトラQ』を出発点とする、テレビ用怪獣映画に吸収され、いわゆる“怪獣ブーム”となった。
 わが国の怪獣映画の幼児化現象の最大の要因は、怪獣創造のほとんどすべてを“ぬいぐるみ”方式にたよったことにあり、これは欧米の“アニメーション”方式とは決定的に異なる。いいかえれば、わが国の怪獣は、あくまでも中に“人間が入る”スタイルなのであり、そこにすでにイマジネーションの基本的飛躍が見られないのである。これは、わが国に本格的SF映画の生まれない理由でもある」



 先に挙げた73年発行の『日本映画作品全集』において、当時30代の石上は「怪獣対決」路線へとシフトしていった、わが国の怪獣映画を、日本で本格的なSF映画が生まれない「元凶」であるとして切り捨てている。


 実は石上は『ラドン』とともに、映画『大怪獣バラン』(58年・東宝)を、



東宝怪獣映画中、徹底した攻防戦だけで構成された作品であり、小品ながら大いに評価すべきもの」



として高く評価している――これ自体には筆者も強く賛同する! 実は筆者は隠れ『バラン』ファンであり、個人的には『ゴジラ』第1作よりも面白いと思える!――。


 だが、『ラドン』も『バラン』も、ひょっとしたら、着ぐるみ以外に飛行タイプの造形物が多く活躍していたことが、石上に評価を高くさせる一因になったのではないか、とさえ思えてしまうほどである。



 ミニチュア特撮が衰退し、CG全盛となったわが国において、平成仮面ライダースーパー戦隊の劇場版で、巨大モンスターが「アニメーション方式」で暴れるようになってから久しい。だが、いまだ日本に本格的な「SF」実写映画が生まれていない現状からすれば、その理由となるものが、決して怪獣映画の「ぬいぐるみ方式」にあったのではなかった、という事実は、もはや明白であるだろう。



「この(怪獣)ブームの重要なことは、おとながいままでは、「なんだ、怪獣なんて」ということがあった。ひいてはそれがSFが、普及しないことにもつながっていた。それは一種の習慣だと思うのです。ああいうものもある、おもしろいと。それに慣れてきたのは、たいへんいいことだと思います。これで、SFものを次に出してもばかにしないでしょう」



 これは『世界怪物怪獣大全集』(キネマ旬報社・67年5月15日発行・ISBN:4873761913)において、第1次怪獣ブーム時に講談社少年マガジン』巻頭グラビアの怪獣特集や、数々の怪獣図鑑を執筆したことで知られる故・大伴昌司(おおとも・しょうじ)が述べた言葉である。怪獣映画の存在が日本で本格的「SF」が普及しない元凶である、としていた石上に対し、石上と同世代でもあった大伴はまったく逆の立場であり、むしろ怪獣映画のブームを契機に、世間一般に「SF」を普及推進させようという狙いがあったのだ。



 だが、第1次怪獣ブームも終焉(しゅうえん)を遂げて久しかった、69年11月20日にキネマ旬報社が発行した『キネマ旬報臨時増刊 世界SF映画大鑑』(ASIN:B07PX8QJX4)において大伴は、



ゴジラが現れるまでの不安な状態や、異常なパニックの描写が優れ、特撮シーンと本編(劇の部分)との調子が分裂せずに融和している唯一の作品である」



として、『ゴジラ』第1作を高く評価したのだ。ここでマニア第1世代が継承し、人口(じんこう)に膾炙(かいしゃ)した「本編と特撮の一体化」理論が誕生したのでもあった!――この理論が本当に特撮ジャンルの無謬(むびゅう)の尺度・目標であったのかの疑義については、本稿全体で検証し、結論も提示するつもりだ――



 しかし一方、掲載された「SF映画ガイド」の中では、



「国産の宇宙怪獣映画は、そのほとんどがSFとは認められないので除外した」



と、「SF」の普及推進につながるのならと、67年の『世界怪物怪獣大全集』では擁護(ようご)していた怪獣映画を切り捨ててしまっていたのである。



「どうかみなさんがおとなになっても、たくさんの人たちの心のなかから生まれたすばらしい怪獣たちを忘れないでください」

小学館入門百科シリーズ18『怪獣図解入門』(小学館・72年7月10日発行・ISBN:4092200188・ISBN0:4092203349)大伴昌司「あとがき」



 小学館入門百科シリーズ15『ウルトラ怪獣入門』(小学館・71年9月10日発行・ISBN:4092200153)と並ぶ怪獣図鑑の「名著」を、第2次怪獣ブームのころにも手がけていた大伴が、それ以前に先のような見解から、「怪獣映画」を「SF映画」から切り捨てていた。
 「SF性」とは異なり、自身の「幼児性」から来る「ヒーロー」や「怪獣」への理屈抜きの好意や執着を、この時代の特撮ジャンルに関わる人々はまだうまく言説化することができなかったのだろうなと思いつつも、やはり心の底から「怪獣」を好きだったわけではなく、あくまで方便として「怪獣」を擁護していたのかもしれないと、個人的にはかなり複雑な想いも残る。
――「怪獣映画」や「特撮映画」を、「SF映画」のサブカテゴリーだと捉えて心のどこかで卑屈になる必要はさらさらなく、自立した別個のジャンルであると自信を持って云い切れる現在の筆者ではあるものの――


 第1次怪獣ブームが衰退した68年に公開された映画『2001年宇宙の旅』を機に、当時のマスメディアは「SFブーム」を起こそうとしたが不発に終わり、子供たちの間では「妖怪もの」や「スポーツ根性もの」が人気を得るようになった。結局は「怪獣ブーム」が「SFブーム」を誘発することはなく、むしろそれとはあまりに相反する「土着的」なものや「肉体的」なものがブームとなってしまったのだが、そうした背景もまた、大伴を「心変わり」させる一因となったのではなかろうか? 60年代最後の年の末に至るまでの時点では、東宝特撮映画はまだ「神格視」されてはいなかったのである。



――後日編註:ビッグネームファン上がりの日本の古典SF研究家として高名な故・横田順彌(よこた・じゅんや)。2019年1月4日の逝去後に氏が残された資料を整理していた際に、1960年代前中盤の読書メモや映画鑑賞メモが記されたノートが数冊発見されたそうである。これがそのままスキャンされて、2019年末の冬コミコミックマーケット97)3日目の評論ジャンルにて同人誌『ヨコジュンの読書ノート 附:映画鑑賞ノート』(2019年12月30日発行)として刊行されている。氏はSFに限定せず今で云う隣接ジャンルのジャンル系映画も旺盛に鑑賞されておられるが、『ゴジラ』初作をはじめとした初期東宝特撮映画についても、後世の特撮マニア諸氏とは異なる見解が述べられており、オタク第1世代以前の第0世代とでもいうべき往時のSF人がどのように初期東宝特撮を見ていたのか、実に興味深いのでここで採録をさせていただきたい。



「1965年8月29日。『ゴジラ』。SF大会での記念映画。当時は実にすごいと思ったが(編註:氏は終戦の年の昭和20(1945)年生まれなので当時9歳)今見ると最近の東宝ものとちっとも変っていないくだらない映画だ」
「1966年12月30日。『地球防衛軍』(TV)(東宝) 今から10年前(編註:1957年)の日本本格SF映画である。その当時非常に感激して見た事を憶えていたので期待していたが残念ながら現在見るとやはり出来はそれほど良くない。但し東宝はこの後本格SFを1本しか作っていない事を考えて見ると貴重な作品であると云う事が出来るかも知れない」
「1966年12月31日。『ゴジラの逆襲』(TV)(東宝) 続々と東宝の旧作がTVに放映されはじめた。この『ゴジラの逆襲』はゴジラ物の最高傑作ではなかろうか。今の東宝ものよりははるかに良い出来の作品である。それにしてもこの様な旧作をTVで見られるのはうれしい事である」
「1966年12月31日。『空の大怪獣ラドン』(TV)(東宝) これまた旧東宝作品であるがこれは傑作である。全東宝SF物の中でも1・2位にランクされるものであろう。概して旧作品がおもしろいのはやはり原作がしっかりしているからであろうか。東宝よ!! 昔に返れ!!」
「1967年1月6日。『宇宙大戦争』(TV)(東宝) 同じく東宝物である。そしてこれは怪獣の登場しない唯一のSFである。見た当時は何かもの足りなく思ったが今度TVで見た結果かなりの傑作であるような気がする」
「1967年2月26日。『ゴジラ』(TV)(東宝) 余りにも有名な古典(?)である。この映画は単なるSFではなく原爆禁止に対する思想があると云うが僕には何もない様に思えた」



 「原作」が字義通りの「原作」ではなく、今で云う「メディアミックス」や「ノベライズ」であることを理解されていないことは、情報露出不足の時代ゆえに仕方がないけれども、往時はマニア気質のある人間でも真面目に「原作」だと受け取っていた貴重な記録たりえている。その他、『大怪獣ガメラ』(65年)、『大魔神逆襲』『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』『黄金バット』『怪竜大決戦』(いずれも66年)、『大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオス』(67年)をいずれも封切日やその翌日に鑑賞されていて、律儀にも感想をメモにも記されており、頭が下がる思いだ。機会があればコミケなどにて購入後にご一読されたし――


1970年代 ~オタク第1世代によるゴジラ東宝特撮の神格化


 だが、70年代になると、手塚治虫(てづか・おさむ)の漫画やアメコミヒーロー、海外SFで育ち、『ゴジラ』第1作に中学生で触れた昭和10年代中盤生まれの小野耕世らが台頭するや、『ゴジラ』第1作を「傑作」として神聖視するようになる。
――小野耕世(おの・こうせい)。映画&漫画評論家、海外コミックの翻訳家として知られる。なんと、元NHKの職員であり、在職当時から早川書房の『SFマガジン』に「SFコミックスの世界」を連載、海外漫画作品の紹介に力を注いでいた。だが73年、ミュージシャンの矢沢永吉(やざわ・えいきち)が所属していたロックバンド・キャロルのドキュメンタリー映画を、ATGで製作したことがバレてNHKを解雇され、それ以降映画やアメコミの評論家になったという、異色の経歴の持ち主である――



「そう、この映画――『日本沈没』(73年・東宝)――が少しも恐くないのは、急速な経済成長をとげた〈豊かな国・日本〉の壊滅を描いているからなのだろう。思えば、「ゴジラ」には、当時の日本人の飢餓感が反映されていて、映画を鮮烈なものにしていたのだ。私は「ゴジラ」を見ながら恐怖に恍惚(こうこつ)となって震えていたことを思いだす。再び日本人が飢餓意識にとらわれる時が来るとするならば、SF映画はあの「ゴジラ」の輝かしい緊迫感を取りもどすだろうか」

(『キネマ旬報』74年2月上旬決算特別号(№624)(キネマ旬報社))



 「恐怖」をキーに、ここで『ゴジラ』第1作を称賛するための論法「怪獣恐怖論」も誕生したのだ!



 ただし、当時すでに30代である氏も後続の東宝特撮映画にはやはり否定的であり、『キネマ旬報』では映画『惑星大戦争』(77年・東宝)を以下のように酷評している。



「それは、よく見れば、『スター・ウォーズ』(77年・アメリカ)も、かなり荒っぽい映画なのだが、ぐいぐいと観客をひっぱっていくテンポと熱気はすばらしい。なによりも、全編にユーモアがゆたかである。その点、『惑星大戦争』は、いやになるほどユーモアがなく、またしても、特攻隊的悲壮感の押し売りには、うんざりしてしまう。こうした映画で人間を描かなくては――などという情けないことは、どうか考えないでくださいね」

(『キネマ旬報』78年2月上旬号(№727)・ASIN:B07CMF6BPX



 筆者も最後の一節にはおおいに賛同するが(笑)。


 50年代から70年代半ばにかけては、国産の特撮映画は、このように概ね酷評される傾向が強かったのである。


 だが、70年代中盤から『PUFF(ぱふ)』『怪獣倶楽部(クラブ)』(https://katoku99.hatenablog.com/entry/20170628/p1)などのアマチュア同人誌活動を展開してきた、1955~60年(昭和30~35年)前後生まれのマニア第1世代(オタク第1世代)のマニアあがりの諸氏が、70年代末期に勃興(ぼっこう)したマニア向け雑誌やムックでゴジラを語るようになるや、状況は一変する。


 同じころ、劇場版『宇宙戦艦ヤマト』(77年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20101207/p1)の公開が発端(ほったん)となった「SF」アニメブーム、『スター・ウォーズ』(77年・日本公開は78年)が起こした海外「SF」ブームに付随(ふずい)する形で、第3次怪獣ブームが巻き起こったのである。



 ただ、その当時のジャンル評論の論調は、


●石上が『ラドン』を高く評価するのに用いた、子供だましではない、大人の鑑賞に耐えるような、高い「ドラマ性」(人間ドラマ)


●荒が『ラドン』に欠けているとした、文明批判をするのが空想科学映画の本質であるとする「テーマ性」(社会派テーマ)


●大伴が『ゴジラ』第1作以外には「皆無」であると断じた、「SF性」(SF的リアリズム)


など、それまで『キネマ旬報』において、SFプロパーたちが怪獣映画を「断罪」するのに用いたフレーズを重要視し、その手法をほぼ「継承」する形をとっていたのである。



 当時、関西で活躍していた特撮ファンダム・コロッサスによる『大特撮 日本特撮映画史』(有文社・79年1月31日発行・ASIN:B000J8INIE・80年に朝日ソノラマから再刊・ASIN:B000J893VU・85年に改訂版・ISBN:4257031883)では、「“怪獣映画”ばかりが“特撮映画”ではない」とアピールするために、いわゆる怪獣やメカが活躍するキャラクターもの以外の特殊撮影を含んだ作品をも幅広く紹介し、論評が加えられていた。
 そこでは決して怪獣映画が切り捨てられていたわけではないのだが、『キネマ旬報』が怪獣映画を日本で本格的な「SF」映画が誕生しない「元凶」としたように、当時のマニアたちも、日本で本格的な「特撮」映画が誕生しない原因は「マンネリズム」に陥った怪獣映画にあり、それ以外の新たな鉱脈を見つけださねば、日本特撮の「復興」はあり得ない、と考えたのだろう。


 「前世代」によるジャンル批判に対抗するための論理として、当時まだ20代前半であったマニア第1世代は、当時の映画評論=社会批評の流儀に依拠(いきょ)することを「戦略」としていたのだ――仕方がないことだが、当時においてはそれしかお手本にする理論武装の武器がなかったこともあるのだろう――。



 彼らは日本特撮を「復興」させるためのドグマとして、


ゴジラは「恐怖」の対象であるべきだ。


ゴジラ「正義の味方」ではなく、「悪」の怪獣でなければならない。


●「怪獣プロレス」ではなく、「人間対ゴジラ」を描くべきである。


ゴジラを「反核」の象徴として描くような、文明批判・人類批判といった「テーマ」がなければならない。


といった論調で、『ゴジラ』第1作を含む「初期」東宝特撮映画を「神格化」することで、以降の怪獣対決路線や、70年代に興行された「東宝チャンピオンまつり」時代のゴジラシリーズの存在を「否定」していたのである。まるでSFプロパーたちが、怪獣映画を「SFではない」として、その存在を「否定」していたように。



「大学生になって上京した昭和50年――1975年――前後、その頃から流行し始めた特撮映画やアニメのオールナイト、あるいは自主上映会などでそれらの作品を再見し、子供の頃に観ていた以上の感動と衝撃を味わったとき、僕は自分が観てきたものが決してプロの映画評論家やSF作家たちがいうように幼稚な内容で、技術的にも稚拙(ちせつ)で、同時代のアメリカのSF映画に比べて見劣りのするものだとは、とても思えないという事実を再確認できた。そして、そうやって特撮映画やアニメを貶(おとし)めてきた大人のほうにこそ、大きな偏見があったのだということに思い至ったのだ。だから特撮系の同人誌に参加して文章を書き始め、その縁で児童雑誌の編集のアルバイトをするようになってからは、そういった間違った世間の認識を少しでも変えたい、と考えるようになった」

(『僕たちの愛した怪獣ゴジラ』(学習研究社・96年3月1日発行・ISBN:4054006574)・中島紳介



「高校生の頃に、「空想創作団」というSFファンダムに所属したんです。ところが、SFの人は活字中心なんです。怪獣なんかは見向きもされない。「おいおい、ゴジラは入らないのかよ」と思わずいいたくなってしまう。ヴィジュアルなものは全然といっていいほど、相手にされない。子供時代にそういうものを見てSFに入ってくるんだから、SF史の中で映像セクションというものがあってもいいのじゃないかと思うわけですよ。
 SFはもともと世間の偏見を笑っていた集団ですよ。その集団の中でさらに偏見があるんですからね。特撮とか、怪獣なんかは見もしないで駄目のレッテルを貼られている。ぼくなんか、それが悔しいから、何とか特撮映画を映画論として語っていきたかった。『ガス人間第1号』(60年・東宝)や『マタンゴ』(63年・東宝)、『ゴジラ』のドラマ派を重視したのはそのためだった」

(『宇宙船』VOL.83(98年冬号)(98年3月1日発行・ASIN:B007BJ0HWO)・池田憲章



 特撮映画やアニメに対する世間の偏見と戦うこと、そして、特撮映画を立派な「SF」として認めさせること。それが彼らを突き動かす原動力となったのである――後出しジャンケンで恐縮だが、それは無意識に「特撮」よりも「SF」の方を上位に見立てていたのだが――。


 そうした動機の部分では、それまでひたすら虐(しいた)げられてきたという経緯を踏まえれば、世間一般に認知させるため、ひいてはこのテのジャンルにイイ歳こいて拘泥(こうでい)する自分自身を正当化するために、当時まだ10代後半から20代前半であったオタク第1世代が、ただの娯楽作品・子供向け作品ではない! と擁護するための手段としてこれらのドグマや論法を採択したのには、同情する余地が充分にあったとは思える。


 ましてやほぼ同じころである、77年6月30日に奇想天外社から発行された『吸血鬼だらけの宇宙船 怪奇・SF映画論』(ASIN:B000J8VDFO)においてさえも、先に挙げた石上が『ゴジラ』第1作に対し、



「わが国のSF映画を、奇形のままあらぬ方向へと導いた最大の原因」


「SF映画の無限の可能性をもろくも砕き去った愚劣(ぐれつ)な存在」



などと、いまだ徹底的にコキおろしていたような時代だったのである。


 昭和30年(1955年)前後生まれの中島紳介(なかじま・しんすけ)や池田憲章(いけだ・のりあき)が『ゴジラ』第1作を「神格化」したことを手放しでは肯定できないものの、心情的には充分に理解できるというものである。


 そして彼らは、東宝特撮映画のみならず、円谷プロウルトラマンシリーズに対しても、そうした主張を展開することとなる。



「特撮映画は、特撮以上に本編の部分が重要となる。映画にとっては、まずストーリーとドラマだ。すばらしい特撮シーンも、特撮に至るまでのドラマの盛り上がりがあってこそ、はじめて生きるのである」

(『ファンタスティックコレクション No.11 SFヒーローのすばらしき世界 ウルトラセブン朝日ソノラマ 79年1月20発行・ASIN:B00CBS4ILQ



 M78星雲光の国の、「ウルトラ兄弟」3番目の戦士・ウルトラセブンが、「変身ヒーロー」や「スーパーヒーロー」ではなく、「SFヒーロー」として定義されたのは、まさに象徴的である。


 本書において、池田は『セブン』全49話の中で、


●第8話『狙われた街』
●第42話『ノンマルトの使者』
●第44話『円盤が来た』


の「SF」風味ないわゆるアンチテーゼ編の3本を「傑作」として挙げている――はるか後年の98年12月20日に発行された『ファンタスティックコレクション ウルトラセブンアルバム』(ISBN:4257035544)に再録されたこの池田の『セブン』総論では、自身の見解を改めたのか、娯楽活劇編の第39~40話『セブン暗殺計画』前後編を追加していたが――。そして、その理由を、



「SFの機能のひとつである現代の寓話(ぐうわ)になり得ている」



と述べている。


 「特撮怪獣番組」をそうした基準によって評価する価値判断は、そうした要素が著(いちじる)しく欠落しているとされた第2期ウルトラシリーズを、彼らが酷評する充分な理由となり得たのであった。


1980年代 ~ SF > 初期東宝&円谷 > 変身ブーム。カーストの再生産


 だが、第2期ウルトラシリーズは酷評されただけ、まだマシだったのかもしれない。平成仮面ライダースーパー戦隊が隆盛を極める現在からは考えられないかもしれないが、当時は東映が製作した等身大スーパーヒーロー作品なんぞ、「特撮」として認められてはおらず、論壇に登ることがあるとしたら、「お子様ランチ」の代表=「軽蔑」の対象として扱われるくらいだったのである。


 池田は若いころにSFファンダムの中で偏見に遭(あ)ったことに不満を述べていたが、当時の特撮ファンダムの中においてさえ、偏見は相似形ですでに形成されていたのであった。



「いわゆる怪獣ファンダム第一世代、ゴジララドンとともに生まれウルトラシリーズで育った世代の中にあって東映怪人番組のファンであることは偏見との戦いの連続だった。我々の年代の中では円谷怪獣番組→大人の鑑賞に耐えるSFドラマ、東映怪人番組→幼児向け単純アクションもの、といった固定観念が厳として存在し、変身ものと言えば『仮面ライダー』(71年)も『快傑ライオン丸』(72年・ピープロ フジテレビ)も『トリプルファイター』(72年・円谷プロ TBS)も十把(じっぱ)一からげに一段低いカテゴリーへ押しやられていたわけである」



 『宇宙船』Vol.6号(81年春号)に掲載された「初期東映怪人番組論」において、故・富沢雅彦(とみざわ・まさひこ)はそう述べたうえで、


●『人造人間キカイダー』(72年・東映 NET→現テレビ朝日)、および『キカイダー01(ゼロワン)』(73年・東映 NET)の「キャラクターの魅力」


●『イナズマンF(フラッシュ)』(74年・東映 NET)の「ドラマ性」


を高く評価していた。


 また、第8号(81年秋号)では、富沢はスーパー戦隊シリーズ『バトルフィーバーJ』(79年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20120130/p1)を「カッコいいヒーロー」として絶賛していたが、その富沢すらもが「昭和」の仮面ライダーシリーズに対しては、



「昭和30年代的感性で作られているからカッコ悪い」



としていたのである。


 意外にも、この時代に遂に最後まで正当に評価されずに終わったのは、現在は「日本特撮」の頂点を極める『仮面ライダー』だったのである。


 81年春にも初期13話のいわゆる旧1号ライダー編だけに焦点をあてた『Town Mook増刊 Super Visualシリーズ4 仮面ライダー』(徳間書店 81年4月25日発行)という先駆的な書籍は刊行されていたが、『ライダー』を本格的に再評価しようとする動きが出始めたのは、84年秋から東映ビデオがビデオソフトのリリースを始めたり、86年春に講談社が『テレビマガジン特別編集 仮面ライダー大全集』(86年5月3日発行・ISBN:4061784013)を発行したりという動きがあった、80年代も半ばに入ってからのことだった。


 そして、その富沢でさえも「昭和30年代的感性」と評した『仮面ライダー』は、のちに「平成時代の感性」でつくられることによって、ゴジラやウルトラに代わる「日本特撮」の「最高峰」として、現在に至るまで君臨することとなったのである。


 この当時の動きを思うにつけ、やはりマニア第1世代の「戦略」には、重大な見落としがあったのかと思える。彼らは初期東宝特撮映画や第1期ウルトラシリーズを成長してから再見することにより、「子供の頃に観ていた以上の感動と衝撃」を受けることとなった。それと同じように、「東宝チャンピオンまつり」や第2期ウルトラシリーズ東映の変身ヒーロー作品などを、成長してから再見することにより、「子供の頃に観ていた以上の感動と衝撃」を受けた世代が、いずれは社会で発言権を得られるようになるということを。


●チープ
●チャイルディッシュ
●破天荒(はてんこう)
●奇想天外


といった要素。


●ドラマやテーマ性よりも優先された娯楽性や肉体的アクション
●実は職人芸的だったストーリーテリング
●不条理コメディ……


 マニア第1世代が切り捨てて、いっさい文章化しなかったそうした魅力があればこそ、先に挙げた作品群に夢中になった人間は、いくらでも存在したハズだったのである! 案の定、マニア第1世代は90年代以降、そうした世代から「逆襲」されるハメになる。



「ただ、そのときに戦略を誤ったと思うのは、僕自身が「これは大人の鑑賞に耐え得るドラマで」というふうに、それまでの評論家と同じ論法で作品のイメージアップを図ろうとしたことだ。子供向けだから、あるいは単なる娯楽映画だから低級で、大人向けだから、芸術作品だから、社会的なテーマをもっているから高級で――などといった区別は、実はまったく無意味である。というより、前にも触れた興行成績や観客動員数による権威づけと同じで、“木を見て森を見ない”の愚を犯すだけなのだ」

(『僕たちの愛した怪獣ゴジラ』(96年)・中島紳介



 彼らの活動は、たとえばそれまでは世間一般には「子供向け」と思われていた『ウルトラセブン』にも、「大人の鑑賞に耐える」ドラマが存在することを知らしめることとなった。そうした部分では、一定の成果を上げることができたといえるであろう。


 しかしながら、実は「大人の鑑賞に耐える」ドラマもあるんだよ、くらいでとどめておけばよかったものを、それを「絶対的」に崇(あが)めてしまったことが、「諸刃(もろは)の剣」となってしまったのである。


 石上三登志は「SF」を持ち上げるあまりに、『ゴジラ』第1作を「(日本の)SF映画の無限の可能性を砕き去った」としていた。


 それと同様に、初期東宝特撮や第1期ウルトラシリーズを持ち上げるあまりに、後期ゴジラシリーズや第2期ウルトラシリーズや70年代変身ブーム(第2次怪獣ブーム)時代の作品群を「特撮映画の(SF的な方向性での)無限の可能性を砕き去った」とばかりに「否定」するというマニア第1世代がとった戦略。


 それは、


●バラエティに富んだ路線の作品
●クールなSF性は欠如していて野暮(やぼ)ったいけど高いドラマ性は達成していた作品
●あるいは、ノンテーマ、ノンドラマのナンセンスな作品、
●チープでチャイルディッシュな作風でも高いエンターテイメント性を確保している作品、


などなどの別方向での広大な可能性をも「否定」してしまうという、それこそ「特撮映画の無限の可能性を砕き去」りかねないものではなかろうか?



「怪獣をズバリ恐怖の対象として描いているところが『ゴジラ』の特徴である。日本の怪獣映画は『ゴジラ』の頃から、あくまでも“恐怖”から出発し、そしてそれが怪獣映画の本質のはずなのだ」

(『ファンタスティックコレクションスペシャル 世界怪獣大全集』(朝日ソノラマ・81年3月20日発行))



 だから「こわい怪獣映画」をつくれば、このジャンルは再び世間に受け入れられるという、現在の観点からすれば実に素朴(そぼく)な「幻想」を元に展開された、当時の「怪獣恐怖論」。『世界怪獣大全集』では初代『ウルトラマン』(66年)や『マグマ大使』(66年・ピープロ フジテレビ)に登場した怪獣たちを、



「ここでは怪獣は完全に「悪役」に回ってしまうわけだが、それでもまだ怪獣の「恐怖」は残されていた」



としている。


 怪獣に「恐怖」――人間にとっての広い意味での一種の「悪」――を求めながらも、「正義」の味方に倒される「悪役」としては描かれてはならない。


 怪獣が登場する物語を終結・着地させるためには、どうやっても「破綻」してしまうこの論理への弥縫(びほう)策として、そもそも怪獣が「ほかの怪獣」や「ヒーロー」なんぞと対決すべきではなく――怪獣に感じる「恐怖」が消滅してしまうから――、あくまでも怪獣は「人間」の勇気や英知と対決するべきである――対峙する人間側が感じる「恐怖」が一応は残せるから――、とする趣旨の主張が垣間(かいま)見える。


――だから、初期東宝特撮ファンの中には、変身ヒーローが登場する第1期ウルトラシリーズの存在さえ許せないとする特撮マニアも存在していた。だが、そんな彼らも『ウルトラQ』だけは許せたという(爆)――



 怪獣親子の「情愛」を描いた『大巨獣ガッパ』に至っては、



「怪獣というものを、何か勘違いした作品であった」



と手厳しい。


 小学生のころにテレビ放送された際、子ガッパを探しに静岡県熱海(あたみ)市の温泉街に上陸したガッパの巨大な足が、旅館の宴会場の天井をブチ破り、酔客(すいきゃく)の上に覆いかぶさるカットには、個人的には充分に「恐怖」を感じたものである。「勘違い」はアンタらやろ! と今さらツッコむのも大人げないので(笑)、これについてはのちほど、具体的な現象面を、順を追って例に挙げることにより、反論していくこととする。


1983~84年 ~『ゴジラ』復活ムーブメント


 さて、80年代も半ばになると、マニア第1世代よりも少し下の世代、第1次怪獣ブーム期に小学校高学年や中学生ではなく、幼稚園児や小学校低学年だった人々が社会で発言権を得ることとなった。ミュージシャンやイラストレーター、コピーライター、作家や漫画家、落語家、学者の卵といった文化人たちが、サブカルチャーの一種として、「ゴジラを語るのがトレンド」とばかりに、一斉に声を上げはじめたのである。


 こうした動きが、80年代当時のマニアの間で起きていた「ゴジラ復活運動」を、強く後押しすることとなったのだ。


 ロックグループ・サザンオールスターズのリーダー・桑田佳祐(くわた・けいすけ)は、著書『ただの歌詩じゃねえか、こんなもん』(新潮文庫・84年5月1日発行)において、以下のように語っている。



「数ある怪獣の中で、一番しっかりした怪獣なのね。
 完成品に近い怪獣。イイ男、なの。
 プロレスラーで一番イイ男はアントニオ猪木(いのき)。
 プロ野球で一番イイ男は長嶋茂雄(ながしま・しげお)。
 怪獣ならやっぱりゴジラ



 また、当時を象徴する出来事としては、筆者的には女性たちの間で大人気だったアイドルグループ・チェッカーズのボーカル・藤井郁弥(ふじい・ふみや)が、歌謡番組『ザ・ベストテン』(78~89年・TBS)において、「ゴジラ大好き宣言」をしたことが、鮮烈に印象に残っている。彼らの2枚目のシングル『涙のリクエスト』が、番組のランキングで5週連続1位を獲得した際(84年4月26日)にそれがなされたのである。
 曲の冒頭では『ゴジラ』第1作の名場面が流れ、間奏部分ではスタジオに用意された簡素なミニチュアセットを、藤井がメンバーの高杢禎彦――たかもく・よしひこ。のちにスーパー戦隊シリーズ星獣戦隊ギンガマン』(98年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/19981229/p1)でギンガマンたちに住み家を提供する青山晴彦(あおやま・はるひこ)役でレギュラー出演している!――らやゴジラとともに破壊する、というパフォーマンスを披露したのである!
 以来、藤井の所属事務所には連日大量のゴジラグッズがファンからのプレゼントとして届けられるようになったそうだ。これは当時の若い世代にゴジラを幅広く再認知させることとなったのであった。


 マニアの「怪獣恐怖論」ではなく、「ただの怪獣映画じゃねえか、こんなもん」といわんばかりの、こうしたパフォーマンスの方が、世間一般に対しては圧倒的に影響力が強かったようには思うのだ。


『宝島84年10月号』&『ニューウェイブ世代のゴジラ宣言』


 当時サブカル誌の中心に位置していた雑誌『宝島』84年10月号(JICC出版局→現・宝島社・ASIN:B07JBVK7DP――90年代にはいつの間にかアイドルグラビア誌へと変貌を遂げてしまったが(笑)――)でも『ゴジラ』が特集されることになった。


 ただ、この特集「ゴジラがくる!」中の「ゴジラ・カルチャークラブ」に寄せられた若手文化人たち―――当時流行した「80年代ポストモダン」・「ニューアカデミズム(現代思想)」の旗手である若手学者・中沢新一浅田彰も名を連ねている!――の声を見るかぎり、当時はいくら「サブ」ではあっても「カルチャー」=文化なのだからと、ゴジラになんらかの「象徴」としての意味を求めていた感が見受けられ、マニア向け書籍の影響を直撃した世代でもあったからか、第1作至上主義の傾向が強い。


 なお、論壇誌などで学者がマジメにジャンル作品を論じた第1号がこの中沢新一であり、『中央公論』83年12月号に掲載された「ゴジラの来迎 もうひとつの科学史」がこれに当たる――『雪片曲線論』(青土社・85年3月1日発行)に収録・ASIN:B000J6VQTO→中公文庫・88年7月9日発行・ISBN:4122015294)――。



 『ニューウェイブ世代のゴジラ宣言』(JICC出版局・85年1月1日発行・ASIN:B00SKY0MJW――「ニューウェイブ」という用語自体がモロに80年代前半である!――)に掲載された「ゴジラ映画30年史」では、まさに当時の「ゴジラ観」を象徴する文面が踊っている。



「(作家)筒井康隆(つつい・やすたか)の疑似(ぎじ)イベントSFを思わせるような、ブラック・コメディの傑作だが、これ以降の怪獣映画が「恐怖」を失った原因ともされる作品である」(『キングコング対ゴジラ』62年・東宝


「怪獣どうしが闘う場所を、広大な空き地にしてしまったのがこの映画の罪である」(『モスラ対ゴジラ』64年・東宝


――以上は、約10年前の本誌バックナンバー『仮面特攻隊2004年号』(03年12月29日発行)にて自主映画監督としても名を知られた特撮同人ライター・旗手稔が中心となった「日本特撮評論史」大特集に採録されていた図版コピーからの引用で、当の『ゴジラ宣言』の書籍自体は手許にないので記憶になるが、当時は大人気タレントのタモリによる、名古屋をバカにするネタがウケていたためか、本作についてはたしか「舞台が名古屋だからダメだ」とも書かれていたような(爆)――


「ついにゴジラにガキまでできた。もうゴジラもダメである」(『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』67年・東宝


ゴジラシリーズ最低の内容である。福田純(ふくだ・じゅん)監督にとって映画作りは、生計の手段でしかないのだろうか。その彼が、この映画ではシナリオまで書いているのだから頭が痛い」(『ゴジラ対メガロ』74年・東宝



 「怪獣恐怖論」のみならず、「怪獣映画では都市破壊が描かれねばならない」とか、「子供だましはダメ」だという、当時のマニア間での主流だった主張がここでも展開されているのだ。


 しかも、


●故・円谷英二特撮監督=「善」、中野昭慶(なかの・あきよし)特撮監督=「悪」


本多猪四郎本編監督=「善」、故・福田純本編監督=「悪」


●故・伊福部昭(いふくべ・あきら)の音楽=「善」、故・佐藤勝(さとう・まさる)の音楽=「悪」


といった、あまりに素朴で極端な「善悪二元論」により、「善」のスタッフによる作品は「善」であり、「悪」のスタッフによる作品は「悪」である(爆)などという基準が、各作品の評価にものの見事に反映されていたのであった。


――「過去の作品から映像を大量に流用している」とか、「子供が主人公である」といった理由により、それまで特撮マニアからは「駄作」扱いされていたハズの映画『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』(69年・東宝)が、本書では児童ドラマとしての出来のよさを批評的に解題して語るというよりも、「本編監督が本多猪四郎だから」というロジック(爆)によって、史上初めて「傑作」として扱われていたようにも記憶する。本書ではなかったと思うが、怪獣が1体しか登場しない作品は優れており2体、3体と数が増えていくほど劣っていくという論法などなど、むかしは色々あったよな(笑)――


 当時のマニア間では、こうした妙な尺度により、60年代後半から70年代にかけ、娯楽志向や子供向けの作風が強まり、ゴジラが悪役から正義の味方へとシフトしていった昭和の後期ゴジラシリーズは、「下等」な存在として「断罪」されていったのだ。


1984年12月 ~復活『ゴジラ』公開とその反響


 実は「ゴジラがくる!」や「ゴジラ映画30年史」の構成と文を担当したのは、現在はコラムニストや映画評論家として、マニアの一部では広く知られているであろう、当時はJICC出版局→宝島社の編集者であった町山智浩(まちやま・ともひろ)だったりする。


 ところで町山が翻訳(超訳?)を担当した、『オタク・イン・USA(ユー・エス・エー) 愛と誤解のAnime輸入史』(太田出版・06年8月9日発行・ISBN:4778310020ちくま文庫・13年7月10日発行・ISBN:448043061X)では、著者のパトリック・マシアスが、『ゴジラ』(84年・東宝)について、以下のように評している。



「うーん、確かにかったるくて意味なく重い映画で、自分勝手にシリアスで、(ヒロインを演じた)沢口靖子(さわぐち・やすこ)の聖子ちゃんカット――当時の人気アイドル・松田聖子(まつだ・せいこ)に似せた髪型――は巨大すぎる」



 この指摘、ほぼ、いや、完全に的を得ている(爆)。


 ちなみに、『オタク・イン・USA』の著者のパトリック・マシアスは、雑誌『Otaku(オタク) USA Magazine(マガジン)』の編集長である。氏は6歳のときに深作欣二(ふかさく・きんじ)監督の「SF」映画『宇宙からのメッセージ』(78年・東映)を観たのを機に、日本の特撮・アニメ・マンガにハマってしまい、今日(こんにち)に至っている。
 なお、この『宇宙からのメッセージ』は全米で程々にヒットを飛ばしたにもかかわらず、国内での興行は失敗に終わっている。国内での失敗について、先に挙げた『大特撮』では、本作が『スター・ウォーズ』のブームにあやかった「借りもの」の映像作品だからであり、「オリジナリティ」に欠けていたから、などと分析している。
 だが、それならば『スター・ウォーズ』の本場であるハズのアメリカで「パクリ」と非難されるどころか、むしろヒットしてしまった理由の説明がつかないワケであり、問題の本質はもっと別の部分に存在したのではなかろうか? なにせ同じころにヒットしていた映画『スーパーマン』(78年・アメリカ 日本公開は79年)と「語感が似ている」(爆)として輸入された『スペクトルマン』(71年・ピープロ フジテレビ)が好評を得てしまったほど、アメリカではブームにあやかった「借りもの」は立派に通用していたのだから(笑)。


 上は20代後半に達したマニアたちのゴジラ復活運動と、サブカル界で起きたムーブメントが80年代前半に渾然(こんぜん)一体となって盛り上がったことにより、遂に84年末、ゴジラは復活した。観客動員数360万人、84年度の邦画興行成績では第2位を記録するなど、興行的には立派に成功をおさめた。


 にもかかわらず、この花火を一発打ち上げただけで、せっかく巻き起こった「ゴジラ・フィーバー」――表現が古いか?(笑)――は急速に萎(しぼ)んでしまい、単なる一過性のブームに終わってしまったのである。続編は元号が「昭和」から「平成」と変わった年に公開された映画『ゴジラVSビオランテ』(89年・東宝)に至るまで、5年間も製作されることはなかったのである。


 マニアたちは「第4次怪獣ブーム」が「幻」に終わってしまったことをおおいに嘆いたものであった。「怪獣恐怖論」を忠実に反映し、「こわい」「悪役」のゴジラが描かれたハズなのに、どうしてそうなってしまったのか?


 それどころか、当時の『宇宙船』では、確かこれは特撮ライター・聖咲奇(ひじり・さき)の発言だったと思うのだが、


「少なくともこれはマニアが望んでいたゴジラではない。そのことはハッキリしていると思う」


って、オイ!(笑)


 マニアが望んでいたように、せっかく東宝が「こわい」「悪役」のゴジラをつくってくれたのに、それが「マニアが望んでいたゴジラではない」って、どういうこっちゃ?(爆)



「物書き仲間には、「ひどい作品でも褒(ほ)めないと興行的に失敗するかもしれない。そうなったら、日本から特撮の火が消える」と主張する人達もいた。しかし、僕にはとても納得出来なかった。くだらんものは、くだらんのだし、そういうジャーナリズムの無責任が特撮映画の質の低下につながったのではなかったか」

(『宇宙船』Vol.72(95年春号)(95年6月1日発行)・聖咲奇



 これは10年飛んで95年の発言だが、96年のゴジラ書籍で、自分たちのかつての「戦略」の「失敗」を潔(いさぎよ)く認めていた中島紳介とは、あまりにも対照的である。


 84年版『ゴジラ』の不評の原因は色々な要素が複合しており、「怪獣恐怖論」を作劇に採用したからダメになったのだ、などとはもちろん単純には云えない。だが、少なくとも聖は、作品を「くだらん」というレッテル貼りの一言で片づけず、せめて、「怪獣恐怖論」という「戦略」が、「万能」ではなかったことにも思いを馳せて、そこをこそデリケートに腑分(ふわ)けして分析、言説化していくべきであったと思える。それこそが、ジャーナリズムの「責任」ではなかったか?


1960~80年代 ~ゴジラ東宝特撮・イン・USA


 さて、これに関連して、先に挙げた『オタク・イン・USA』の中で、実に興味深い話が紹介されている。


 映画『フランケンシュタイン対地底怪獣(バラゴン)』(65年・東宝)、ゴジラ映画『怪獣大戦争』(65年・東宝)、映画『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』(66年・東宝)などを、東宝と共同製作したベネディクト・プロの持ち主だったヘンリー・G・サパスタインの話である。


 サパスタインは映画の放映権をテレビ局に販売する事業を展開していたのだが、1960年ごろ、テレビ局がSF映画をほしがっていることを知り、そこで目をつけたのが東宝の怪獣映画だったのである。


 ロサンゼルスにあった日系人向けの映画館で『ゴジラ』第1作――といっても、「核」に関するくだりをいっさい削除し、アメリカ人俳優のレイモンド・バーが出演する場面を追加した『Godzilla, King of the Monsters!』(56年・57年に日本公開・邦題『怪獣王ゴジラ』)の方であり、オリジナルの第1作が全米で初公開されたのは、実に初封切から50年目の2004年のことである――を試しに観たサパスタインの目に映ったのは、東京の街を破壊し、炎で焼き払うゴジラを、まるで「ヒーロー」に対するかのように、「応援」する観客たちの姿だったのである!


 「反核」の象徴どころか、少なくとも60年ごろのアメリカでは、ゴジラは「恐怖」の対象ですらなかったのである!


 サパスタインは東宝と契約を交わし、北米におけるゴジラシリーズの劇場とテレビへの配給権、さらにはマーチャンダイジング権すらも手に入れた。


――『サンダ対ガイラ』にクラブ歌手役で出演しているキップ・ハミルトンなる女優は、サパスタインの恋人だったとか(笑)。なお、本文では「彼女はガイラに食べられてしまうが」と書かれているが、これは誤り。ガイラの手に握られるものの、光を嫌うガイラに照明があてられたことにより、間一髪難を逃れているのだ。もっとも同じ誤りは往年の書籍『大特撮』も犯していたが(爆)――


 そして先に挙げた3作品を共同製作するに至るのだが、『怪獣大戦争』の際、氏は東宝に以下のようなアドバイスをしたというのである!



ゴジラを明快なヒーローにするべきだ。何かのややこしいメタファーじゃなくて。もし私の言うとおりにすれば、ゴジラは世界的ブームを巻き起こすだろう」


「古典的な勧善懲悪(かんぜんちょうあく)の話がいい。ゴジラは10ラウンドまで敵に打たれ続けるけど、最後に逆転勝利するんだ」



 『怪獣大戦争』以降のゴジラシリーズが、人類の「味方」という側面を強くしていったことを思えば、時期的にはこれはピッタリと符合する。また、映画『ゴジラ対ヘドラ』(71年・東宝)や、映画『地球攻撃命令 ゴジラガイガン』(72年・東宝)のクライマックスにおいて、公害怪獣ヘドラやサイボーグ怪獣ガイガン――かつては腹部の回転カッターが「幼児でも思いつきそうなアイデア」と酷評されていた(爆)――に大苦戦した末に勝利するゴジラの姿は、まさにサパスタインがアドバイスしたとおりなのである!


 60年代半ば当時、政府が支援をしてまで、輸出による外貨獲得のために特撮映画が盛んに製作されていたという背景を考えれば、東宝ゴジラシリーズの方向転換をしたのは、怪獣映画の観客に占める子供の比率が次第に増えていったこと、『ウルトラQ』『ウルトラマン』を筆頭とする第1次怪獣ブームも起きたからそれに合わせたということが主因であろうが、サパスタインのアドバイス東宝首脳陣たちの心の隅っこにあったからこそ背中を押したのではないか、と思えてくるのである。ゴジラが「核」のメタファー(隠喩(いんゆ))から、「勧善懲悪」のヒーローへと変貌を遂げたのは、世界的ブームを巻き起こすためであったのか!?(笑)


 マニア第1世代はそうした事情は知る由(よし)もなかったであろうが、少なくともこれによって、ゴジラの海外への販売・浸透ははるかにやりやすくなったハズである。


 もしサパスタインのアドバイスを聞かずに、どこか愛嬌もある戦う「ヒーロー」ではなく、「反核」「恐怖」としての姿だけを60年代後半以降もずっと貫いていたならば、果たしてゴジラは、世界的に知られるキャラクターに成り得ていたであろうか?


 「昭和」のゴジラシリーズが休止になって以降も、サパスタインはゴジラグッズを販売することで儲(もう)け続けたが、それらはどれもケバケバしいアメコミ調のデザインであり、本物のゴジラにはまるで似ておらず、パチモンみたいな出来であったようだ。しかしながら、84年版『ゴジラ』公開の際、サパスタインが香港のインペリアル社に作らせたゴジラ人形は、1年でなんと300万個(!)も売れたらしい。
 かつて日本でマルサン商店ブルマァクが出していた怪獣ソフビ人形も、派手な原色の整形色に蛍光(けいこう)スプレーが着色されているなど、本物とは似ても似つかない装(よそお)いだったものである。だが、玩具としては実際その方がよく売れたのだ。


 この点に関しても、とかくマニアたちは、派手な原色のケバケバしいデザインの怪獣や超獣を嫌う傾向が強く、黒や茶色などの地味な色合いの怪獣を好んだものである(笑)。だが、派手でケバケバしいコンセプトでデザインされているからこそ、平成ライダーの変身ベルトやスーパー戦隊の合体ロボの玩具はバカ売れしているワケであり、それがまさに作品の人気を不動のものにしているのである。



「私が言いたいのは、ゴジラというのは単なる映画のシリーズではないということだ。ゴジラはひとつの産業なんだよ」



 映画そのものよりも、版権商売の方が儲かるということを、サパスタインはアメリカで最も早く気づいた人物であるとされている。これまで挙げてきた彼の戦術を、日本の映像産業も学ぶべきだと思えてならないものがある。


 そのためには、作品やキャラクターを、あくまでひとつの「商品」である、と割り切る発想が必要なのだ。その数を多く、幅広く売ろうと思えば、それが「マニア」ウケではなく、「大衆」ウケすることが「必須」条件であるのは、云うまでもなかろう。「こわい」ものや、「ややこしいもの」では、販売数を増やすことはできないのである。


1990~2000年代 ~「怪獣恐怖論」の去就


 これは先に挙げた、『キネマ旬報』における61年版の元祖『モスラ』評の中にも、よいヒントが隠されているように思える。


 観客の子供たちの反応として、



「適当にこわがったり、笑ったりしていた」



とあるが、この「適当に」という点がポイントであるように筆者には思える。


 まったく「恐怖」が感じられない怪獣というのも、子供には魅力が感じられないのかもしれず――筆者的には『ゴジラの息子』で初登場したゴジラの息子=ミニラの、あからさまに人間の乳幼児の仕草を表現した、まったく「恐怖」が感じられないスーツアクターによる演技を、「絶品」だと思っているほどなのであるが――、「ある程度」こわがらせてくれる、というのが、キャラクター的にはちょうどいいのであろう。


 これがサジ加減を間違えると……



「怖いゴジラでは集客に自信がなかったのでしょう。その結果、観客動員数は前作と比べ80%も増えたのです。ただし、怖いゴジラハム太郎とでは水と油。ハム太郎目当てにやってきた園児たちが、ゴジラを観て泣き出す騒ぎが続出したため、劇場入り口には注意書きまで張られる始末です」

(『週刊文春』02年6月30日号・映画記者)



 時代が飛ぶが、70年代末期~90年代初頭の特撮論壇で隆盛を極めた「怪獣恐怖論」を、異論はあろうがわりと忠実に継承・体現したと思われる映画『ゴジラ2000 ミレニアム』(99年・東宝)が200万人、続く映画『ゴジラ×メガギラス G消滅作戦』(00年)が135万人と、90年代前中盤に大ヒットを記録した平成ゴジラシリーズ休止から4年を経て再開したミレニアムゴジラシリーズは、観客動員数の低迷を続けた。
 その救世主として、当時の子供向け人気アニメ『とっとこハム太郎』(00年)の劇場版を併映するも、「凶暴な悪役ゴジラ」を表現するため、眼球のない「白目」で造形されたゴジラが登場した映画『ゴジラモスラキングギドラ 大怪獣総攻撃』(01年・東宝)は、「怪獣恐怖論」にいまだに固執(こしつ)していた古いタイプ(失礼)の特撮マニアや、マニア向け映画誌『映画秘宝』などではカルト的な評価を得たが、先に挙げたように幼い観客からは「拒絶」されるハメになる。


 すでに少子化が顕著になっていたこの時代、『ハム太郎』を目当てにやって来た幼児たちを新たなファンとして開拓するという試み自体は、将来的な展望からすれば、うまくやれば戦略としては充分に機能するハズだったのである。だが、「こわすぎる」ゴジラは幼児たちのトラウマとなってしまい、新たなファンを開拓するどころか、ゴジラという存在を、この世代にとって「必要のないもの」にしてしまったのだ。
 2014年現在、すでに彼らも10代後半にさしかかっているハズだが、果たして00年代前半に子供であった世代の中でゴジラに思い入れが強いファン・マニアは、90年代までの子供時代にゴジラや怪獣たちに接した世代ほどには、ある程度規模のあるマス層としては存在していないのではなかろうか? 「こわい怪獣映画をつくれば世間に受け入れられる」とした「怪獣恐怖論」は、やはり「幻想」でしかなかったのである。


 その一方、平成ゴジラシリーズで「400万人」(!)という、最高の観客動員数を記録した映画『ゴジラVSモスラ』(92年・東宝)は、いわゆる怪獣の「恐怖」を描いた作品ではなかった。『キネマ旬報』で元祖『モスラ』を評するのに用いられた「おとぎ話」という作風を継承した作品だったのである。


 元祖『モスラ』では、当時の人気女性デュオだったザ・ピーナッツにインファント島の「小美人」を演じさせていた。彼女らを起用することで「歌謡映画」「アイドル映画」としての側面も持たせたことにより、集客に成功したという点は大きいと思える――ちなみに、『ゴジラVSビオランテ』と『ゴジラVSキングギドラ』(91年・東宝)の間に大森一樹監督が構想した流産企画『モスラVSバガン』でも、小美人をバブル期当時の超人気デュオ・Wink(ウインク)に演じさせる想定であったとか(笑)――。


 『ゴジラVSモスラ』でも、当時の東宝シンデレラあがりの新進女優ふたりが小美人=コスモスを演じ、「モスラの歌」を歌唱した。


 モスラが幼虫から生物感あふれる蛾(が)というよりもヌイグルミのパンダのようにモフモフした(笑)成虫へと変貌を遂げる場面では、観客の女子児童――平成ゴジラシリーズの観客層の中心は、ウルトラマンシリーズや東映特撮変身ヒーローの劇場版とは異なり、「幼児」ではなく「小学生」だった!――から「かわいい!」「きれい!」などの「感嘆(かんたん)」の声があがっていたのである!


 もちろん愛玩動物のような平成モスラの造形に対する特撮マニアの批判が当時もあるにはあった。しかしそれに対して、技術やセンスの未熟ゆえではなく、作品自体や造形のコンセプト自体がリアリズム至上ではなくマイルドでファンシーになっていることに気付いて、複雑な気持ちになりつつも、意図的に確信犯でそのように造形・演出されているのだと正しく指摘する者もいて、特撮マニア雑誌『宇宙船』の読者投稿欄などを騒がせていた。


 90年代に入ると特撮マニアも上の方は30代に達して、それより下の若い世代もすでに特撮批評の蓄積が充分ある時代ゆえにスレてきて、自己のそれまでの信念を多少は相対化できるようになったせいか、個人としてはその特撮映像クオリティに必ずしも讃嘆はできなくても、その隣で少女たちが「かわいい!」「きれい!」と称賛する声と、自身の感慨とのあまりにものギャップにアイデンティティが揺らいでいる旨の述懐が、当時の特撮雑誌『宇宙船』のライター陣による合評記事や読者投稿欄などでは散見されたものだ。


 思えば筆者が小学生の70年代中盤のころは、決してマニア気質の強い子供ばかりではなく、ゴジラガメラは当然としてギララやガッパすらも、小学生男子であれば「一般常識」としてクラスの大半の者が知っているのが当然だったのである。そして、当時の筆者たちは、ゴジラガメラ、ギララやガッパが、「こわい」から好きなのではなかったのだ。


●『ゴジラVSモスラ』で描かれた、「リアル」とは対極にある「ファンタジック」な要素
●映画『ゴジラVSキングギドラ』で描かれた、「怪獣」はもちろんだが、「未来人」に「タイムマシン」、「アンドロイド」に「メカキングギドラ」といった、「男の子」であれば「ワクワク」を感じずにはいられない「非日常的」な要素


 オタク第1世代の大勢からは蛇蝎(だかつ)のごとく嫌われた「平成ゴジラシリーズ」が、「小学生」の間に怪獣映画を幅広く認知させるのに成功したのは、まさしく筆者たちも子供のころに夢中になった「スーパーメカ」や「宇宙人」や「南海の孤島・怪獣ランド」に類するものが描かれていたからだったのだ。決して怪獣の「恐怖」なんぞではなかったのである。


 90年代後半に、ゴジラが4年も眠りについている間に登場したアニメ『ポケットモンスター』(97年~)などにマーケットを奪われてしまったのも、かつての怪獣映画には存在したそうした要素を『ポケモン』が継承しているにもかかわらず、その元祖であるハズのゴジラでそれらが描かれなくなってしまったためではないのか?


1990年代 ~平成ゴジラシリーズ時代のゴジラ観の分裂


 こうした新たな「現実」から、マニアの『ゴジラ』観にも変化が見られた。


 インターネットがなかった90年代前半、「平成ゴジラ」の商業的成功に「日本特撮の再興」を夢見た、オタク第1世代よりも下の世代の当時20代のマニアたちは、『宇宙船』やケイブンシャから92~96年に年2回、刊行されていた『ゴジラマガジン』(ASIN:B00BN0GOYC)の読者投稿欄や特撮評論系同人誌などで、「平成ゴジラシリーズ」各作の出来に一喜一憂を表明していた。


 それだけでなく、『ゴジラマガジン』の作品人気投票の読者コメント欄などで、70年代末期~80年代に望まれていたリアル&シミュレーション路線ではなく、SFやファンタジーやチャイルディッシュな方向に傾斜していく「平成ゴジラ」の作風を肯定したり、『ゴジラ』第1作の神格化に疑義を呈して相対化してみせたり、70年代の東宝チャンピオン祭り時代の昭和の後期ゴジラシリーズをも再評価・肯定するような論調も多々見られたのだ。


 しかしながら、『ゴジラVSビオランテ』『ゴジラVSキングギドラ』の監督・大森一樹(おおもり・かずき)の



「“昔はよかった”と言うのはもうよしましょうよ」



という発言が、大勢のマニアから反発を食らったように、自由奔放(ほんぽう)な作風の「ファミリー路線」として製作された「平成ゴジラシリーズ」は、いくら興行的には大成功していても、あるいは『宇宙船』に80年代末期に新たに参加した編集者――のちにアニメ・特撮の脚本家となる古怒田健志(こぬた・けんじ)と、90年代末期以降は『ハイパーホビー』誌で編集者を務める江口水基(えぐち・みずき)――や、本同人誌主宰者に本誌古参寄稿者たちをも含む(爆)『宇宙船』読者投稿欄の常連投稿者たちの一部が「平成ゴジラシリーズ」の奔放な路線を肯定して、「特撮論壇」の風潮がいっときは変わるかのように見えても、当時の特撮マニアたちの大勢にはそれは気に食わないことだったようである。


 先の中島紳介による、かつての自身らの「戦略」が誤っていたとする発言のラストで挙げた例えとは真逆になるが、当時は「視聴率」「興行成績」「玩具売上高」で作品を少しでも語ろうものなら、潔癖(けっぺき)にも「権威主義」「視聴率・商業主義こそ悪である」として罵倒されていたくらいなのである(笑)。
 「平成ゴジラ」の興行が成功したのは「大衆」への「迎合」によるものであり、それこそが「諸悪の根源」であるなどという、現在で云うところの「中二病」的な実に浮き世離れした主張がまかり通っていたくらいなのだから(爆)――特撮マニアのほとんどだれもが、特撮ジャンルの継続には興行成績・玩具の売上高なども大切だよね、ということが充分にわかっている現在とは隔世の感――。



「振り返ってみれば、VSシリーズは、マニアや熱心なファンをターゲットにはしない、ファミリー路線ということだろうか。もちろん、ドキュメント映画のような昭和のゴジラのリアルなモンタージュは、スピーディーな現代の見せ方でないかもしれない。
 昭和から平成に変わって、湾岸戦争(91年)、雲仙・普賢岳(うんぜん・ふげんだけ)災害(91年)、オウム(真理教)の地下鉄サリン事件(95年)など、信じられない光景が次々と報道されるなか、ゴジラのドキュメントのインパクトはもはやそれらに及ばない。現実の事件・事故・災害がはるかに想像力を越えていたからだ。
 そこで、子供たちを飽きさせないため、ゴジラが数分おきに登場する作劇が計算された。ゴジラ自体も生物の息吹(いぶき)をリアルに見せるのではなく、ゲームのキャラクターのように分かり易く描かれた。特に怪獣の出す光線とミニチュアの爆発は、チャンピオンまつり以上に連発された。
 スタッフとマスコミとファンとが遊離した時代……」

(『ゴジラ/見る人/創る人 ―at LOFT・PLUS・ONE トークライブ』(99年12月26日発行・ソフトガレージ・ISBN:4921068453) ヤマダ・マサミ「ゴジラという現象」



 何かのメタファーではない、わかりやすいキャラクターのゴジラが数分おきに登場し――これはオーバーだが(笑)――、派手な光線をブッ放してミニチュアを爆破させて大暴れする!
 これこそがゴジラ最大の魅力であり、それをメインで描くことで、マニアや熱心なファンではなく「小学生」を中心とする観客にウケたことこそ、「平成ゴジラ」が興行的に成功した要因であることがわかっているハズなのに、自分たちが主張してきた「恐怖」だの「リアル」だのとは相反する要素で「平成ゴジラ」が成功したことに対し、やはり当時のマニアの大半は素直に受け入れることができなかった、というところであろうか?


 ヤマダが構成・執筆を担当した、「特撮」や「SF」ですらなく「幻想映画」という斬り口で東宝映画のあまたのジャンル系作品群にアプローチした竹書房の『ゴジラ画報 ―東宝幻想映画半世紀の歩み』(93年12月9日発行・ISBN:4884752678→『GODZILLA』1998年版公開に合わせて増補『ゴジラ画報第2版』98年7月発行・ISBN:4812404088→『ゴジラ2000』公開に合わせて増補『ゴジラ画報第3版』99年発行・ISBN:4812405815)が刊行され、映画『ゴジラVSメカゴジラ』(93年・東宝)が公開された93年も押し迫ったころ、ひとりのマニア上がりの若手評論家による『ゴジラ』第1作至上主義を暴走させた書籍が物議(ぶつぎ)を醸(かも)し出すこととなった。


 それは『さらば愛しきゴジラよ』(佐藤健志(さとう・けんじ)・読売新聞社・93年11月10日発行・ISBN:4643930802)である。



「問題点を指摘する前に、著者の論旨を要約しておこう。著者は「恐ろしい脅威」として象徴的なリアリティーを持つ怪獣を


①人間社会にとって外部的(非日常的で異質)


かつ


②人間社会を襲撃し、大規模な破壊をもたらす存在


と定義したうえで、「正統的な怪獣映画」とは、そういった怪獣が「人間の正義と力によって撃退される物語」としている。


 そして歴代すべてのゴジラ作品の対立の図式を分析しながら、昭和29年の第1作では満たされていた前記の条件がいかにして崩壊していったかを論証しようとする。


(中略)


 結局、著者はゴジラを愛しながらも、自身の中で第1作しか認知することができないのである。ジレンマに苦しみそれを正当化するために以降の作品を否定し支配しようともがいているのだ。その心情は実は非常によく解る。


 なぜならそれは、84年の復活ゴジラ以前のファンダムに広く見られた感情だからだ。当時のファンダムには、第1作を至上とするファンの比率も高く、ゴジラの一般的な評価もこれからという時期だったため、ゴジラ作品は第1作たるべしという認識が支配的だった。そのため後期の作品がお子様ランチと呼ばれて必要以上に過小評価されることも多かった。第1作をリアルタイムで鑑賞した世代にとってそれは正論である。
 だが、昭和41年生まれ――1966年生まれ――の著者がこの世代の感覚を持ち得るはずがない。昭和30年代以降に生まれた世代のほとんどが愛していたのは子供のころ親しんだ対決路線、もしくはまさにお子様ランチと呼ばれる後期シリーズのゴジラだったのだ。それらの作品が無ければ、現在ゴジラがこれ程多くのファンに支持されていただろうか?
 それはいい歳をして怪獣映画などに夢中になっている自分を肯定できないいらだちの表れでもあっただろう。時代的に、ファンがまだ大人として自分の中の幼児性を客観視することに慣れていなかったが故(ゆえ)の苦しみだったのだ。
 権威主義的な映画ジャーナリズムの中で唯一正当に評価されていた昭和29年の『ゴジラ』――引用者註:先に挙げてきた1950~70年代後半までの『ゴジラ』の評価を思えば、これはやや正確さには欠ける指摘であるようにも思えるが、70年代後半以降はその評価を「不朽の名作」であるかのように盤石(ばんじゃく)にしていったのも事実だろう――を免罪符にし、後期作品をいけにえに捧げることが救済の道だった。この行為の繰り返しが『さらば愛しきゴジラよ』の正体である」

(『宇宙船』Vol.67(94年冬号)(94年3月1日発行)『「ゴジラ論」10年の呪縛(じゅばく)を解(と)く。』・古怒田健志



 80年代に怪獣映画の時代は終焉し、すでにゴジラ映画は時代の後ろ盾を失っていると結論づけ、今後のシリーズ制作を発行年に27歳になった佐藤は完全に否定。そのくせ、失礼ながらあまり出来がいいとは思えない自作の長大なシノプシスを掲載し、これをシリーズを終結させる作品として映像化したら大成功する! などと自画自賛する始末(爆)。


 佐藤は『さらば愛しきゴジラよ』を上梓した93年の前年92年にも『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』(文藝春秋・92年7月25日発行・ISBN:4163466606)を刊行。今ではともかく当時はとても珍しかった、「戦後」や「戦後民主主義」を批判・相対化もしてみせる右派的な論客の走りとして実質的なデビューを果たした。右派的な観点から、それまでのアニメや特撮の評論における常識・スタンダードを引っ繰り返していく論法はとても鋭いものがあり、見るべきものもおおいにあったと思うが、それはまた左派的なマニアの反発をおおいに買う内容のものではあった。


 とはいえ、そんな逆張りを得意とする佐藤でもまだ、『ゴジラ』第1作至上主義や第1期ウルトラシリーズ至上主義、ひいてはドラマ性やテーマ性至上主義、ハードでシリアスな作風の至上主義といった、往時主流であった原理主義的なテーゼ自体の相対化・逆張り(笑)はできていなかったようである。


 よって、特撮作品の政治思想的な内実――反核反戦や平和主義など――が「近代」や「戦後民主主義」の理念にいかに合致していたかを強く主張して擁護する手法を、佐藤が小バカにするかのごとくそれらは偽善であり欺瞞であり米軍への奴隷的依存であるとして全否定をしてみせる論法で、旧来の特撮マニアたちからの反発を買う。その逆に、『ゴジラ』第1作至上主義の呪縛から逃れ始めた一部の若い特撮マニアたちからも、佐藤は旧態依然とした守旧的な『ゴジラ』第1作至上主義であるという一点でもって反発を買ってしまう。


 つまり、真逆でもある新旧2方面の特撮マニアたちから、『さらば愛しきゴジラよ』は案の定、感情的な猛反発を食らってしまったのであった。


――かといって、後述するヤマダ・マサミのように、当時の『ゴジラ』関連の全書籍を紹介したその著作『ゴジラ博物館 ―世界初のゴジラアイテム40年史』(アスペクト社 94年11月1日発行・ISBN:4893662953)から、右派的な佐藤健志の著作いっさいをあえて除外、黙殺した行為は大いに問題だろう。そういう行為は右側からのファシズムならぬ、左側からのファシズム全体主義・言論封殺なのであって、学術的な専門用語では「スターリニズム」と呼称される批判されてしかるべき振る舞いなのであった(汗)――


 佐藤より2歳年上の1964年生まれで当時、『宇宙船』編集者であった古怒田は、


「時代遅れなのはゴジラではない。佐藤健志さん、あなたのファン意識なのだ」


と結んでいる。


 ただこの当時、マニアの世代交代やマニアの一部に急速な意識の変化が実際に起こっていたのだとしても、翌95年に公開された怪獣映画『ガメラ 大怪獣空中決戦』(95年・角川大映)が特撮マニアの間で大絶賛され、「平成ゴジラ」に対するバッシングが一斉に巻き起こったことを思えば、ファン意識が「時代遅れ」だったのは佐藤だけではなかったように思える。


 そもそも、古怒田自身が94年初頭に発表した先の論考のちょうど3年前、本同人誌主宰者が90年12月に発行した、車に乗りレーザーブレードを必殺技とし三段変身もして、「こんなの『仮面ライダー』じゃないやい!」(爆)と当時の特撮マニアたちから猛烈なバッシングにさらされた『仮面ライダーBLACK RX(ブラック・アールエックス)』(88年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20001016/p1)を肯定してみせた同人誌『太陽の子だ!』を、91年初頭の『宇宙船』の同人誌欄で紹介する中で、


「最終展開に触れずにケンカ売ろうっていうのは虫がよすぎるんじゃないのか」


などと編集者が一介の投稿者に対して「暴言」を吐いていたではないか?(笑)


 救われるべき怪魔界50億の民もろともに敵首領を滅ぼして、大物議を醸した『RX』の最終回に一切触れないで、『RX』の同人誌をつくってみせた若き日の本同人誌主宰者のセンス(暴挙?)もたしかにドーかしていたとは思うけど(爆)。


 というか、94年初頭の時点では先進的でも、少なくとも80年代末期~90年代初頭の古怒田は先の佐藤健志同様、『仮面ライダー』観にかぎらずその『ゴジラ』観についても、当時の『宇宙船』各号で手懸けた各記事での記述を読むかぎり、ファン意識の面ではまだまだ「古い」人だったはずである(苦笑)。


――この時期、「怪獣恐怖論」も、84年版『ゴジラ』の失敗を受けてか、若干の進展が見られた。「恐怖」とは「未知の脅威」に対する「一回性」のものであり、だから人類がゴジラに「初遭遇」した『ゴジラ』第1作は怖かったのだ。しかし、同じく「怪獣恐怖論」をめざした84年版『ゴジラ』はかの『ゴジラ』第1作の世界に直結する30年後の続編として描かれた。よって、ゴジラは人類にとっては「既知」の存在である。ゆえに「恐怖」が感じられなかったのだ! という論法である。その論法の当否については、読者諸兄の判断に委(ゆだ)ねたい(笑)――


1995年 ~平成ガメラ登場と平成ゴジラへの猛烈バッシング


「今や子供でも失笑する類(たぐ)いの生命感のないぬいぐるみや、金の浪費としか思えない巨大な機械人形の代わりに、『ガメラ』で我々が見るのは、本来の権威を取り戻した大怪獣の姿である。ガメラを見た時、涙が出るほどうれしかったのは、日本でもこんな作品が作れたという事実だった。僕が宇宙船創刊から10年近くかけて書き続けてきた事を、この作品はたった2時間程度で具体的に証明してくれたのだ。長い間、メインストリームであるゴジラに裏切られ続けてきた人民による、これは革命のようなものだと僕は思う」

(『宇宙船』Vol.72(95年春号)・聖咲奇



 あからさまに平成ゴジラを批判したうえで――当時は怪獣のスーツを「着ぐるみ」と称するのがすでに一般的であったにもかかわらず、あえて旧来の云い方である「ぬいぐるみ」と書いているのは、明らかに「侮蔑(ぶべつ)」の意味を含んでいる――、聖は映画『ガメラ 大怪獣空中決戦』を絶賛した。


 これは決して氏だけではなかった。平成ゴジラシリーズとは相反する、リアルでこわい『ガメラ』こそ、長年求めてきた本来の怪獣映画であるとして、マニアたちは絶大に支持する一方、それを裏切ってきた平成ゴジラを徹底的にバッシングしたのである。やはり90年代半ばの時点では、マニアの「意識改革」は、決して進んでいるとはいえなかったのだ。


 「怪獣映画はかくあるべき」と、聖が「成功例」とした『ガメラ』は、同作の樋口真嗣(ひぐち・しんじ)特撮監督がアニメ誌『ニュータイプ』の連載コラムで女性客が実は少ないと当時明かしていたように、配給収入が20億円前後――21世紀以降の興行収入基準だと40億円前後!――で推移していた平成ゴジラに対し、その半分の10億の壁を突破することができず、営業的には「大成功例」であったとはいえなかった。「怪獣恐怖論」同様、「マニアが観たいと思うものをつくれば、特撮映画は必ず復興する」などという第1世代の主張もまた、根拠のない「幻想」に終わってしまったのである。


――70年代後半から始まる「日本特撮 冬の時代」は90年代中盤まで続いて、平成ガメラの誕生をもって終了したとする意見までもがあるようだが、それはいかがなものだろうか? 平成ゴジラが大ヒットする中、平日夜のゴールデンタイムから日曜朝8時の放映枠に飛ばされて視聴率も下落していた東映メタルヒーローは、90~93年のレスキューポリスシリーズが最高視聴率15%を記録し(!)、同じく金曜夕方に飛ばされたスーパー戦隊も『鳥人戦隊ジェットマン』(91年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20110905/p1)と、当時の戦隊マニアは酷評したが高い幼児人気を誇った『恐竜戦隊ジュウレンジャー』(92年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20120220/p1)で10%を突破した。特撮マニア第1世代のお眼鏡には適(かな)わなかったか、視野の外にあっただけで、言説化はされていないけど、90年代前半にも実は平成ゴジラシリーズを筆頭に「特撮ブーム」はあったのではなかろうか?――


 これは翌96年にスタートした『ウルトラマンティガ』(96年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/19961201/p1)、『ウルトラマンダイナ』(97年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/19971215/p1)、『ウルトラマンガイア』(98年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/19981206/p1)の「平成ウルトラ三部作」にしても同じことがいえるであろう。「16年ぶりのウルトラマン」などと、世間の飢餓(きが)感を煽(あお)るような触れこみでスタートした『ティガ』は、昭和ウルトラで育った世代が親になる時代とちょうど重なったこともあり、親子二世代のヒーロー作品として、特にバンダイ製関連玩具の売り上げでは商業的にも一応の成功をおさめた。また、そのリアルでアダルトな作風は、マニアの間では圧倒的な支持を獲得したのも事実である。


 だが……



「視聴者層を未就学児童から一気に底上げしたテレビの『ガイア』の特異性は特筆ものだった。まるで深夜枠で見せるようなカルトサスペンスのノリで、ウルトラマンを通じて人間と地球の関係を探っていく一種哲学的なシリーズとなった」

(『ゴジラ/見る人/創る人』 ヤマダ・マサミ「ゴジラという現象」



 『ウルトラマン』で「カルトサスペンス」に「哲学」……(苦笑) 平成ウルトラ三部作は幼児層にも一定の人気を得たとは思うが、『ポケモン』や『遊☆戯☆王』(98年)といった、現在にまでその系譜が継続している、カプセルやカードから「モンスター」を召喚して「戦わせる」、平成ウルトラ三部作よりもはるかにチャイルディッシュな作風のアニメの方が、当時の児童間での「王者」だろう。
 その証拠として、映画『ウルトラマンティガウルトラマンダイナ 光の星の戦士たち』(98年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/19971206/p1)の配給収入は4億5千万円に留まったが、同年夏に公開された『ポケモン』映画第1作『劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲』(98年)の配給収入はその10倍近くの41億5千万円(現在の「興行収入」基準だと75億4千万円!)であったという事実を挙げておきたい。


1998~99年 ~ヤマダ・マサミのトークライブとその観客のゴジラ観。両者間に生じた亀裂


ヤマダ・マサミ「ウルトラを子供からとりあげろ! が合い言葉ですから」
開田あや「子供にはもったいないよ」


 新宿・歌舞伎(かぶき)町のロフトプラスワンで、ヤマダ・マサミが特撮映画をテーマにしたトークライブを主催するようになったのは、98年1月からのことであった。


 98年6月、平成ウルトラ三部作で異色作を連発していた川崎郷太(かわさき・きょうた)監督――ゴジラ映画『三大怪獣 地球最大の決戦』(64年・東宝)の劇中番組ではないが、「あの方(かた)はどうしているのでしょう?」(汗)――をゲストに招いて開かれた「いまどきのウルトラマン」は、濃いマニアたちよりも「女性客」の姿が目立ち、当のヤマダ自身が驚いたという。それまでには見られなかった新しいファン層を獲得し、裾野(すその)を広げたことが、平成ウルトラ三部作の功績のひとつではあった。


 だが、翌99年5月1日開催の「朝までウルトラ」でかわされたのが、先のヤマダと開田(かいだ)あや――マニア第1世代のイラストレーター・開田裕治(かいだ・ゆうじ)夫人――の会話である。新たな鉱脈を築いたのはよいが、それまでの最大の支持層だった「子供」たちから、ウルトラをとりあげたらダメだろう(笑)。この「子供からとりあげろ」発言に対しては、老舗の特撮サークル「日本特撮ファンクラブG」の当時の会報での主要メンバーによる記事でも批判的に言及されていた。



「子供にとって怪獣との出会いは通過儀礼だ。しかし大人になってこそ特撮映画は楽しめる」

(『ゴジラ/見る人/創る人』 ヤマダ・マサミ「ゴジラという現象」)



 ここには、「大人」になっても特撮映画や怪獣やアニメなどを楽しんだり執着してしまったりするのは、我々のようなアダルトチルドレンだけかもしれない、それはそれなりに優れた特性かもしれないけれど、同時にひょっとしたら何らかの人格的な欠陥かもしれない、少なくともそんな可能性があるかもしれない……などというような自己懐疑・自己相対視が微塵(みじん)も見られない(笑)――むろん、そんな「趣味」や趣味にかまけてしまう「自分」のことを、過剰なまでに卑下する必要もないけれど――。


 アラフォー(40歳前後)に達していたヤマダも開田夫人も、99年の時点においてさえ、古怒田が云っていた自分の中の「幼児性」を客観視できてはいなかったのである。


 これらのイベントに、大ヒットロボットアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』(95年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20110827/p1)で有名な庵野秀明(あんの・ひであき)監督が突如乱入して、


「『ウルトラマンタロウ』は面白いので観てください!」


と主張して去っていったという例外的な椿事(ちんじ)が、ヤマダ自身の『ホビージャパン』誌・連載コラム「リング・リンクス」でも写真付きで明かされたというような突発的な例外事項もあるにはある。


――70年代前半に放映されて長年マニア間では低評価に甘んじてきた第2期ウルトラシリーズの再評価は、特撮評論同人界ではすでに80年代には始まっていた(「特撮評論同人界での第2期ウルトラ再評価の歴史概観」:https://katoku99.hatenablog.com/entry/20031217/p1)。しかし、一般的な特撮マニア間では00年前後になってもまだまだ低評価に甘んじることが多かった、それも特にチャイルディッシュな作風であった『ウルトラマンタロウ』(73年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20071202/p1)を、よりにもよって第1期ウルトラ至上主義者の牙城であるヤマダ・マサミ主宰のイベントの場でワザワザ持ち上げてみせるとは!(笑)――


 とはいえ、一部の(大勢?)特撮マニアたちがこうした主張を00年代初頭になっても断固として貫き通して、そしてそれを作品の側でも一部採用してしまったがために、ゴジラやウルトラは子供たちから本当に「とりあげられる」こととなってしまったのである……



「平成シリーズを振り返ると大森さんが89年の『VSビオランテ』で新しいゴジラ像を作ったと思うんです。しかし、それ以降のゴジラ映画になると、どこから観てもゴジラが出てるという子供を飽きさせないためのつくりが特徴としてあって…… 大人の視点からみるとゴジラが5分おき10分おきに出るのは、子供っぽく感じるんで、僕はもう少しドラマをしっかり見せるゴジラを観たいなと思います」

(『ゴジラ/見る人/創る人』 ヤマダ・マサミ「ゴジラ復活祭・トークライブ」)



 同じ「大人」でも「コアなマニア」と「ヌルい一般層」の対極的な両者がいることを区分けできずに、当時の東宝映画プロデューサー・富山省吾(とみやま・しょうご)に、こんな主張を平気でぶつけてしまうくらいだからなぁ。


 特撮評論同人界ですら1990年前後には、「マニア向け」作劇を懐疑する視点、逆に「子供向け」「一般向け」作劇を評価するという風潮が誕生して、90年代前中盤にはもうそういった論調が主流となっていたというのに……――特撮マニア雑誌の読者投稿欄レベルだと、まだまだ「子供向け」作劇の賞揚という意見は極少だったけど(汗)――。


 スーパー戦隊や近年の平成ライダーは、冒頭からヒーローや怪人が5分おき10分おきに出てきても、ドラマもしっかりと見せることに成功、バトルの最中でも会話をさせることでドラマを継続させることにも成功しており、だからこそ長年に渡って支持を集め続けているのである。それを思えば、多少チープでラフな作風であろうと、平成ゴジラの手法は極めて正しかったということが実証されているようなものである――そういえば、ゴジラの登場が遅ければ遅いほど作品として優れているという論法もむかしはあったよな(笑)――。


 映画『ゴジラ2000 ミレニアム』の製作が正式決定したのを機に、ヤマダはロフトプラスワンで「ゴジラ復活祭」と題したトークライブを、99年に隔月で計6回開催した。平成ゴジラシリーズが公開されていたころを、「スタッフとマスコミとファンとが遊離した時代」としたヤマダが、スタッフとファンに同じ時間と空間を提供することで自由闊達(かったつ)な意見交換をさせ、ホビー誌やマニア誌の自らの連載コラムでそれをレポートするという試みは、まだインターネットが黎明(れいめい)期であった時代を思えば、たしかに画期的ではあった。



 「ゴジラ復活祭」では、会場に来たファンが富山プロデューサーに直接要望を伝えることができた。しかしその中には、ヤマダのように「ドラマが見たい」ではなく、ヤマダの意向に反して(?)、70~80年代の特撮マニアにはありえなかった、「反核」の象徴・「怪獣プロレス」批判というドグマを相対化する、以下のような意見も見られたのである。



「今度の新しいゴジラでは、ゴジラが水爆、核から生まれたことにどのくらいまでこだわるおつもりなのか。もうあまりこだわらなくてもいいんじゃないかと思ってるんですが」


「平成になってから、どうも怪獣同士の取っ組み合いが少ないような気がするのですが。例えば、ガバラを一本背負いしたり(会場笑)、キングコングに蹴りを食らわせて崖から突き落としたりですね、あれやっぱりいいんですよ。ああいうのをやってほしいなと思うんですが」


「僕はゴジラアンギラスが特に好きなんです。平成ゴジラアンギラスが復活するかと楽しみにしてたんですけど(会場笑)、無理でした。今度アンギラスが出てくるということはあるんでしょうか。取っ組み合いもあるとなるとアンギラスなど適任だと思うんですけど」



 これらは99年3月18日に開催された第1回のライブでファンから出た意見だが、この時点ではゴジラスーツアクターはまだ正式には決定してはいなかった。



「怪獣は大好きでした。ただおれはウルトラマンが好きだったんですよ。ウルトラマンになりたくて東京に出てきたんですけど、なれなかったんです。JAC(ジャパン・アクション・クラブ)はそういうのはやっていなかったし」

(『ゴジラ/見る人/創る人』 喜多川務「ゴジラは入る人を選ぶ」)



 ミレニアムゴジラシリーズでゴジラを演じることとなったのは、『バトルフィーバーJ』以来、90年代半ばくらいまでのスーパー戦隊シリーズスーツアクターを務めてきた喜多川務(きたがわ・つとむ)であった。氏は1957年生まれの第1期ウルトラ世代であることから、ウルトラマンになりたくて東京に出てきたというのは、充分にうなずけるところである。
 氏を起用したことで、ドラマ面や作風はともかく、特撮怪獣バトル演出においては、たとえば『大怪獣総攻撃』における箱根(はこね)での対バラゴン戦や、映画『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』(03年・東宝)における対メカゴジラ戦など、実に印象に残る怪獣同士の派手な取っ組み合いが描かれるようになったのは喜ばしいかぎりだ。ひょっとしたら、先の「取っ組み合いをやってほしい」なるマニアの要望が、反映された成果かもしれない!?
――かつては怪獣映画の幼稚化の根源のように批判されてきた昭和ゴジラの「怪獣プロレス」を、平成ゴジラが避けてスマートにバトルしてみせれば、今度は「光線作画の垂れ流しだ!」などと批判するように変わり身してしまう特撮マニア連中もつくづくワガママな存在ではあるが(笑)――


 『大怪獣総攻撃』に「護国聖獣」として登場したモスラキングギドラも、当初案では実はアンギラスとバラン(!)であったという。興行側からの「もっと知名度がある怪獣を」との要望により、モスラキングギドラに差し替えられてしまったのであるが――たしかに客寄せ面では賢明な判断ではあった(笑)――。


 アンギラスの復活は、映画『ゴジラ対メカゴジラ』(74年・東宝)以来、実に30年ぶり(!)のこととなった映画『ゴジラ FINAL WARS(ファイナル・ウォーズ)』(04年・東宝https://katoku99.hatenablog.com/entry/20060304/p1)まで待たねばならなかった。
 先のマニアの悲願(笑)がここでようやく達成されたのであるが、「チャンピオンまつり」世代の筆者としては、『対ガイガン』や『対メカゴジラ』にゴジラの相棒として登場したアンギラスには思い入れも強かったワケであり、たしかに再登場を強く願っていたものであった。「ピャ~オ」というかわいい鳴き声もたまらんではないか?(笑)


 好きな怪獣を出してほしいとか、怪獣同士の取っ組み合いが見たいとか、ビジュアル面の充実に対する要望が反映される分には、この「ゴジラ復活祭」なるトークライブは非常に意義深いものとなったかと個人的には思われる。


――時期はこのトークライブの数年後となるが、「怪獣プロレス」を展開した昭和の後期ゴジラシリーズを数多く演出した福田純監督が逝去された折り、朝日新聞01年1月22日の文化欄「惜別」コーナーの求めで、生前の福田が「後期ゴジラ批判」を気にしていたとの記者の言に、マニア第1世代の特撮ライター・竹内博は「でも今見ると結構面白い」とコメントしている。故人へのリップサービスも当然あろうが、氏もかつての昭和の後期ゴジラシリーズ批判の見解を改めて心変わりをしているさまも伺える一節だ――


 ただ……


2000年代 ~平成ガメラ要素のミレニアムゴジラシリーズへの投入


「これは東宝のファミリー路線とは相入れないと思うんだけど、ぼくは昔からどんなにうまくミニチュアが壊れても、死の恐怖が描かれているかどうかが凄く気になるんですよ。


(中略)


 だから『VSビオランテ』の(故・)峰岸徹(みねぎし・とおる)さんや『VSキングギドラ』の土屋嘉男(つちや・よしお)さんが死んだときは嬉しかった(笑)。でもああいう特別な人じゃなく、無辜(むこ)の民(たみ)の死を描いてほしいなというのあるんですよ。何で戦後まだ9年目の人々が、自分たちが復興した暮らしをメチャクチャにしてしまうゴジラに拍手したのかもう一度考えてみるべきだと思う。だって普通に考えれば、自分たちが殺されるわけですから」

(『ゴジラ/見る人/創る人』 切通理作(きりどおし・りさく)「ゴジラ復活祭・トークライブ」)



 『ミレニアム』のラストで阿部寛(あべ・ひろし)が死んだのも、氏にとってはきっと嬉しかったのだろうな(笑)。


 いや、こう考えていたのは、決して氏ばかりではなかったであろう。映画『ガメラ3 邪神(イリス)覚醒』(99年・角川大映)がマニアの間で評判を呼び、『ゴジラ』を平成『ガメラ』的に描くべきだ、とする声が高まりを見せていた。90年代末期から00年代初頭にかけては、まだまだ大半のマニアの意識はそうしたものであったのだ。


 いや、平成ゴジラに対する反発もあってか、再び「怪獣恐怖論」が声高に叫ばれるようになり、それを反映した、いささか過激な作品が生み出されることとなっていった。


 『ガメラ3』ではガメラと宿敵の超音波怪獣ギャオスの戦いに巻きこまれ、夜の渋谷の街にいた人々が多数犠牲になるさまが描かれていた。


 翌00年、『仮面ライダーBLACK RX』以来、久々のテレビシリーズ復活となった『仮面ライダークウガ』(00年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20001111/p1)では、敵組織グロンギが「ゲーム」と称して怪人たちが競い合って、毎回、人間を大量に殺戮(さつりく)していたのである。


●警官の眼球をえぐって殺害
●毒針を高度数千メートル上空から発射して人間を刺殺
●トラックをバックで走らせて人間を次々とひき殺す
●バイクからひきずり降ろした人間をひき殺す
●地下街に閉じこめた人々を大量撲殺(ぼくさつ)
●東京23区をあいうえお順に各区9人づつ襲い、5時間で126人を殺害


 いま思えば、「日曜朝」に、よくこんなことをやっていたよなぁ(爆)。


 そして翌01年、平成『ガメラ』シリーズでマニアから絶大な支持を集めた金子修介(かねこ・しゅうすけ)を監督に迎えた『大怪獣総攻撃』では、怪獣たちがガメラ・ギャオス・グロンギのように、大量に人間を殺戮するさまが描かれた。バラゴンが暴走族を、モスラが遊び人の大学生たちを、ゴジラが箱根の観光客を、といった具合に、私的快楽至上主義に走る、いわば「リア充」――オタ趣味やネットではなく、リアル=現実の生活が充実している人間――たちが徹底的にターゲットにされて殺されていった。


 しかも、この際のゴジラには「太平洋戦争の犠牲者」の怨念という、妙な属性までが背負わされていたのである。また、金子監督の意向を受け、品田冬樹(しなだ・ふゆき)が造形したゴジラの目には、「黒目」の眼球が存在せず「白目」だけとなった。これにより、生物・動物である以上はゴジラにも最低限は存在するであろう「感情」もまったく見えなくなり、観客の「感情移入」も拒絶されることで、ゴジラは徹底的な「悪役」を演じることができたのである。
 案の定、『大怪獣総攻撃』はミレニアムゴジラシリーズ中、マニアの間ではカルト的な高い人気を獲得することとなった――もちろん一部では、「これは中二病的なやりすぎの作劇であり、ここまでやると幼児や子供層をゴジラ映画からムダに排除してしまう」と批判する意見もあったことは付言しておく――。


 だが、ここで描かれたゴジラは、正直『ウルトラマンレオ』(74年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20090405/p1)初期に登場した、「通り魔」星人たちと、やってることはほとんど変わりがないように思える。「スーパーヒーロー」としてのゴジラよりも、マニアたちは「通り魔」としてのゴジラを観たかったのであろうか? だが、少なくとも子供たちは、「感情移入」もできないような、「通り魔」としてのゴジラなんぞ、好きになるわけがなかったのである。


 『大怪獣総攻撃』・映画『ゴジラ×メカゴジラ』(02年・東宝)・『東京SOS』を上映した劇場では、『ハム太郎』を観終わった親子連れが『ゴジラ』を観ずに、観ても人々がゴジラに無下に蹴散らされて死んでいく冒頭の残酷シーンだけで子供の情操に悪いと思ったのかワラワラと足早に退場し、観客が半減してしまう現象が数多く見受けられた。そして、それを見越したマニアたちの多くは、『ハム太郎』を観ずに、『ゴジラ』の回から入場していたのである。


 これでは併映どころか、完全に「入れ替え制」である(爆)。それはそうだろう。『大怪獣総攻撃』を、「今回のゴジラはとてもこわいのでご注意下さい」などと、興行側の方から観客に注意喚起(かんき)を促したのだから、以降の『ゴジラ』を親子連れが警戒するようになったのは必然であった。


 『クウガ』の時点では怪人の「怪奇」「恐怖」が強調されていた平成ライダーではあるが、近年の作品ではそうした要素は薄れ、あくまで主役のライダーの活躍の方に重点を置き、明朗・軽快なバトル面を充実させる方向にシフトしてきている印象が感じられる。もしも『クウガ』のような「怪人恐怖論」がその後も継続していたならば、現在まで平成ライダーの人気は果たして持続していたであろうか?


 また、スーパー戦隊の近年の傾向としては、怪人の「怪奇」「恐怖」が描かれることは、ほぼ皆無といってよい。『獣電戦隊キョウリュウジャー』(13年)では、もう見た目からしてギャグ系の奴ばかりだったが、『烈車(れっしゃ)戦隊トッキュウジャー』(14年)では、敵組織シャドウが貴族として描かれているからか、見た目は結構スマートでカッコいいデザインなのに、やっていることはギャグという(笑)、新たな怪人の鉱脈の例が散見されるのである。


 そもそも元祖である『秘密戦隊ゴレンジャー』(75年)からして、機関車仮面・野球仮面・牛靴仮面といったギャグ系怪人が児童間で大きな話題となったことが、放映が2年にもわたるロングランとなった遠因であるように思われるのである。もっとも、放映中に小学4年生に進級した筆者的には、そのギャグ系怪人の登場こそが幼稚に思えて、『ゴレンジャー』を「卒業」する原因になってしまったのだが。「怪獣恐怖論」と同様にこのへんのサジ加減もむずかしい(笑)。


 とはいえ、「怪人恐怖論」を廃しても、変身ヒーロー作品が立派に成立することを、スーパー戦隊は「40年」にも渡って証明し続けているのである! 「怪獣恐怖論」に改めて固執し続けたからこそ、ミレニアムゴジラは低迷を続けた末に、シリーズの打ち切りを招いてしまったのではなかろうか?


ミレニアムゴジラシリーズが連続性・大河ドラマ性を放棄したことの成否


 そして、ミレニアムゴジラシリーズが興行的に低迷した理由がもうひとつある。



「“平成ゴジラ”以降は1作1作が完全な続編になってますよね。たとえば“84ゴジラ”のときのゴジラ細胞を奪い合うとか(中略)、アニメのシリーズ設定のようになってしまって。(中略)完全に世界が続いているのでなく、ゆるい縛りで作ってくれるといいな、という願望があるんです」

(『ゴジラ/見る人/創る人』 切通理作ゴジラ復活祭・トークライブ」)



 切通の願望を実現させたミレニアムシリーズでは、毎回世界観がリセットされてしまい、1作1作が独立した作品となってしまっていた。かろうじて『東京SOS』が、前作『×メカゴジラ』の続編として描かれたのみである。そのくせ毎回『ゴジラ』第1作の続きであることだけは語られており、それ以外のゴジラの物語は、全て「なかったこと」にされていたのである。
――ただし『×メカゴジラ』『東京SOS』では、かつてモスラフランケンシュタインの怪獣ガイラなどの巨大生物に日本が脅(おびや)かされていたことが語られており、特に後者には『モスラ』に登場した言語学者・中條信一(ちゅうじょう・しんいち)を、小泉博(こいずみ・ひろし)が42年ぶりに演じることで、世界観をつなげることに成功していた――


 平成に入ってからのウルトラシリーズもそうであったが、これでは同一世界観の長期シリーズを歴史系譜的に追い続ける楽しみを奪われてしまうのである。それこそが『ゴジラ』と『ウルトラ』の商品的価値が凋落(ちょうらく)した原因のひとつであると思える。
 アメリカでは日本のミレニアムゴジラシリーズや平成ウルトラシリーズとは真逆で、むしろアメコミ(アメリカン・コミックス)原作の超人ヒーロー、アイアンマンや超人ハルクに雷神ソーやキャプテンアメリカらがそれぞれの主演シリーズ映画を持ちながらも、同一の作品世界を舞台としてシリーズを継続させる手法を2008年から継続させており、巨悪に対しては超人ヒーローたちが全員集合して立ち向かう映画『アベンジャーズ』(12年)を商業的にも大ヒットさせて、今もなおシリーズを継続中である。
 そもそも超人ヒーローたちを作品の壁を超えて共演させる『アベンジャーズ』の原作マンガは、今から50年以上も前の1963年に端を発する由緒もある企画なのだ。日本でも『ゴジラ』『ラドン』『モスラ』といった単独で主役を張っていた怪獣たちが『三大怪獣 地球最大の決戦』(64年)では共演したり、遂には東宝特撮映画に登場した怪獣たちが大挙して登場する『怪獣総進撃』(68年)といった映画が1960年代にはつくられていたのだ。初代『ウルトラマン』と『ウルトラセブン』の世界観はつながっていなかったが、『帰ってきたウルトラマン』にウルトラセブンをゲスト出演させたことで、それまでのウルトラシリーズが同一世界での出来事となったような処置も1970年代初頭には施(ほど)されてきたのだ。
 昭和のゴジラシリーズを始めとする初期東宝怪獣映画や昭和のウルトラシリーズこそが、『アベンジャーズ』と同じようなクロスオーバー作劇に奇しくも独力で到達していたのだから、21世紀の今日こそゴジラシリーズやウルトラシリーズも改めてアメコミ洋画を見習うべきではなかっただろうか!?


 「平成ライダー」や「スーパー戦隊」の新旧ヒーローが共演する劇場版では、旧作テレビシリーズや前作の映画の設定・セリフ・描写を受けた演出が毎回のように描かれている。旧作を知らない観客にもストーリーの理解に支障が生じない範囲での、こうした適度にマニアックな点描(てんびょう)としての連続性にはニヤリとさせられるし、シリーズを追い続けることの動機付けのひとつにもなっている。だからこそこの少子化の時代に少しでも子供たちの卒業を遅延させたり、移り気な女性ファンたちにも数年に渡って支持されることができている。にもかかわらず、「ゴジラ」と「ウルトラ」はそれを放棄(ほうき)したことにより、人気と関心を長期に渡って確保しにくくなっている面もあると思う。


 「怪獣恐怖論」の今さらの過度な強調と「連続性」の放棄により、ミニレアムゴジラシリーズは平成ゴジラシリーズよりもアダルトな作風で作劇上の隙(すき)や粗(あら)もはるかに少なかったハズなのに、シリーズをまたいで次作や前作をも鑑賞する子供や若いマニア予備軍の固定ファン・お得意さまの開拓にも、完全に失敗してしまったのであるった。『ハム太郎』を目当てに劇場に足を運んだ世代も、今や10代半ばから後半に達しているであろうが、その中でミレニアムゴジラシリーズに強い想い入れがある者は少ないことであろう。同じころに人気が絶頂となった平成ライダーに夢中になり、現在でもファンを続けているという者はいくらでも存在するというのに……


 そうなのだ。当時の子供たちの大半もそうであったが、マニアたちもまた、低迷するばかりで実績を出せない「ゴジラ」や「ウルトラ」に見切りをつけてしまい、「平成ライダー」やそれとともに勢いを盛り返してきた「スーパー戦隊」へと、このころから興味の中心が移り変わってしまったのである。マニアの世代交代やインターネットの普及などの要因もあるだろうが、商業誌や同人誌といった紙媒体において、ゴジラ論が展開されることは、それ以前と比べて激減してしまったことは確かである。しかも、30数年前に雑誌やムックで読んだゴジラ論はいまだに記憶しているものがあるほどなのに、この00年代当時に書かれたものの中には、個人的には印象に残っているものがほとんどないのは、筆者の加齢に起因するだけではないだろう。


2014年 ~『GODZILLA』来航


 90年代には『宇宙船』が年末になると、「ゴジラの本はこれだけ出たのだ!」と題して、その年に出版された何十冊にも及ぶゴジラ本を紹介していたものだが、すでにゴジラについて語ることは、マニアたちにとって「トレンド」ではなくなってしまったのである。


 『ゴジラ FINAL WARS』でシリーズが打ち切られてから、早いもので10年になる。映画『メカゴジラの逆襲』(75年・東宝)から84年版『ゴジラ』の間に生じた長いブランクと、ほぼ同じほどの年月が経ってしまった。だが、あのころ積極的に行われた再評価や、復活に向けての熱心な運動といった主立(おもだ)った動きは、この10年間、ほとんど見られることはなかったのである。



「映画の初期に、かつてトリック映画と呼ばれていたもの、たとえば児雷也(じらいや)が印を結ぶと大ガマになるとか、そんな忍術映画みたいなものの延長で怪獣映画って存在しているとも思うんですけど、つまり「見世物(みせもの)」ですよね。最初の『ゴジラ』のすごいところって、当時ゲテモノとも呼ばれていた類いのものに、メッセージ性やドラマ性を盛りこんだことで、完成度の高い名作映画として成り立っているところです。でも、本来の怪獣映画って、むしろ『ゴジラの逆襲』(55年・東宝)のような、何もないけど、とにかく怪獣が暴れて街が破壊されてスゲエという方かと」

(『特撮映画美術監督 井上泰幸』(キネマ旬報社・12年1月11日発行・ISBN:4873763681)「座談会 現役クリエイターが語るミニチュア特撮の魅力」・庵野秀明


 本稿執筆時点の2014年現在、マニア第1世代(第1次怪獣ブーム世代)も50代に突入し、70年代前半の変身ブーム世代(第2次怪獣ブーム世代)も40代中盤、70年代末期の第3次怪獣ブーム世代もアラフォー、90年代前半の平成ゴジラシリーズ世代はアラサー、90年代後半の平成ウルトラ三部作世代も20代に達した、そんな2014年夏。


 遂にゴジラが海の向こうから帰ってきた!



 だが……


●「最高の恐怖」
●「テーマは『リアル』」
●「1954年の第一作『ゴジラ』の精神を受け継ぐ」


 こんな文面が踊る『GODZILLA』2014年版(https://katoku99.hatenablog.com/entry/20190531/p1)のチラシを劇場で見かけたとき、筆者はおもわずコケそうになった(笑)。これではまさに、「いつか来た道」ではないか……


 本誌『仮面特攻隊』では、


・旗手 稔氏による長編論文 「歴代特撮演出家〈作家性〉解析」――新たなる『大特撮』を目指して―― (仮面特攻隊2002年号)


・伏屋千晶氏による長編論文 「スーパー戦隊アクション監督興亡史」――[山岡戦隊]×[竹田戦隊]――  (仮面特攻隊2003年号)


といった特集が、「作家性」といえば脚本家や本編監督のみが注目されがちだった00年代初頭に掲載されていた。


 それまでのテーマ性やドラマ性の解析一辺倒ではない。「特撮演出」「アクション演出」といった、観客が実際にもそこに強烈に「視線」を誘導されている映像・見せ場・ヤマ場そのものを重視しようという文脈からのアプローチであった。そこから逆算して、作品のテーマ・ドラマ・作劇などを語り直していき、「特撮ジャンル」それ自体の本質・特徴・アイデンティティーをも浮かび上がらせようとした、転倒・逆立ちした試みは、当時としてはまさに画期的であり、筆者も含む本誌ライター陣にもおおいに影響を与えていた。


――それらの先駆け的な試みとして、おそらくはこの両名のロジック構築にも影響を与えたとおぼしき、「演出」ではないが「キャラクター」――ヒーロー・登場人物・敵幹部・怪人たち・役者さんや、それらのデザインの「美術的意匠」や風貌・人となり――を軸にして、「キャラクター自体にすでに作品の傾向やドラマ展開やテーマも孕(はら)まれている」と語った、森川由浩氏による長編論文「『仮面ライダー』 キャラクターの成り立ち」(https://katoku99.hatenablog.com/entry/20140407/p1)(仮面特攻隊2001年号)なども忘れがたい――


 そして、それらがその後の特撮マニアたちの意識にも大きな影響を及ぼした……らばよかったのだが、そのような事実は残念ながら見当たらない(笑)。しかし結果的には、その後の特撮作品や特撮マニアの風潮・論調を先取りしていたと思えるほど、現在の観点から見てもこれらは超一級の評論である――同じころに筆者が執筆していた文章は、もう文体も内容もあまりにもフザけすぎており、とても読むに耐えない(汗)――。


 以下につづっていく事項については、特撮マニア間でも明瞭に言語化・意識化されているとは云いがたい。しかし、今となっては、まさにそれら「特撮演出」・「アクション演出」・「ヒーロー」・「怪獣・怪人」・「スーパーメカ」・「スペクタクル」などの映像的な見せ場こそが「特撮」ジャンルの真の魅力なのであって、そこを「ヤマ場」とするために「テーマ」や「ドラマ」や「登場人物」なども配置されるべきなのだ! とでもいったニュアンスの世論が形成されて、「平成ライダー」や「スーパー戦隊」の新作のスタッフたちもそれを反映したかのように、マニア向けなだけの独り善がりな作品には決して堕(だ)させずに、子供・ファミリー・女性層にも多角的な目配せもできている、ある意味ではとても理想的な娯楽活劇・特撮ジャンル作品を、実に巧妙に仕上げてみせることもできているといった、実に「いい時代」になってきてはいるのだ。


 だが、「ゴジラ」の場合、そうした兆(きざ)しがようやく出始める前にシリーズが打ち切られたことにより、以後は現在に至るまで、そうした文脈で語られる機会がないままに、つまりは「前時代的」な「怪獣恐怖論」のままで思考が停止して、それからまた10年もの歳月が過ぎ去ってしまったのだ。


 先のパトリック・マシアスではないが、「フジヤマ・ゲイシャ」といった誤解されたイメージではなく、いまや「ゴジラ」という存在が、日本でどのように受容されているのかさえ、海の向こうまで正確に伝わってしまう時代になっているのである。それを反映して、どのような『ゴジラ』をつくれば最もウケるのかについてを、ハリウッドがそれなりに分析した結果が、今回の「恐怖」・「リアル」・「1954」といったキーワードになったのかとは思えるのだ。個人的には、いっそのこと「チャンピオンまつり」時代のゴジラ作品しか観ていないような、ゴジラが核のメタファーであることさえ知らない、正義のヒーロー怪獣であると思いこんだ人間が、監督だったらよかったのに、と思えるほどである(笑)。


 今、我々には新たな使命ができたように思える。


 たしかに海の向こうにいるマニアたちの頭の中を一挙に変えてしまうような、そこまでの影響力を発揮することは困難かもしれない。


 だが、ゴジラが「反核」だとか「恐怖」や「悪役」や「善悪を超越した神」だとかいう見方や、「大人の鑑賞にも耐えうる」などの物云いは、あくまでゴジラの「本質」ではなく「一面」に過ぎない。長い歴史の中でゴジラを「権威主義的」に持ち上げるために編(あ)み出されてきた「論法」にすぎないのだと、我々は世間を新たに啓蒙(けいもう)していかねばならないのではなかろうか?
――我々はそれらの「論法」を用いて、ゴジラへの「信仰」の強さを競い合う中世キリスト教的な「神学論争」(爆)をしてきたのだともいえるのだ(汗)――


 そもそもゴジラや怪獣とは、恐竜や動物型の巨獣が「ガオガオ」と連呼して闊歩(かっぽ)し、建物を破壊するのを見て「スゲェ!」と歓喜して、闘鶏(とうけい)のように同類とも戦わせて、どちらが強いのか!? といったことに「ワクワク」とするような、いささかに不謹慎で、しかしスプラッタの域に達するような残酷描写は巧妙に回避されてマイルドにされた、きわめて「幼児的」で「プリミティブ(原始的)」な「暴力衝動」の「疑似的発散」こそが最大の魅力なのである。そしてそれこそが、ゴジラの「怪獣王」たる所以(ゆえん)であったとも思えてくるのだ。



「ひとくちに「特撮評論」と言っても、そこには本当に多くの「立場」があります。そして、「立場」が異なれば出てくる結論もおのずと違ったものになるでしょう。「自分」が書いているのは「SF評論」なのか「映画評論」なのか「怪獣評論」なのか「脚本論」なのか「監督論」なのか「メカ論」なのか「俳優論」なのか「サブカル論」なのかそれとも「自分論」なのか。それを前もって明らかにしておくことで、対立や衝突のいくつかは事前に回避することが出来る筈(はず)。ちなみに、私は飽くまでも<特撮演出論>にこだわっていくつもりです」

(『仮面特攻隊2004年号』(03年12月29日発行)「日本特撮評論史」 マニア出現以後の四半世紀~マニア出現以前のプレ特撮評論・旗手稔



 先の伏屋氏や旗手氏の両名は同人活動をフェードアウトされてしまった。しかし筆者は、先の両名の巨人の両肩の上にまたがる小人に過ぎないものの、「ゴジラ」にかぎらず「特撮映画」をあくまでも「特撮演出」「アクション演出」などの「見せ場」・「ヤマ場」を軸にして、「ヒーロー」・「怪獣・怪人」・「スーパーメカ」・「スペクタクル」を経由してから、そうして初めて「ドラマ」や「テーマ」を語っていこうと思うのだ。


後日付記


 2014年夏、CS放送・日本映画専門チャンネルで『ゴジラ総選挙』が行われた。


●6月5日発表の「第一次投票 中間発表」で発表された上位10位にノミネートされたのは、ミレニアムゴジラ1本・昭和ゴジラ4本。平成ゴジラはなんと5本も!


●「第一次投票」(5月5日~6月22日)で決定した4トップは、昭和ゴジラ2本。平成ゴジラ2本。


 この4トップに投票する「決戦投票」(7月1日~7月18日)では、上位2本を平成ゴジラが占めていた!


●「最終プレゼン」~「最終投票」(7月19日)を経て決定した「ベスト・オブ・ゴジラ」は、『ゴジラ』第1作を2位に抑(おさ)えて、平成ゴジラ作品『ゴジラVSビオランテ』が1位に輝いていた!


 まさに平成ゴジラ世代の台頭であり、隔世の感である。


(資料出典調査協力:樹下ごじろう)


(了)
(初出・特撮同人誌『仮面特攻隊2015年号』(14年12月28日発行)所収『ゴジラ評論60年史』より抜粋)


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GODZILLA(2014年版)賛否合評 ~長年にわたる「ゴジラ」言説の犠牲者か!?

『ゴジラ評論60年史』 ~50・60・70・80・90・00年代! 二転三転したゴジラ言説の変遷史!
『キングコング:髑髏島の巨神』 〜『GODZILLA』2014続編! 南海に怪獣多数登場! ゴジラ・ラドン・モスラ・ギドラの壁画も!
『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』 ~反核・恐怖・悪役ではない正義のゴジラが怪獣プロレスする良作!
『シン・ゴジラ』 ~震災・原発・安保法制! そも反戦反核作品か!? 世界情勢・理想の外交・徳義国家ニッポン!
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 2019年5月31日(金)から洋画『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』が公開記念! とカコつけて……。
 同作の前日談たる洋画『GODZILLA』(2014年版)評をアップ!


GODZILLA』(2014年版)賛否合評 ~長年にわたる「ゴジラ」言説の犠牲者か!?

(2014年7月25日(金)・封切)
(2014年7月下旬脱稿)

合評1・賛! ~『GODZILLA』(2014年版) ~復活ゴジラの原典リスペクト

(文・J.SATAKE)


 第1作公開から60年。ハリウッド版2本目の『GODZILLA』(14)が登場。
 日本の原子力発電所に勤務するジョーは、異常電磁波と巨大振動による事故によって目前で妻を失う。その悲しみと真の原因を明らかにしようと固執する父に対し、息子のフォードは自らの家族を持ち、米軍の爆発物処理の任務に当たっていた。


 再び頻発する振動。立ち入り禁止地区に潜入するジョーと反発しつつも同行したフォードは、放射性物質を喰らい成長する怪獣・ムートーに襲われる!! 
 ムートーを研究・管理しようとする組織・モナークの芹沢博士から秘密を明かされるフォード。1954年、巨大生物を発見した米軍は核実験と偽り攻撃を続けたが、その放射能物質でさらに強化した怪獣がいた。それがゴジラ! その同種に寄生し成長したのがムートーなのだ!


 日本を発ったムートーはその声に導かれるように現れたゴジラと激突!
 さらに復活したもう1体のムートーも襲来、ワイキキ・ホノルル・ラスベガス・サンフランシスコを次々と壊滅させてゆく……。
 果たして人類はムートーを倒せるのか。そしてムートーを追うゴジラは人類の救世主なのか……。


 原点である第1作の「核」に対する警鐘をしっかりと盛り込んだ点を評価したい。太古には放射性物質を糧に成長した生物が存在、それが人類の核兵器原発によって再び地上に現れるという説は、自然ですら管理できると驕り高ぶる人の愚かさに強烈なしっぺ返しを喰らわせる!
 さらに放射性物質で成長する3体をメガトン級の核ミサイルでなら撃退できるはず、と作戦を実行しようとする米軍。核廃棄物や核汚染の抜本的な解決もできないままその大きな力を行使する、なんと愚かしいことか……。


 広島に落とされた原爆で父を失ったという芹沢猪四郎博士も――このネーミングも原点に対するリスペクトが感じられる! ――人間と核の愚かさを知りつつ、ゴジラが自然の調和を保とうとする存在であって欲しいと願う複雑な心象を見せてくれた。ハリウッドでも活躍する渡辺謙氏の熱演が光る!!


 怪獣に対する人間として配されたもう一組、ジョーにフォードとその妻子。「誕生日」でクロスする2つの親子の幸せなシーンと対比して、家族が巻き込まれてゆく怪獣パニック映画としてもきちんとまとめられている。
 津波から逃げまどう大勢の人々、街を蹂躙する水流。渋滞して身動きがとれない車の列を俯瞰で捉える画など、スケールの大きなパニックシーンはやはりハリウッド流。


 自身が放つ電磁波で機械や電子機器を停止させてしまうという能力で、脆弱な現代文明のカウンターともなった強力な怪獣・ムートー。長い鉤爪の腕ともう一組の腕のような巨大な翼。核ミサイルを狡猾に奪ってゆく姿は人類の天敵だ。


 もう一方のゴジラ海上から見せる背中のヒレは鋭利に。野太い首と足が力強さを印象付ける。「怪獣」という言葉を世界に知らしめた彼のデザインを逸脱することなく生まれた本作の姿。オリジナルへの敬愛が感じられる。
 そして桟橋での軍との衝突が決して人類とは相入れない怪獣の宿命を示す。


 2体のムートーを相手にビルを破壊しながら争う姿は巨大な怪獣が立ち回る迫力のバトルシーンとなった! 口から放たれる破壊光線はメラメラと燃え上がる炎のイメージが強調されたもの。ゴジラが口を押し広げ至近距離から打ち込む炎で絶命するムートー!


 満身創痍で「狩り」を終え、海へ還るゴジラ。彼の行動原理は核の濫用を続ける人類には計り知れない……。
 自然環境・核兵器問題に対する警鐘、巨大怪獣の巻き起こすパニック・バトルアクション、二世代に渡る家族の交流ドラマ。新生ゴジラはマニアに向けてのリスペクトと、初見の人へのヒューマンパニックドラマを融合させた見応えある映画となった。


 日本のアニメ・特撮コンテンツの精神を継承したハリウッド映画は、巨大ロボVS巨大怪獣の攻防を描く昨年の『パシフィック・リム』(13・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20180613/p1)もあったが、本作は原点を継承しつつ新たな設定・物語を組み込んで、単なるモンスターパニックものには堕さなかった。
 『ゴジラ』のもうひとつの物語として多くの方に認められる作品だろう。


(了)


合評2・是々非々! ~『GODZILLA』(2014年版) 長年にわたる「ゴジラ」言説の犠牲者か!?

(文・T.SATO)


 物語の前半、なかなかゴジラが登場しない。フィリピンや日本で太古のナゾの巨大生物の痕跡が調査されていく。放射能がウンヌン云ってるし、初作が公開された1954年に伏線ぽくゴジラに対して原水爆実験を装った核攻撃がなされたような記録映像も流れるので、てっきりコレは水爆大怪獣ことゴジラの痕跡のことだと思っていたのだが……。
 なんと、別の昆虫型の6本脚の新怪獣を物語は追っていたのだった!


 南海の明るい大洋を、その巨大で複雑な形の背ビレだけを見せて、悠々と回遊していくゴジラ
 メリケンの地で、同じく背ビレを見せながら、巨大な吊り橋の下を通過していくゴジラ
 夜景のビル街で、瓦礫の土煙をもうもうとさせつつ、未知なる敵怪獣と激闘を繰り広げるゴジラ
 敵に組み付き、口から吐くゼロ距離の放射能火炎でトドメを刺すゴジラ。最後は海洋へと去っていく。


 こうやって、あとから印象的なビジュアルを抜き出してみると、たしかにゴジラ映画の映像の典型+αで、そこを意識的にも押さえたのだろう。
 でも物語前半で延々描かれる、ゴジラかと思いきやそれは新怪獣の予兆だった! とゆー展開のせいか、前述のビジュアルの印象も相殺されてしまったよーナ。


 いや別に新怪獣が出てきて対決モノになるのが必ずしも悪いとは思わないし、歓迎しないでもナイ。しかし、この作品に限って云えば、大々的には告知されはていなかった新怪獣の出現は、スカッとした意外性ではなく、比重的に腰の据わりの悪さをもたらしたよーナ。


 昆虫型新怪獣の猛威に襲われていくハワイ、アメリカ西海岸!
 そして日本のミレニアム・ゴジラシリーズのように、夜のビル街で土煙をもうもうとあげながら、ゴジラと新怪獣2体との攻防が繰り広げられ、新怪獣を倒したゴジラは海へと帰っていく。
 その姿は神々しく、人類の危機に現れた救世主のようにも見えるのであった……。


 物語中盤までゴジラが姿が見せない作品ほど高尚。ゴジラは単なる暴れまわるだけの怪獣ではない。その出自からも犠牲者であり反核反戦の隠喩なのだ。と同時に大自然の象徴・警鐘でもあるのだ。単なる犠牲者、弱くてもイケナイ。ゴジラは膝を屈しない強者・神であり脅威でもあるべきだ。
 たしかに1970年代末期~90年代前半までこーいう言説がさももっともらしく語られていましたネ――筆者も共犯者だったかもしれませんが(汗)――。
 これらの言説を取り込んだから、本作は今回のようなゴジラの立ち位置になったのだと私見。メンドくさいゴジラマニアを相手にして作り手たちもホントに大変で同情します(笑)。


 ぶっちゃけ、往年のそれらの理念は、イイ歳こいて怪獣映画を観ている自分たちを肯定するための理論武装であって、それによる多少の地位向上があったことも認めるけど、次には別の問題ももたらして、ゴジラ映画から娯楽活劇性を削いでしまった面も否めない。
 ゴジラ反核反戦・自然の象徴にも成りうるけど、それは後付けであって、もっと不謹慎な男の子のプリミティブ(原始的・幼児的)な暴力衝動の発散であり、巨大怪獣がガオガオほえながら、原野や街を闊歩しビル街をぶっ壊し、とはいえスプラッタみたいな残虐性は巧妙に回避され、倒してもいい敵怪獣は容赦なくやっつける、そんな幼児的な全能感・万能感、身体性の快楽を味あわせる装置なのだとも思う。ドラマやテーマはそのための言い訳にすぎず、そんな全能感に奉仕するように構築されるべきなのだ。


 本作を個人的にはダメダメだとは思わない。明らかなアラや破綻はないし退屈もしなかった。けど、心の底から面白かったかと問われると……。


 またまたオッサンの繰り言で恐縮だけど約35年前、怪獣だのアニメだのの子供向けの趣味とされていたモノを、当時の若者層が持ち上げて――往時はオタと一般ピープルがまだ未分化であった――、子供ながらに中高生やオトナになってもこのテの趣味を卒業しなくてもイイのかも!? と期待に胸をふくらませたものだ。折しもメリケンの地からも『スター・ウォーズ』(77年・78年に日本公開・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20200105/p1)や映画版『スーパーマン』(78年・79年に日本公開・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20160911/p1)が黒船来航。ボクらの子供的な趣味の感性が勝利を収める! という束の間の祝祭感も味わった。
 折しも我らの『ウルトラマン』も800万ドルだかでアメリカでリメイクされるやも! あわよくば、日本の特撮やアニメが海の向こうでリメイクされてハクを付けて凱旋帰国し、その勢いで一挙に日本における文化カーストの上位にも食い込む! という、それはそれで舶来の権威で日本の権威を凌駕せんとする、植民地の民の奴隷根性みたいな思いに、当時のマニア連中は取り付かれていたようにも思うのだ。


 で、「来なかったアニメ新世紀」とか「日本特撮・冬の時代」とか、M君事件によるオタクバッシングなどの紆余曲折はあったけど、フランス革命ロシア革命みたいな画期があったとも思えないのに(笑)、30数年が経ってみればズルズルとゆるやかに往時の夢は実現した……ような気もしないでもない。
 往時に夢見た未来とはカナリ違った気もするし、もう少し志が高くて意識的に実現されるべき革命が、資本主義の論理でなんとなくこーなったあたりで、古い世代としては釈然としない感もある。とはいえ、往時唱えられていた「こーすれば日本特撮は復興する!」とされてきたあまたのテーゼの数々――怪獣や怪人はギャグやコミカルなどの世間に嗤われるような描き方ではなく、恐怖や脅威であるべきだという「怪獣恐怖論」の賞揚。ヒーローや怪獣の未知なる初邂逅の神秘性を重視する立場から「一回性」が賞揚されることで、続編やシリーズ作品にユニバース的な同一世界の作品群を否定する――も、必ずしも正しかったワケではないことも思えば、現今の状況でもイイのだろうとも思ったり(……複雑)。そして、それらのひとつとして今回のハリウッド版『ゴジラ』もあるワケだ。


 加えて、作品自体の罪ではナイけど、コチラが枯れてしまったせいか(笑)、ハリウッドでのリメイク自体も2度目のせいか、マニアだから語ろうと思えばいくらでも語れるのだけど、長年の蓄積だけで自動的に語れちゃってて、鑑賞前後での熱情自体はあまりナイのは筆者だけか?(汗)
 作品評価や好悪はヒトそれぞれ、そもそもゴジラマニアの尺度よりも売上の尺度の方が絶対かもしれないけど、それでも云うなら、本作がドコかスカッとせず(私見だけど)、ある意味ではハリウッド映画らしくないモヤッとした内容になったのは、日本のゴジラマニアが1970年代末期~90年代に延々とつむいできた「ゴジラ言説」のせいではなかろうか?(笑)
 それらがウスめられて海の向こうのマニア間でも普及しているから、こーいうモヤモヤとして善悪も曖昧模糊としたノリになったのではなかろうか? そーいうイミでは向こうのスタッフも悪い意味でよく「ゴジラ言説」を研究して、本作の内容や思想性にそれを取り入れてくれたと云うべきか?


 初期の「ゴジラ評論」では、子供向けに正義の味方と化した後期・昭和ゴジラを否定するために、ゴジラは悪でなければならないとされたが、そのうちにゴジラは善も悪も超越した強者であり膝を屈しない強者・神でなければならないということになった。
 そのへんのロジックの援用で、人類の脅威ともなる新怪獣が用意され、コレを倒す存在でありながら人類とは相容れないゴジラ像になったと推測するのは容易だろう。加えて、渡辺謙演じるセリザワ博士が勝手に根拠もなく思い入れて、ゴジラは自然界のバランスを戻すために現れた救世主なのかもしれないという仮説だが願望(笑)だかも述べる。


 その言説は作品批評やマニアによる愛情の吐露やジャンル作品を高尚に見せようとする手法(笑)としては大きく間違っているワケでもないけれど(汗)、劇中でもそのように語られてしまうと、チョットした肉付けの不足か逆に露骨すぎたのか、少し浮いている言説にも見えてしまう。
 加えて、平成ゴジラシリーズやミレニアムゴジラシリーズではよくあった、ゴジラを最後に撃退はしたけど死んではいなくて、ラストでゴジラが海中などでカッと眼を見開くなどの、それはそれでパターンと化した(笑)香辛料・スパイスの不足なども、本作に感じる物足りなさの理由であろうか? このへんもまた本作の弱点のようでもあり、逆にココらを重点的に攻めて肉付けして突破できれば、納得ができる作りになったような気もする。


 早くも続編の製作も決定。今度はラドンモスラキングギドラも登場するらしい(!?)。日本のゴジラシリーズの歴史とも同様、イイ意味で堕落して(笑)歴史を繰り返し、爽快な作品になることを期待したい。


(了)


合評3・否! ~『GODZILLA』(2014年版) ゴジラが来たりてホラを吹く(笑)

(文・久保達也)
(2014年7月30日脱稿)


 いきなりネタバレで申し訳ないが、むしろまだ観ていない人々が劇場でビックリしないためにも、今回だけは本当のところをハッキリさせて頂きたい。


 今回登場するゴジラは、実は「悪役」ではない。それどころか、「悪い怪獣」から人類を守る、「正義のヒーロー」なのである!


 ただし、印象としてはゴジラが悪役として描かれた映画『ゴジラ2000 ミレニアム』(99年・東宝)に近い。これに登場した宇宙怪獣オルガに、今回の敵怪獣ムートーがそっくりだったし(笑)、『ミレニアム』も中盤は本編も特撮もUFOと宇宙人ばっかりで、ゴジラのゴの字も出てこなかったし(笑)。
 だが、それでもまだ、ゴジラの登場場面が比較的多かった分だけ、マシだったのかもしれない。なんせ今回はゴジラが、全然出てこないんだもの……


 んなアホな! と思ったのは、筆者とて例外ではない(笑)。実際に劇場で鑑賞するまでは、そんなことは夢にも思わなかったのである!


・予告編で編集されていた都市破壊場面ではゴジラの姿は伏せられ、ムートーもいっさい登場しなかったこと。

・チラシなどの宣材では「1954年に東宝が製作・公開した日本の特撮怪獣映画の金字塔『ゴジラ』を、ハリウッドでリメイク」などと紹介され、ましてやそこには「最高の恐怖」「テーマはリアル」(爆)などというキャッチコピーが踊っていたこと。


アメリカでの試写会の席上にて、今回セリザワ博士を演じた渡辺謙(わたなべ・けん)が、「普通の怪獣映画じゃないところがいい」などと発言していたこと。


 以上のことから、筆者は今回の作品は、ゴジラの本家である日本でウケるために、つーか、口うるさい日本の怪獣マニアから批判されないために(笑)、『ゴジラ』第一作(54年・東宝)を最大限に尊重し、


・「反核」の象徴
・「恐怖」の対象
・「悪役」のゴジラ
ゴジラと戦うのは「人間」
・「怪獣プロレス」はやらない(笑)


 良くも悪くも、こうした70年代末期~80年代に特撮マニアが怪獣映画のあるべき姿として持ち上げてきた要素を満たしたゴジラが描かれるものだとばかり、思いこんでいたのである。


 そりゃあ、フタを開けたらビックリするわなぁ(笑)。
 予告編の破壊場面は、実際には全てムートーによるものであり、「最高の恐怖」として描かれる「悪役」の怪獣はゴジラではなく、ムートーの方であった(笑)。


 そして、ゴジラは「反核」の象徴どころか、54年頃にアメリカとソビエト連邦(現ロシア)が相次いで原水爆実験を行ったのは、なんとゴジラを倒すためだった、などと悪行を正当化しやがった(これがホントの爆!)。


 「普通の怪獣映画じゃない」どころか、おもいっきりのフツーの怪獣映画やんけ!(笑) つーか、あまりにもフツーすぎるやろ!(爆)
 アメリカをはじめ、世界各国で大ヒット! って、それはハリウッド・ブランドと巨大資本に物を言わせた大宣伝で集客して、かつ怪獣映画が「文化」として根づいていないから、こういうものでもおもしろく見えてしまうだけだろうに(笑)。


 結局公開直前まで、徹底した報道管制を敷いてしまうからこそ、こうした大きな誤解が生じてしまうワケで……
 ヤフーの映画レビューでは、ハッキリと「これは詐欺(さぎ)だ!」などと怒っている人がいた。だが、「詐欺」というのは、人をだました奴が「得」をする場合のことを言うのである。今回の「詐欺」(笑)の場合は、むしろ興行側の方が「損」をしているように思えてならないものがある。


 筆者は公開二日目に2D吹替版の初回を鑑賞したが、その客層は、映画『キカイダー REBOOT(リブート)』(14年・東映)と、ほとんど変わらなかった。つまり、圧倒的に「高齢層」が中心であり、筆者の隣の席の客なんかは、正直「おじいさん」(失礼)と呼ぶのがふさわしい年代の人だったくらいである。


 予告編や宣材の「詐欺」によって劇場に足を運んだのは、


・『ゴジラ』といえば第一作が最高傑作、いや、そもそもそれ以外は全部ダメ(爆)とまで考えている者も含む、第一作至上主義のマニアたち、
・宣伝では今回の作品がどんなものかはハッキリしないけど、世代的に怪獣映画を観て育ったため、せっかくの久々の新作だから観てみようか、と思った一般層の人々


だったかと思われる。これでは「高齢層」中心になるのも当然である。


 たとえばマニアでも、


・筆者のように70年代前半の子供向け興行「東宝チャンピオンまつり」の昭和ゴジラシリーズ後期の正義の味方のゴジラを幼少の頃に観た世代や、
・90年代前半に平成ゴジラシリーズを小中学生で観た世代にとっては、


 「怪獣対決」のない怪獣映画なんて、クリープを入れないコーヒーみたいなもんだ、と考えている者、もしくは表面ではそう思っていなくても無意識にはそう思っている者が中心であることだろう。


 そうした者にとっては、「怪獣対決」のない『ゴジラ』第一作至上主義やその作劇なんぞ、まさに目の上のタンコブみたいなものである(笑)。だから前宣伝のせいで、今回の作品が第一作のリメイクみたいなものだと思いこんでしまったら、大枚(たいまい)はたいてまで積極的に観に行くワケがないと思えるのである。
 筆者も先にあげた『キカイダー REBOOT』の上映前に流された予告編を観て、個人的には何ひとつワクワクさせるものを感じることができなかった。


 さらにチラシの「最高の恐怖」「テーマはリアル」という70~80年代の特撮マニアが散々『ゴジラ』映画の理想としてきて筆者も信じていた(汗)、しかし今やその有効性をスレたマニアからは疑問視されて久しいテーゼを今さら仰々しく掲げるセンスに至っては、頭をかかえずにはいられなかったものである(笑)。


 筆者はバンダイから「ムービーモンスターシリーズ」として、ムートーのソフビ人形が発売されることを知るに至るまで、今回の作品はゴジラが単独で登場する作品だとばかり思いこんでいたのである。ひょっとしたら、玩具の発売情報なんぞに疎(うと)いために、いまだにそう思いこんでいる人々も、少なからず存在するのではないのだろうか?
 筆者が私見するに、これではドッタンバッタン組んずほぐれつの「怪獣対決」が描かれるのなら観てみたいと考えるような、実は結構いるであろう潜在的なヤジ馬客層をシャットアウトしてしまっているワケであり、まさに「損失」以外の何ものでもないのである。


 なので、こういう手法がかつては通用した時代もあったが、今の時流には、公開直前までの情報管制はそぐわない、と個人的にはとらえている。
 ゴジラであれば、怪獣映画であれば、どのような作品であれ、絶対に観なければ気がすまない! という人間たちに対してはそれでもいいだろう。だが、世の中そういう人間ばかりではない。つーか、そんな連中は圧倒的少数派なのである(爆)。


 怪獣映画なんぞにまったく思い入れのない人々であれば、どんなものが出てきてどんなことをやるのか、前宣伝でまったくわからないようなものに、果たして大枚はたくようなことをするのか? ということなのである。
 そんなことをするくらいなら、安心確実なブランドである、スタジオジブリやディズニー、『ポケモン』の方を選ぶのではなかろうか――本当はここに戦隊&ライダーの劇場版も加えたいところなのであるが、どうやらこの2014年の夏も苦戦しているようなので……――。


 だから「恐怖」だの「リアル」だの「第一作の精神」だのと、旧態依然の古いマニアかせいぜい背伸び盛りの聞きかじり新参マニアにしか通用しない、抽象的な文句を並べたてるくらいなら、


ゴジラの姿を最初から公開して、昔は着ぐるみだったけど、今回はCGで自在に動くから迫力があるぞ! とか、
ゴジラのほかにもムートーという怪獣が、オスとメスの二種類出てくるぞ!


なんて調子で煽(あお)り文句で宣伝していれば、特撮といえば戦隊やライダーしか知らない若いマニアや子供たちに、多少なりともインパクトをもってアピールすることができたように思えてならないのだ。


 先に客層が「高齢層」中心であると書いたが、とにかく今回は、子供たちの姿が「皆無」に近いくらい少ない。上映後にたまたまトイレで出くわした中学生男子二人組のうちのひとりの発言が、まさにそれを象徴しているように思えたものだ。


「オレちっちゃい頃、『ゴジラ×(たい)メカゴジラ』(02年・東宝)観たハズなんだけど、全然覚えてねえんだよ」


 おそらく彼は当時3歳くらいであり、『ゴジラ×メカゴジラ』よりも、むしろ同時上映のアニメ『とっとこハム太郎』(00~13年)の劇場版(01~03年)が目当てだったのではなかろうか?
 ただでさえ興行成績が低迷していた00年代前半のミレニアムゴジラシリーズ(99~04年)の客層は、『ハム太郎』の併映により興行収入を一時的にアップさせるも、子供層については90年代前半の平成ゴジラシリーズ時代の客層であった小中学生ではなく、就学前の幼児が中心となっていた。先にあげた中学生のように当時はあまりにも小さすぎてゴジラのことを全然覚えていないか、『ハム太郎』だけを観て帰ってしまったかの、どちらかが大半であろうかと思われる――この当時は『ゴジラ』作品の冒頭、自衛隊の面々が残酷に蹴散らされていくシーンだけ観て、幼児の教育に悪いと思ったのかワラワラと退出していく親子連れがメチャクチャ大勢存在した!――。
 ミレニアムゴジラシリーズを観て新たなゴジラファンとなった子供たちは、数としてはたかが知れた程度にすぎないのではなかろうか? それを思えば、実質的なブランクは、映画『ゴジラ FINAL WARS(ファイナル・ウォーズ)』(04年・東宝http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20060304/p1)でシリーズが打ち切られて以来の10年間にはとどまらないのではないのか?


 知人に聞いた話では、今回の作品は講談社『テレビマガジン』や小学館『てれびくん』でも一応は紹介されていたらしい。にもかかわらず、子供たちが全然観に来ないのである!
 テレビシリーズの新作が途絶えても、ウルトラシリーズの場合は映画の公開・アトラクションショー・児童誌連載・オリジナルビデオ作品リリースなど、一応はなんらかの動きが成されてきた。だから、たとえ商品的価値は凋落(ちょうらく)しようとも、その存在をかろうじて延命させることとなっている。


 だが、ゴジラの場合は10年間、本当に何もしなかったのである。これでは公開直前になって、あわてて事前情報が掲載されようが、子供たちの関心を惹(ひ)くハズもないのである。
 怪獣映画の未来は、もはや風前の灯火(ともしび)としか言いようがないほどの、危機的状況におかれているのではないのか? これを打開するにはどうすればよいのか、答えはひとつである。


 「怪獣対決」が観られると思って喜んだのも束(つか)の間(ま)、ハワイでのゴジラ対ムートーの対決はテレビ画面の中でしか描かれないわ、アメリカに上陸してやっと始まったと思ったら、突然画面が真っ黒になって別の場面に切り替わるわ――マジで上映トラブルかと思った・爆――…… だから今回は第一作至上主義者ばかりか、結局は「怪獣対決」至上主義者(笑)にとっても不満が残ってしまったワケで……


 こんなカン違い映画(笑)をこれ以上ハリウッドにつくらせないためにも、本家の東宝ゴジラを復活させ、毎年安っぽいつくりでも継続して公開するより道はないのである!
 そしてハリウッドは、日本の怪獣映画をもっと研究するのみならず、怪獣映画が「文化」として根づいている日本の怪獣マニアたちが、世界の中で「最高の恐怖」(爆)の存在であることを、肝に銘(めい)ずるべきである(笑)。


(了)
(初出・特撮同人誌『仮面特攻隊2015年準備号』(14年8月15日発行)~『仮面特攻隊2015年号』(14年12月28日発行)所収『GODZILLA』合評1~3より抜粋)
(合評2のみ、オールジャンルTV合評同人誌『SHOUT! VOL.62』(14年8月15日発行)所収『GODZILLA』評と合わせて再構成)


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トクサツガガガ(TVドラマ版)総括 ~隠れ特オタ女子の生態! 40年後の「怪獣倶楽部~空想特撮青春記~」か!?

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トクサツガガガ』(TVドラマ版)総括 ~隠れ特オタ女子の生態! 40年後の「怪獣倶楽部~空想特撮青春記~」か!?

(文・久保達也)
(2019年3月30日脱稿)

「特撮オタ女子」が主人公のドラマ、NHKで放映!


 小学館ビッグコミックスピリッツ』で2014年から連載中の丹羽庭(たんば・にわ)原作の漫画作品『トクサツガガガ』が、NHK金曜22時の『ドラマ10(テン)』の枠にて実写ドラマ化され、2019年1月18日から3月1日にかけて全7話が放映された。


 『トクサツガガガ』は職場では女子力が高いと思われている一見フツーのOLだが、実は特撮変身ヒーローをこよなく愛する隠れ特撮オタク・仲村叶(なかむら・かの)=通称・仲村さんが主人公だ。毎日職場に弁当を持参することも仲村さんが周囲から女子力が高いと思われる理由のひとつだが、それは日々の生活で必死に節約をして円盤を買うためであり、会社の飲み会なんぞムダな出費でしかないのだ。
 (ひとり)ボッチアニメ『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』(13年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20150403/p1)で、主人公のスクールカーストの最底辺女子高生・黒木智子=もこっちが「喪女(もじょ)」と定義されたように、仲村さんの弁当持参は「女子力」ではなく、「女死力」(爆)なのである。そもそも一般層はブルーレイやDVDを「円盤」などとは呼ばないだろうが、ほかにもイチオシのキャラを意味する「推(お)し」とか、児童向け雑誌の愛読者全員サービスDVDの通称「読サ」など、オタの間でしか通用しない特殊用語が一般の視聴者向けに字幕で解説(笑)される配慮は好印象だった。


 なお、ドラマ版の脚本を担当した田辺茂範(たなべ・しげのり)は、美少女の姿をした動物たちを描いた大ヒットアニメ『けものフレンズ』(17年)のシリーズ構成・脚本を務めていたが、製作がビデオコンテ方式に変更されて以降、実質的なシナリオは監督のたつきが担当することとなったため、現在はスタッフクレジットから田辺氏の名が除外されている。ちなみに氏が主宰(しゅさい)する劇団の名は「ロリータ男爵(だんしゃく)」である(爆)。


かつて放映された「特撮オタ男子」が主人公のドラマ


 特撮オタを主人公としたドラマとしては、毎日放送・TBS系の深夜ドラマ枠『ドラマイズム』にて2017年の6月に全4話が放映された『怪獣倶楽部(クラブ)~空想特撮青春記~』(17年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20170628/p1)の存在が前例としてあげられる。これは70年代半(なか)ばに活動していた実在の特撮同人グループ・怪獣倶楽部をモチーフにした実話を含むフィクションであり、特撮オタの大学生の主人公・リョウタが、世間では完全に「子供向け」とされていた怪獣番組を大人たちが堂々と語れる場所として存在した怪獣倶楽部に青春を捧(ささ)げる日々が描かれ、ひそかに交際していた彼女・ユリコに怪獣好きであることを告白できないばかりか、ユリコとの交際を倶楽部のメンバーに知られたら「裏切り者」(笑)として追放されるのでは? などとその二重生活にリョウタが葛藤(かっとう)するさまが、当時の時代の空気を忠実に再現するかたちでドラマ化されたものだった。


 あの時代から40年以上が経過し、実在した怪獣倶楽部の活動の功績もあり、現在では「怪獣番組=特撮番組」自体はかろうじて世間でも市民権を得られたような感があるが、いまだに仲村さんのような隠れ特撮オタが多く存在するのは、怪獣倶楽部の健闘もむなしく、残念ながら「特撮オタ」の方は「昭和」から「平成」へと時代が移ってもまだまだ市民権を得てはいないということだ(大汗)。
 『トクサツガガガ』もまた隠れ特撮オタならではの仲村さんの苦悩がコミカルに描かれているのだが、『怪獣倶楽部~空想特撮青春記~』と大きく異なるのは、最初から怪獣倶楽部という同好の仲間が集まる最良の居場所を得られていたリョウタに対し、当初は仲村さんには仲間・理解者の存在がなかったことと、まだ学生で自身のオタ趣味を隠さねばならない相手が彼女のユリコくらいで済んでいたリョウタと違い、社会人の仲村さんは会社の同僚全員に、就職を機に離れて住むこととなった母親など、その相手があまりにも多すぎることなのだ。


特撮オタ「あるある」(笑)


 第1話『トクサツジョシ』の後半で描かれた同僚たちからのカラオケの強要は、仲村さんが「いちばん苦手なノリ……早く帰りたい」(笑)と嘆(なげ)いたように、社会人の隠れオタなら苦い記憶があるだろう。若い世代に人気のアーティスト・サカナクションを怪人の名前と思ってしまうほど(爆)、世間一般でウケているものに疎(うと)いがために、特撮ヒーローソング以外に全然歌えない仲村さんは困り果ててしまう。
 私事で恐縮だが、小室哲哉(こむろ・てつや)の楽曲が全盛を極めていた90年代半ば当時、筆者はまだ充分に若かったにもかかわらず、職場の同僚たちに強引に連れていかれたカラオケ店で「ヒューヒュー!」などと盛りあがっていた連中のことが理解できないどころか、それらの歌を全然聴いたことがなかったために(汗)、歌うことを強要されるや、やむなく「昭和」の歌謡曲を何曲か披露、おもいっきりその場をシラケさせたものだった(爆)。


 ガチャガチャ自販機でカプセルトイを買いたいものの、周囲の目が気になってしまい、人目につかない場所にある自販機を捜し回ってみたり。
 オマケのヒーローフィギュアを目当てにファーストフード店で子供向けのセットを注文するも、そこに同僚のチャラ男が現れたことで、やむなく女児向けのアクセサリーをもらうハメになり、姪(めい)のために買った(笑)と苦しい言い訳をしてみたり。
 職場では使わない黒ブチメガネをかけて徹夜してヒーローものを観ていたために、疲れきっていた表情を通勤時に後輩男子から指摘され、夜遅くまで資料に目を通していたなどと大ウソをついてみたり(笑)。
 「休日は何してるの?」「何にお金使ってるの?」とたずねられ、返答のしようがなかったり(汗)。
 ヒーローのアトラクションショーを観に来たクセに、仕事の休憩中にたまたま通りがかったひまつぶしのOLを装(よそお)ってみたり(爆)。


 そんな「隠れオタあるある」に苦悩する仲村さんを、劇中で仲村さんが夢中になっているスーパー戦隊の最新作『獅風怒闘(しっぷうどとう) ジュウショウワン(獣将王)』、そして仲村さんが幼いころにリアルタイムで観ていたメタルヒーロー『救急機エマージェイソン』――往年のメタルヒーロー『特捜ロボ ジャンパーソン』(93年)が基であることは云うまでもない――のヒーローたちが、仲村さんにしか見えない存在として現実世界に現れて、仲村さんの危機を救うこととなるのだ!


劇中ヒーローの「本物」志向!


 先述した『怪獣倶楽部~空想特撮青春記~』は、円谷プロの全面協力を得たことにより、幻覚宇宙人メトロン星人・分身宇宙人ガッツ星人・宇宙恐竜ゼットン・幽霊怪人ゴース星人などウルトラマンシリーズの人気怪獣・宇宙人が、常にリョウタに寄り添うリョウタにしか見えない存在として登場したが、『トクサツガガガ』で劇中劇として描かれた『獅風怒闘 ジュウショウワン』と『救急機エマージェイソン』も架空のヒーロー番組ではあるものの、登場するヒーローのマスクやスーツの造形・番組の演出などは、スーパー戦隊メタルヒーローを実際に製作した東映の協力を得ているのだ。
 これまでに多くのスーパー戦隊を手がけてきたレインボー造形企画が造形を担当した、ジュウショウワンのシシレオー=レッド、トライガー=ブルー、チェルダ=イエローのデザインは、『恐竜戦隊ジュウレンジャー』(92年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20120220/p1)・『百獣戦隊ガオレンジャー』(01年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20011113/p1)・『爆竜戦隊アバレンジャー』(03年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20031111/p1)・『獣電戦隊キョウリュウジャー』(13年)などのヒーロー&ヒロインのように、牙(きば)のある恐竜や猛獣が大きく開けた口をマスクのゴーグル部分のモチーフとしており、牙状の三角形やギザ模様が全身に描かれているのも、先述した作品群の主人公たちと共通する意匠(いしょう)となっている。特にシシレオーのデザイン・造形は、頭部にライオンのたてがみを模(も)した突起が複数つけられている以外は、『キョウリュウジャー』のキョウリュウレッドに酷似(こくじ)した印象が濃厚であり、まさに本家ならではのリアル感にあふれていた。


 また、ジュウショウワンの敵で狼(おおかみ)をモチーフにした幹部怪人・ゲンカ将軍とエマージェイソンを演じたのは、『仮面ライダーBLACK(ブラック)』(87年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20001015/p2)や『仮面ライダーBLACK RX(ブラック・アールエックス)』(88年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20001016/p1)の主人公ライダーを皮切りに、「平成」仮面ライダースーパー戦隊メタルヒーローシリーズなどで数多くのヒーローや怪人を演じてきたスーツアクター・岡元次郎であり、トライガーは『宇宙戦隊キュウレンジャー』(17年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20180310/p1)のホウオウソルジャーや、『快盗戦隊ルパンレンジャーVS(ブイエス)警察戦隊パトレンジャー』(18年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20190402/p1)の敵組織・ギャングラーの幹部怪人デストラ・マッジョなどを演じた若手の藤田洋平が、ジュウショウワンの追加戦士・セロトル=シルバーは『大戦隊ゴーグルファイブ』(82年)の時代から活躍する大ベテラン・蜂須賀昭二(はちすか・しょうじ)が務めるなど、「中の人」までもがジャパンアクションエンタープライズに所属する、「本物」が揃えられていたのだ!


 スーパー戦隊のロケ地として定番で使われる栃木県栃木市にある岩船山の採石場跡地にて、「轟(とどろ)きの青! トライガー!」「疾風(はやて)の黄! チェルダ!」「闘志の赤! シシレオー!」「われら、獅風怒闘! ジュウショウワン!」との名乗りやバトルアクションを撮影するに至るまで、『トクサツガガガ』が劇中ヒーローの「本物」志向にこだわったのは、我々のような特撮オタを満足させるためというよりは、むしろ放映枠の『ドラマ10』が、普段は一般層に向けたドラマを放映していることが大きかったのではあるまいか?
 平日21時に放送されている報道番組『NHKニュース9(ナイン)』のキャスターたちが「では今夜はこれで失礼します」と視聴者に頭を下げた直後に、第1話冒頭で描かれた劇中劇『ジュウショウワン』がつづいたのは、なかなかシュールなものがあった(笑)。


 ところで、特に中高年の一般層にはウチの両親なんかもそうだが、とりあえずNHKをつけっぱなしにする人々が多いかと思われる。日曜20時に放映される大河ドラマの直後に放映される20時45分のニュースが、視聴率ランキング上位20位以内にちょいちょいと顔を出すのは、まさにそういうことだろう。つまり、『NHKニュース9』につづいて、そのままNHKでいいやとついでに『トクサツガガガ』を観ていた視聴者に、バラエティ番組などで見られるようなヒーローもののパロディコントのようなチャチな映像を見せてしまったら、さすがにチャンネルを変えられるのがオチだろう。
 これほどのクオリティの映像ならば一見、女子力が高い仲村さんが夢中になるのもうなずけると一般層の視聴者たちに説得力を与えて、主人公の仲村さんにも感情移入をさせるためには、劇中ヒーローを最大限にカッコよく見せる演出はやはり不可欠だったかと思えるのだ。


劇中劇と絶妙にリンクした展開


 「一般的なものを楽しまないツケだ!」とか「盛大にオタバレするがいい!」などと、ジュウショウワンの敵でカラオケのモニターを顔にした怪人・カラオケ怪人までもが現実世界(?)に現れて仲村さんをあざ笑う! 先述したヒーローたちに比べるとこのカラオケ怪人の造形はかなり簡素な印象が強かったが、近年のスーパー戦隊でもこんな確信犯の昭和的な安っぽいギャグ系怪人が原点回帰の再評価(笑)で登場するのも当たりまえになっていることを思えばまったく違和感がなく、むしろリアルに見えたほどだ(笑)。昨2019年秋の深夜枠で放映されて大ヒットしたヒーローアニメ『SSSS.GRIDMAN(グリッドマン)』(18年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20190529/p1)の敵首領だったアレクシス・ケリブもそうだったが、カラオケ怪人の声を務めた稲田徹(いなだ・てつ)の絶好調なコミカル演技もまた然(しか)りだ。


 カラオケ怪人に襲われた仲村さんの前に、幼いころにあこがれたエマージェイソン――やはり『SSSS.GRIDMAN』で、悪側から正義側へと転じたキャラ・アンチの声を務めた鈴村健一がナレーションと兼任した――が現れて、「生活を守るために正体を隠すのは、悪ではない!」と勇気づけた!
 これに奮起した仲村さんは迷いを捨てて、その場にいる同僚たちは皆が『エマージェイソン』のリアルタイム世代だからと、意を決してその主題歌を熱唱しだす!
 その最中にもエマージェイソンは、「テンションは抑(おさ)えぎみに」「英語の歌詞はニゴせ」「テレビサイズで流れない部分は捨てろ」(爆)などと、仲村さんの背中にオタバレを避けさせるためのメッセージを贈りつづける! 「オタク・ソングを熱唱」しつつも「オタバレを避ける」ためにする、一粒で二度オイシい方策の絶妙なる両立! 男性社員を中心にその場はおおいに盛りあがり、仲村さんはカラオケ怪人を岩船山の採石場(笑)で見事に打ち倒したのだった!


 このように隠れオタの仲村さんが危機に陥(おちい)るたびにジュウショウワンやエマージェイソンが現れる以外にも、同じものをわかちあえる仲間がほしいと願った仲村さんが『ジュウショウワン』でのシシレオーとトライガーが初めて出会った場面をつい回想してしまったり、後述する銀ブチメガネをかけて終始無愛想な仏頂面(ぶっちょうづら)であり一見お局(つぼね)さま風の同僚・北代(きたしろ)さんを仲村さんが「(同じ趣味の)仲間?」などと思いこむ場面などに『ジュウショウワン』でシリーズ途中から登場する追加戦隊ヒーロー・セロトルに「君は、獣(けもの)のオーラを感じたのか!?」などと問いかけるシシレオーの場面を挿入するなど(笑)、仲村さん個人の日常ドラマと『ジュウショウワン』の劇中ストーリー展開をリンクさせた演出が、視聴者の感情移入を誘うには絶妙なものとなっていたのだ。
 また、あまたのボッチアニメのように本作は仲村さんのモノローグが多用されているのだが、特撮オタであることがバレそうになるたびに表向きはクールを装いつつも、内心ではテンション高めに暑苦しくボヤきまくる仲村さんを演じた小芝風花(こしば・ふうか)の演技は絶品かと思えた。


 実は原作漫画では仲村さんは美人寄りでも、もっと長身でムダには媚びていない系の女性といったイメージである。よって、小芝風花のイメージとは異なるところもあるのだ。しかし、地上波のテレビで放映される作品としては、大衆視聴者に「彼女が困っていて少々かわいそうだから応援してあげたい」、あるいは非オタの女性層もしくは特撮オタク以外の女性オタクたちも「美人寄りでルックス面では少々恵まれているから何とかなりそうじゃん」あるいは「美人寄りでルックス面では少々恵まれているからプチ反発」といった感情を惹起させないという意味でも、本作がテレビドラマ化にあたって仲村さんを齧歯類系の小柄アイドル的な小芝風花としたことは――他のふたりのオタク女子たちもそうだったが――正解だったと思える。


特撮オタ仲間の「追加戦士」たち


 通勤電車でたまたま見かけたトライガーのキーチェーンマスコットをカバンにつけた年上女性をひそかに「トライガーの君」――この呼び方がまたリアル!――と呼んで、なんとか彼女を仲間にしたいと願う仲村さん。しかし、仲間はほしいけどオタバレはしたくないとまさに隠れキリシタンのようなジレンマを抱(かか)えているだけに、自身もシシレオーのマスコットを身につけることで同じ『ジュウショウワン』のファンであることを「トライガーの君」に気づいてもらおうとするのが、なんともまたいじらしい……
 そのためにガチャガチャ自販機の前でがんばっていたことで、仲村さんは最後の1個となったシシレオーのマスコットをねらっていた小学3年生のメガネ男子と運命の出会いを果たす。しかし、「トライガーの君」に対し、彼のことをホラー映画『オーメン』(76年・アメリカ)に登場した悪魔の子・ダミアンと呼ぶのは、いくらなんでもヒドすぎるだろ(笑)。まぁ、ダミアンはダミアンで仲村さんのことを、知り合った当初は「カプセルの人」と呼んでいるのだが(爆)。


 めでたくダミアンを特撮オタの仲間としてゲットした仲村さんだが、親に強制された塾(じゅく)に通うのを嫌がっていたダミアンは、塾に通うには遠回りになる地下通路をジュウショウワンの秘密基地に見立てて自身をそのメカニカルスタッフだと思いこむことで、「この通路を通ると、塾へ行くのがちょっとだけ楽しい」と仲村さんに語る。
 この場面でも「エマージェンシー」とのアナウンスとサイレンが流れる中で、赤いヘルメットと隊員服姿のダミアンがジュウショウワンとともに出動し、シシレオーが「今日の算数は手強(ごわ)そうだぞ」などとダミアンに語りかける妄想(もうそう)が描かれていた。
 先の『SSSS.GRIDMAN』に登場したレギュラーキャラである特撮オタの男子高校生・内海将(うつみ・しょう)も、ひそかに恋していた同級生の美少女・新条アカネが実は悪だったという終盤で判明するツラい現実にしっかりと向き合っていたものだ。そんなダミアンが「君もいっしょに出動するぞ!」などと、先述した北代さんに対して苦手意識があった仲村さんに心の変遷(へんせん)をもたらして、ダミアンの方も「カッコいいね! ダミアン隊員」などと呼びかた仲村さんにVサインで応(こた)えてくれるという第3話『ツイカセンシ(追加戦士)』後半の描写は、個人的には本作のベストかと思えるほどの名場面だった。


 そのダミアンの協力を得たことでシシレオーのマスコットを入手した仲村さんは、やはり電車内にてアイコンタクトで「トライガーの君」に気づいてもらうことに成功した! この際にマスコットのチェーンが揺れるのを強調した音響演出も、まさに運命の出会いを象徴しており実に秀逸(しゅういつ)だった。
 途中の駅で降りた「トライガーの君」は車内の仲村さんに向かって手を振る際に、いつのまにかトライガーに変身していたが(笑)、第2話『トライガーノキミ』にてジュウショウワンショーの会場で仲村さんは「トライガーの君」とバッタリ出会って、彼女の名前が吉田さんであることを知る。
 いっしょにショーを観ることになったふたりは最初はぎこちなかったものの、先述した『SSSS.GRIDMAN』の内海もそうだったが、好きな作品や推しキャラの話をしているうちに急にイキイキとして目を輝かせて、テンション全開で熱く語りだす生態描写は実にリアルだ(笑)。
 特に吉田さんは第1話から一見おとなしいお嬢さま風であることが強調されていただけに、その激変ぶりが顕著(けんちょ)だったが、自身が中学生のころに観ていた『エマージェイソン』を仲村さんが就学前に観ていたことを知って「年が10近く違うってこと!?」と衝撃を受けた吉田さんが、ややテンションが下がってしまう演技も絶妙だった(笑)。ググってみると、演じた倉科(くらしな)カナもまたすでに30を超えていたという事実には、「いつのまに……」とこちらも衝撃を受けてしまったが(爆)。


特オタ「女子」と「男子」の違いとは?


 ところで、以降の仲村さんと吉田さんの会話に注目してみると、


・『ジュウショウワン』の魅力はキャラクター!
・殺陣(たて)がカッコいい!
・変身やロボ戦こそが魅力!
・追加戦士の弓矢がいい! 弓キャラ最高!(笑)


といったことをワイワイキャッキャと話しており、ドラマやテーマに関してはほとんど口にしてはいなかったりする。


 ちなみに吉田さんはトライガーについては「融通(ゆうづう)がきかない不器用なキャラだが、筋はキチンと通すところが魅力だ」と語っていた。これもまた、先述した『怪獣倶楽部~空想特撮青春記~』で毎回描かれた喫茶店での怪獣倶楽部の会合にて、メンバーたちが怪獣番組のドラマやテーマについて熱く語っていた描写とは大きく異なっている。これは時代の違いというよりは、性差別的になるかもしれないが、オタ女子とオタ男子の違いだと解釈すべきものだろう。


 「80年代をリードする(笑)ビジュアルSF世代の雑誌!」をキャッチコピーに1980年1月に朝日ソノラマから創刊された雑誌『宇宙船』では、当初は当時放映されていたスーパー戦隊や『宇宙刑事』シリーズ(82~84年・東映 テレビ朝日)といった東映の新作シリーズを完全に無視していたが(汗)、戦隊シリーズ超電子バイオマン』や『宇宙刑事シャイダー』(ともに84年・東映 テレビ朝日)が放映された80年代半ばあたりから編集者に後年の脚本家・會川昇(あいかわ・しょう)が加入したことで、ようやくそれらをチラホラと扱うようになり、読者投稿欄でもそれらの変身前を演じる役者たちや現在のジャパンアクションエンタープライズの前身・ジャパンアクションクラブに所属するアクション俳優たちに対するオタ女子たちの熱いラブコールが見られるようになったものだった。
 飛んで、「平成」ウルトラマン3部作(96~98年・https://katoku99.hatenablog.com/archive/category/%E5%B9%B3%E6%88%90%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%A9)の放映当時も、オタ男子がそのドラマやテーマについて語っていたのに対して、オタ女子の方は防衛組織の隊員について誰がいいとか誰が好きとかを語ることが圧倒的に多くて――これは当時の本誌も例外ではなかった。つーか、今の本誌にはナゼ女性のライターがいないのか?(爆)――、70年代末期に起きた空前のアニメブームの中でオタ女子が『宇宙戦艦ヤマト』(74年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20101207/p1)の主人公・古代進がいいだの『機動戦士ガンダム』(79年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/19990801/p1)の美形敵役シャア・アズナブルがカッコいいなどといった、それこそ「推し」のアニメキャラ語りの延長線上にあるものだったのだ。


 それらを嘆かわしいと思っていた時期が筆者にもあったので決して無罪ではないのだが、我々も子供のころはドラマやテーマよりも変身後のヒーローそのものをカッコいいと思っていたように、オタ女子たちの見方があながち間違っていたとは云えなかったのだと考え方を改めてもいるのだ。ヒーローがカッコいい! 変身前の青年主人公たちもカッコいい! むしろ、それこそが特撮ジャンルの本質を突いているのではなかろうか!? そして、ムサいオタ男子たちが騒いでも世間からはキモがられるだけだが、それよりかは見栄えがよいオタ女性たちが騒いでくれたことで、世間における特撮ジャンルのステータスが上がったのも事実なのだ(笑)。
 ドラマやテーマよりも平成仮面ライダーの悪役たちを「ネタキャラ」として消費したり、『ルパンレンジャーVSパトレンジャー』の朝加圭一郎(あさか・けいいちろう)=パトレン1号を「圭ちゃん」などと呼び、それがネットのホットワードと化して盛りあがったりする近年の傾向からすれば、実はオタ女子の方がオタ男子よりも昔から特撮番組の真の魅力についてキチンと語っていたのではあるまいか!?


苦悩していたのは「特オタ」ばかりではなかった!


 つづいて、吉田さんの勧(すす)めで仲村さんがあるイケメン俳優が好きな同僚の女子に、その俳優が無名時代に出ていた特撮ヒーロー作品を観せることで「仲間」にしようとする。しかし、仲村さんが本当に観てほしかった変身場面や巨大ロボ戦をその女子は「退屈パート」(笑)として飛ばし観してしまい、「1クール分をアッという間に観た」として貸した翌日には円盤を返されて、その作戦は失敗に終わってしまう。
 その同僚とのやりとりをよりによって職場の飲み会の席でやらかした仲村さんは、あやうく同僚たちにヒーローもののDVDジャケットを見られそうになるものの難を逃(のが)れて、とっさにそばの席にいた北代さんに「趣味は何か?」とたずねてしまうのだ。しかし、「いい年をしてマンガ・ゲーム・ぬいぐるみ・オモチャとかに夢中になっているような痛々しい連中を見ていると、趣味なんかなくてもいいと思ってしまう」と冷酷な口調で語った北代さんは、「興味もないのに、その場しのぎで趣味聞くってどうなんですかね?」と仲村さんに痛烈な一撃を浴びせ返すのだ。


 災難はこれだけではなかった。吉田さんと『ジュウショウワン』の追加戦士・セロトルのショーを観に来ていた仲村さんは、セロトルと握手している現場を北代さんに目撃されるばかりか――おもわず仲村さんの手に力が入ってしまい、セロトルが痛がる演技が芸コマだ(笑)――、「会社にも変なオモチャ持ってきてるよね?」と、すでに特撮オタであることが北代さんにバレていたことが発覚する!
 第1話のラストで仲村さんと吉田さんが「仲間」となった電車にすでに北代さんが乗り合わせていたり、第2話のラストで仲村さんが誤ってロッカールームの床に落としたカプセルを北代さんが拾ったりと、伏線は充分に張られていたのだが、覚悟を決めた仲村さんが「好きなものに年齢とか性別とか関係ない」との持論を主張するや、北代さんは「まわりはそういうふうに思ってないよ」と語るのであった……


 第4話『オタクノキモチ』の冒頭にて、北代さんが回想するかたちで語られた、仲村さんに対する北代さんの態度・行動の動機には実に重たいものがあり、大半の視聴者が感情移入をせずにはいられなかったことだろう。
 某企業で営業として務めていたバリバリのキャリアウーマンだった北代さんは、会社の同僚との飲み会に同席させた友人の女子大生・みやびさんに同じ男性アイドルグループの大ファンであることをバラされてしまい、職場内でアイドルオタであることをイジられまくった末に退職を余儀(よぎ)なくされて、みやびさんとも絶縁状態となっていたのだ。北代さんが落としたパスケースにそのアイドルグループのトレードマークが入っていたことで、仲村さんは北代さんがドルオタ(アイドルオタク)であることを知り、自身もされたら最も困るような、北代さんが隠していることを無神経にホジくり返していたことを自覚して罪悪感にさいなまれる……


 いい年をして特撮オタをつづけていることの言い訳として、我々も心の中で「誰にも迷惑はかけていない」などと主張したりするのだが、知らず知らずのうちにこんな迷惑をかけてしまう可能性もあることを我々は肝(きも)に銘(めい)じておくべきなのかもしれない。
 それにしても、キャリアウーマン時代の北代さんはどう見てもリア充にしか見えず、現在のお局様みたいな北代さんとは完全に別人と化したかのように見えてしまう、彼女を演じる木南晴南(きなみ・はるか)の演じ分けは実に見事だった。特に第3話のラストで、仲村さんが手渡そうとしたパスケースを即座にひったくり、「ハ? あなたが仲間?」と眉間(みけん)にシワを寄せる表情演技は絶品!


 ちなみに北代さんが夢中になるアイドルグループを演じたのは、名古屋を拠点(きょてん)に活動する実在のアイドルグループ・BOYS AND MEN(ボーイズ・アンド・メン)だそうであり、実は『仮面ライダー鎧武(ガイム)』(13年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20140303/p1)で主役のライバルでもある副主人公・駆紋戒斗(くもん・かいと)=仮面ライダーバロンを演じた小林豊もそのメンバーのひとりなのだ。筆者は特撮とは何の関係もないイベントで氏のトークをたまたま見かけたことがあるのだが、実際の氏は戒斗とは正反対の完全なチャラ男だった(爆)。


 「心狭(せま)いなアタシ……」とパスケースを見つめた北代さんは、アイドルグループのライブ会場にてみやびさんと初めて出会った日のことを回想する。アイドル好きに年齢なんて関係ないと、あのとき仲村さんのように語っていたみやびさんから「会って謝りたい」とのメールが北代さんに届いた。ふたりの仲を仲村さんと吉田さんが取り持つことで、特撮オタ女子2名とアイドルオタ女子2名が合体をとげて、第5話『ウミノジカン(海の時間)』ではこの4人で旅行に出かけるほどにその関係性は劇的に変化する。最高の仲間たちに恵まれることとなった仲村さんだが、まだ最大の敵が待ち受けていたのだ。


「価値観」の違いの果てに……


 第1話から回想で再三点描されてきたように、仲村さんが幼いころから特撮好きであることを毛嫌いしてきた母・志(ふみ)が、第6話『ハハノキモチ』では正月になっても実家に帰省しない(!)仲村さんを見かねて突然上京してきた。特撮グッズであふれかえった部屋には入れるワケにはいかないと、仲村さんは兄の助言で高級料亭で志と会うことになる。しかし、その前に合いカギを使うことですべてを知ってしまった志は、仲村さんを散々ののしったあげくにビンタを食らわし、仲村さんの部屋から持ってきたシシレオーのフィギュアを破壊してしまう! これに逆ギレした仲村さんは「じゃかましいクソババア!」と志を殴り返し、もう親でも子でもないとタンカを切る!


 この場面は一部では賞賛の声があがっているようだが正直、筆者は正視できないものがあった。私事で恐縮だが、筆者ももう何十年も前の若かりしころに、コレとほぼ同じケンカを両親とやらかしたことがあったからだ(汗)。バブル景気の絶頂期に大学を卒業して東京に就職した筆者はいろいろあって5年ほどで実家に戻らざるを得なくなり、大量の荷物を整理しているときに事件は起きた。男のひとり暮らしだったのに荷物があまりに多いことを不審がった母が部屋に入ってきたとき、筆者はまさにダンボールから大量のフィギュアや書籍、今はなき映像ソフト・レーザーディスクやCDなどを出している最中だった。

 
「まだこんなん持ってたん!?」「恥ずかしいと思ってるんでしょ、自分でも!」「30すぎてもロクでもないことしていくつもり?」「ひとりになるよ!」……


 それはベテラン女優・松下由樹が演じた志の仲村さんに対する罵倒(ばとう)とほぼ同じだった。あのときの母も志と同じ表情をしていた。松下の演技はあまりにもリアルにすぎたのだ。幸いコレクションを破壊されることも暴力の応酬(おうしゅう)もなかったものの、仲村さんのごとく「まちがってるとか、これっぽっちも思わない」と主張した筆者に、父は「その考えが変わらないなら、3日以内に出ていけ」と通告した。筆者は大量の荷物を放置したまま、必要最小限の衣類と生活用品だけを手にして翌日、実家をあとにしたのである。


 とはいえ、その直後の1995年1月17日に阪神・淡路(あわじ)大震災と同年3月20日に地下鉄サリン事件が起きた。そのあまりの惨状に、前者には特撮怪獣映画の都市破壊映像、後者には東映変身ヒーロー作品の悪の組織によるテロ行為といった、自身が愛好してきた特撮ジャンル、そして自分自身の本質的な不謹慎性を痛感してしまった筆者は、このときにはじめて偏見が混在したものではあっても両親の自分に対する怒りを理解できたような気がしたために、しばらくヤメオタとなる……


特撮嫌いは「悪」なのか?


 序盤から『ジュウショウワン』の敵・ゲンカ将軍――特撮好きで、東映変身ヒーロー作品の常連声優・関智一(せき・ともかず)が声を務めた――の姿と重ね合わせて描かれたほどに、志は仲村さんに「女の子らしさ」を押しつける「悪役」とされてきた。
 ただ、志はいささか極端な例だろうが、大抵の親は自身の子供に対して大なり小なりその価値観を押しつけるものではないのだろうか? 大学時代はずっと玩具店でアルバイトをしていた筆者は、店頭でそんな事例をさんざん見せつけられたものだった。もし特撮オタが親になったら、子供にも特撮番組を押しつける人間が多いだろうが、子供にそれを否定されたとしたら、やはり悲しい気持ちになるのではなかろうか?


 その人相の悪さから仲村さん個人は避けてきたものの、女児向けアニメ『プリキュア』シリーズ(04年~・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20201227/p1)がモデルとおぼしきヒロインアニメ『ラブキュート!』が好きなことが発覚したために、仲村さんの仲間となった駄菓子屋の店主である任侠(にんきょう)さん――もちろん見た目から仲村さんが内心で読んでいるアダナ――の母親のような、理解のある親の方がむしろ珍しい部類だろう。
 小学生のころからガタイは大きかったのに、その内面は乙女チックであった任侠さんが『ラブキュート!』を観ていたら、母親が部屋に入ってきたためにあわててテレビを消した任侠さんに「なんで消すの? 観てたんでしょ?」と声をかけ、再度テレビをつけて「おもしろい?」と問いかける母親…… 好ましくないと思いつつも決してそれを否定しなかった任侠さんの母親はまさに親の鏡であるのかもしれない。


 また私事で恐縮だが、幼稚園のころに近所に男の子みたいな女の子が住んでいた。そのコはいつも男子に混じって仮面ライダーごっこウルトラマンごっこをして遊ぶばかりか当時、ブルマァクから発売されていた怪獣ソフビや怪獣図鑑ソノシートなどを大量に所有していたのだ。しかも、そのコの通園バッグにはウルトラマンエース対宇宙怪獣エレキングの見事な刺繍(ししゅう)がされており、そのコが持っていた特撮巨大ヒーロー『マグマ大使』(66年・ピープロ フジテレビ)のお面には実物のマスク同様にタテガミが縫いつけられていたほどだったのだが、それらはそのコの母のお手製だったのである。そのコの母は娘に「女の子らしさ」を強要するどころか、男の子みたいな娘の趣味を積極的に支援までしていたほどなのだから、仲村さんからすればなんともうらやましいところだろう。
 しかし、子供は親を選べないというきわめて当然のことを思えば、「毒親(どくおや)」の域に達した親もいるので縁を切った方がよい場合も少数はあるのだろうが、そこまでの域に達してはいないのであれば妥協して、あまり親に対して恨(うら)みつらみをつのらせるのではなく、不満はあっても縁は切らずに独立・下宿して距離を置くだけにとどめたり、テキトーに右から左へと流していったりすることも必要だろう。任侠さんの母も「子供を心配しない親はいない」と語っている――とはいえ、その心配の方向性が子供を過度に虐待することにつながることがあるのも事実なので、そこは堂々巡りとなるのだけど(汗)――。


 最終回(第7話)『スキナモノハスキ』で、特撮好きであることを志に否定されつづけてきた仲村さんは、自身もまた「女の子らしさ」を否定されるつらさをずっと志に感じさせていたのだとようやく気づくこととなる。「これはもう必要ない」と劇中劇でシシレオーが刀を投げ捨てる描写が実に象徴的だが、老いた親と青壮年期の子供との力関係によってもその最適解は異なってくるのだが、少なくとも老いて弱ってきた親に対して手をあげるような組み合わせのケースであれば、それは軽々しく賞賛すべきではないと筆者には思えるのだ。
 まぁ、筆者が「あのとき」の両親の年齢に近づいてきたこともあるだろうし、仲村さんがいまだにトラウマとなっているほどの、大事にしていた幼児誌『てれびくん』や『テレビマガジン』ならぬ『てれびキッズ』(笑)を志が焼きイモのたき火(爆)にくべてしまったような目にあった人々の気持ちも、痛いほどによくわかるのだけれども。


NHK名古屋放送局はオタばかり?(笑)


 青いシャツに白のベストと、誰がどう見ても『仮面ライダーV3(ブイ・スリー)』(73年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20140901/p1)の主人公・風見志郎(かざみ・しろう)の姿をした店員――演じた宮内洋(みやうち・ひろし)の特別出演は、我々以上にある特定の世代の一般視聴者をおおいに喜ばせたことだろう――がいる書店にて、仲村さんが『てれびキッズ』を堂々と、いや、甥(おい)へのプレゼント設定(笑)で買う場面で『トクサツガガガ』は幕となった。


 そして、最終回が放映された2019年3月1日に行われて大盛況となった緊急ファンミーティングの会場にて、本作を製作したNHK名古屋放送局の局長自らが、続編つくる気マンマン! であることをアピールしたそうだ。
 なお、当日の朝7時40分から放送されたNHK名古屋の製作による『東海北陸あさラジオ』では、『ジュウショウワン』の主題歌と併用されることで劇中劇とドラマをリンクさせることにおおいに貢献(こうけん)した、かつて『仮面ライダーウィザード』(12年)の主題歌も担当したゴールデンボンバーによる『トクサツガガガ』の主題歌『ガガガガガガガ』とカップリング曲の『こんにちは孤独』――タイトルに反して、こちらも王道のヒーローソングだ!――が流されて、本作の最終回の放映日であることをPRしていた。
 ちなみに、残念ながら本稿を執筆している当日に最終回を迎えてしまったこの『東海北陸あさラジオ』は、担当者の趣味なのだろうがオタッキーな選曲をすることが多くて、先日もアニメソングの大王・ささきいさおの代表作である『宇宙戦艦ヤマト』(74年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20101207/p1)第1作目のエンディング主題歌『真赤(まっか)なスカーフ』と『ザ☆ウルトラマン』(79年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/19971117/p1)のエンディング主題歌『愛の勇者たち』をカップリングで流していた。まぁ、こんな調子なのだから、またなんかやらかしてくれるだろう(笑)。


(了)
(初出・特撮同人誌『仮面特攻隊2019年春号』(19年3月31日発行)~『仮面特攻隊2020年号』(19年12月28日発行)所収『トクサツガガガ』合評4より抜粋)


『假面特攻隊2019年春号』「トクサツガガガ」関係記事の縮小コピー収録一覧
・各話視聴率:関東・中部・関西全話&平均視聴率
中日新聞 2018年12月6日(木) 特撮オタク女子 コミカルに NHK名古屋制作「トクサツガガガ」(制作発表)
中日新聞 2019年1月18日(金) トクサツガガガ(新)NHK後10・00(TV欄・紹介記事)
中日新聞 2019年1月25日(金) トクサツガガガ NHK後10・00(TV欄・紹介記事)
朝日新聞 2019年2月1日(金) 試写室 トクサツガガガ(TV欄・紹介記事)
・NHK名古屋放送局「トクサツガガガ」宣伝絵(写真)ハガキ


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げんしけん二代目』 ~非モテの虚構への耽溺! 非コミュのオタはいかに生くべきか!?

  http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20160623/p1

トクサツガガガ』(TVドラマ版)総括 ~隠れ特オタ女子の生態! 40年後の「怪獣倶楽部~空想特撮青春記~」か!?

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